左の眉毛がなくなり、右目がなくなった。

 これが、ルールを理解するまでに失った部位である。

 残された顔の表面にあるパーツは4つ

 右の眉毛、左目、鼻、そして唇。

「なんなの……これ」

 控え室に戻り、エミは1人呟く。携帯を開くが、電波は繋がらない。

「うっうう……」

 鼻をすする音が部屋を支配する。

 やるべきことは全てやった。

 下の階から逃げようとした。しかし扉は外側から鍵がかけられていて開かなかった。

 窓を開けて助けを呼んだ。通りかかる人はいないため、エミの声は風の中に消えていく。

 しかし、何より恐ろしかったのは、

「……なんでビルの階数が上がってるのよ」

 窓の外の風景がおかしかった。地面が想像よりも遠い。塾の受付は二階にあったはずなのに、見る限り明らかに自分のいる階は七階以上。

 窓から逃げようとすれば骨折では済まない。

 飛び降りれば簡単に死ねる。

「くそっ。……くそくそくそくそふざけんなふざけんなふざけんなふざけんなふざけんなふざけんな!」

 エミは叫んだ。泣き叫ぶ。


「はい。三つ目」


 背後から、絶望が聞こえた。

 おそるおそる振り返る。

 顔のない子供が立っていた。

 弾けそうになる声の塊を必死で飲み込み、エミは質問する。

「……いつからいたの?」

「さっき。先生が授業を始めてくれないから呼びにきた」

 分かりやすい回答だった。そしてエミは泣きながら自分の顔に触れる。

 鼻は、あった。

 話をしているから口もある。

 目は見えている。

 つまり、

「右の、眉毛」

「その通り。良かったね。眉毛ならなくなってもまた生えてくるよ」

 子供が手を差し伸べてくる。残る顔の表面のパーツは三つ。

「……あたしに何しろって言うの」

「簡単だよ。授業をしてくれればそれでいい」

 子供の要求はシンプルだった。

 エミに授業をしてほしい。

 授業以外は求めていない。

「最後まで授業をすれば、全部返してくれるわけ?」

 怒りや悔しさ、戸惑い、様々な感情を含んだ質問だった。そんなエミに対して、子供はこう言った。

「うん。ちゃんと返してあげる」

 子供はそう言ってエミの手を掴む。連れられて、階段を一段ずつ上がる。

 エミは、何度も暗唱した。

「子供の前で叫んではいけない

 存在しない部位について指摘してはいけない

 カリキュラムを途中で放り出さない

 嘘をついてはいけない

 子供の前で叫んではいけない

 存在しない部位について……」


 ×××


 チョークが黒板を打つ音。

 鉛筆の先がプリントを擦る音。

 勢いよく上げた手が、空気を切る音。

「先生、ここはどうやって解くの?」

「うん? ここはね……」

 状況に慣れてからのエミはすさまじかった。

 以前のバイト先でバイト生ながら正社員講師顔負けの授業をやっていただけあり、エミの教え方は非常に分かりやすいものだった。 子供たちもおしゃべり一つせずエミの授業に聞き入り、教室には不思議な一体感があった。

 また、子供たちも顔がないだけで、特にそれからエミにいじわるなことをすることはなかった。むしろ、普通の子供より授業態度が良いとすらいえるかもしれない。

 皆がよく質問をし、皆がしっかりとノートをとった。前にエミが担当した教室の生徒よりも、解かせたミニテストの正答率が高かったのにも驚いた。

 もしかしたら、私は少し偏見をいだいていたのかもしれない。

 エミは自分が見た目だけで子供を判断していた可能性を考え、少しだけ悔いた。

「はい、それじゃあ一つ目の授業はこれでおしまいです」

 ようやく、元から指示されていたカリキュラムをこなし、エミは初めての授業を終えることができた。子供たちも持っていた鉛筆を机に置く。

「先生」

 一人の男子生徒が手をあげる。エミはその子の傍に近寄った。

「どうしたの?」

「はい、これ見て」

 生徒は何かをエミに渡す。エミはそれを手に取って驚いた。

 手鏡だった。

「……これを、どうするの?」

「あげる。自分の顔を見てごらんよ」

 無邪気な声だった。エミは少しだけ怖かったが、それに従うことにした。

「ありがとう……えっ?」

 そこに映ったものを見てエミは驚いた。

「目が」

 あるはずの場所に触れる。

「目が、戻ってる」

 鏡には両目でこちらを覗く自分の顔が映っていた。瞳に少しずつ涙がたまっていき、こぼれる。今度の涙は両目から流れた。

「驚いたでしょ?」

「うん……これ、どういうこと」

「先生の授業が分かりやすかったから、サービス」

自然と口がにやけてしまう。目が戻ってきた。ちゃんと自分は、二つの目で世界を見ることができる。

ちゃんと授業をすれば、子供たちは顔を返してくれる。

ハンカチで目を吹いていると、泣いているエミのまわりに、子供たちが集まってきた。

「先生。僕たちいい子?」

「……そうね。いい子だと思う」

「ほんとに私いい子?」

「うん。とってもいい子」

「じゃあさ――」

一人の男の子が、エミの顔の前にわざわざ顔を出す。笑い方が、やけに意地悪そうだった。


「『スズモト ミツル』と僕たち、どっちがいい子?」


その言葉を聞いて、鼻をすする音が途絶えた。

「……今あなた、なんて?」

「聞こえなかった?」

「先生聞こえなかったって」

「じゃあみんなで一緒に言おうか」

子供たちの唇が、全て正面の男の子と同じ形になる。

「「「「「『スズモト ミツル』と僕たち、どっちがいい子?」」」」」

ハンカチがふわりと、床に落ちた。そうして、エミの唇が震えた

「……どうして、あなたたちがスズモトくんのことを知ってるの?」

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