受験戦争を勝ち抜き、一流私立大学の教育学部に入学したアンドウ エミは、小学生時代からずっと憧れていた塾講師のアルバイトを始めた。

 昔からずっと自分で授業をしてみたいと思っていたためか、エミはあっという間にバイト先の人気講師になった。たった半年で時給が先輩のアルバイト講師を超え、二年目には中学受験に挑むクラスを複数掛け持ちで担当できるまでに成長した。塾という環境は、エミを生徒としてだけでなく講師としても高く評価してくれた。


 問題が起きたのは三年目の夏だった。


 可愛がっていた成績優秀な男子生徒との間によからぬ噂がたった。

 どうやら、教室の外で個人的に会って指導したことが他の生徒に見つかり、嘘も交えて教室中に広まってしまったらしい。

 男子生徒は、他の生徒にからかわれる状況が苦しくなり、塾をやめた。エミは規則違反でバイト先をクビになった。

 新しいバイトを探さねばならなくなったある日、エミは学生向けアルバイトサイトで妙な求人広告を目にした。

「日給……五万円?」

 聞いたこともない個人塾だった。難関私立中学クラスの集中講座を担当してくれる講師を募集しているらしい。

 近所の塾や前のバイト先の系列塾で噂が広まっていることもあり、エミを雇ってくれるのは隣街の個人塾ぐらいしかなかった。前のバイト先以下の給料で働きたくないと思っていたエミにとって、それは最高の求人に思えた。さっそくエミは応募し、三日後に面接を受ける。

「お待ちしてました」

 面接会場にいたのは、サトウと名乗る紙マスクをつけた四十代の女性だった。サトウはいくつか簡単な質問をした後に「合格です」と言い、エミを講師として採用することを決めてくれた。ふっと安心するエミに、サトウは追加の説明をする。授業はここではなく、個人塾の保有する施設で行うこと。エミには最高レベルのクラスを担当してもらうこと。

「実はね、ウチはいつも複数の塾を掛け持ちしてるような社会人講師しか雇わないのよ。けど、アンドウちゃんは優秀そうだから、学生だけど雇っちゃった」

 自分を認めてくれた言葉に浮かれて、その教室にサトウ以外誰もいなかったことを気にかけなかった。今思えば、そこでおかしいことに気付くべきだったかもしれない。

「アンドウちゃん、約束して欲しいことがあるの」

 時は現在に戻る。

 上の階へと連れて行かれたエミは、教室に入る直前にアンドウにこう言われた。

「大声を出しちゃダメよ」

「大声?」

 どういうことか分からない。

「ここの教室は狭いから、大声を出さずに授業をしても十分聞こえるの」

「でも、どうして」

「それから」

 エミの質問は途中で止められる。

「目、鼻、眉毛、この三つのことについて子供達に指摘しちゃダメ」

「は?」

「三つ目、最後まで授業をやり遂げること」

 三つ目の約束については当たり前なような気がしたが、二つ目については疑問が残る。

「最後に」

「まだあるんですか?」

 要求が多くて嫌になりそうだった。聞きたいことは山ほどあったが。エミは質問しなかった。

「絶対に、子供に嘘を教えないで」

 エミは、黙って頷いた。

 サトウが扉を開ける。

 教室に足を踏み入れると、独特の光景が目に飛び込んできた。

 中にいたのは十人ほどの子供だった。全員が白い服を着ていて、机に顔を伏せている。学級問題の犯人捜しをする光景に、よく似ていた。

「みんな。今日の先生が来てくれました」

 サトウさんが、発言すると生徒たちがクスクスと笑いだす。気味が悪い。

「アンドウちゃん。自己紹介をお願いします」

 サトウが促すと、笑い声はぴたりとやんだ。エミは簡単に自己紹介を始める。自分の名前と、担当教科、前の塾では難関校を受験するクラスを担当していたことなど。

「先生は、僕たちの『顔』を見ても絶対驚かない?」

 後ろの席の子供から質問が飛んでくる。

 顔が伏せられているため、声はこもっている。嫌な聞き方だった。サトウからは事前に障害を持つ子供とは聞かされていたものの、詳細ははぐらかされている。どんな顔をしているのか想像がつかない。しかし、エミは教育学を学んでいるものとして障害者への差別には人一倍強い正義感を持っているつもりだった。見た目による差別で苦しむ子供たちのビデオなどはたくさん見てきたつもりであり、それに関する一万字以上のレポートを書いたこともある。

「うん。先生は絶対に驚かないよ」

「本当に?」

 別の席から声がした。

「本当だよ」

「じゃあ、せーので顔を上げるからね」

 そうして、生徒たちが顔を上げた。

 落雷の音が、外で響いた。

 エミは思わず悲鳴をあげてしまった。

 落雷に驚いたのではない。生徒たちの顔が信じられなかったのだ。


 全員、顔がない。


 正確に言えば、鼻から上のパーツが存在しない。顔の表面はまっさらな更地になっていて、口元だけが笑っている。

「な、何よ……何よこれ!?」

 エミは叫んでしまった。

「安心してよアンドウちゃん。この子たちは優しい子達だから」

「どう見ても普通じゃない!? こいつらは何!? 鼻と目はどこ!? どうしてこんなにたくさんいるの」

 エミはヒステリックに喚き続ける。しばらく頭を抱えてしゃがみこんだ。子供たちのケラケラという笑い声が教室に響き渡る。

 数十秒が経過した。

 エミはゆっくりと顔をあげて、サトウの表情を伺おうとした。

 いない。

「……嘘?」

 首筋を汗が伝う。恐る恐る立ち上がり、周囲を見渡す。ニタニタと笑う顔のない子供たちはそのまま。しかし、唯一状況を説明できる人物、サトウの姿がない。

「もう、やだ」

 エミはもう泣いていた。誰でもいいからこの状況を説明して欲しかった。顔を抑えて涙を拭こうとする。

 違和感があった。

「……あれ?」

 その出来事を、エミは信じることができなかった。もう一度自分の顔に触れる。しかし、感触はそうとしか思えない。

「あはははは。『二つ』だ」

「あはははは。もう『二つ』もおっことしちゃった」

 子供たちが笑いかける。もう、子供たちと話すしか方法はなかった。

「……どういうこと?」

「お姉さんはルールを二つ破ったんだ」

「二つ? ……ルールって何よ。意味がわかんない」

 聞き返すと、子供たちが一斉に黒板の上を指す。エミが振り返ると、そこには張り紙があった。


 規則1 子供の前で叫んではいけない

 規則2 存在しない部位について指摘してはいけない

 規則3 カリキュラムを途中で放り出さない

 規則4 嘘をついてはいけない


 エミは、自分の行動を振り返る。

『な、何よ……何よこれ!?』

 子供たちが顔を上げた時、エミは叫び散らかしていた。

『どう見ても普通じゃない!? こいつらは何!? 鼻と目はどこ!? どうしてこんなにたくさんいるの』

 エミはサトウに向かって子供たちの「目」や「鼻」について直接聞いてしまった。

「……ルールを破るとどうなるの?」

「トイレに行って鏡を見てくれば?」

 子供に連れられて、トイレに向かう。そして、鏡で自分の顔を確認する。

「あ、あ、あ」

 真横のカオナシがニタニタ笑う。

「気づいた? ルールを破ると、顔のパーツがひとつ減るんだよ。お姉さんが最後までしっかり授業をやってくれたら、顔のパーツを返してあげるよ」

 エミの涙は、片目からしか流れなくなった。

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