カオナシ――ルールを破ると顔がなくなる教室

TARUTSU

 ワイパーが雨粒を弾く。

 助手席に座るエミは、窓に打ちつける水滴が払われる様子をぼーっと眺めていた。

「アンドウちゃん」

 名前を呼ばれて、エミの意識が尖る。会話に集中するために、運転席のほうをチラリと見た。

「何ですかサトウさん?」

「履歴書にも書いてあったけど、アンドウちゃんはT学院出身なのよね」

 サトウ、という四十代の女性はハンドルを切りながら質問をする。タイヤが水たまりを踏み、水しぶきをあげる音がした。

「まあ、そうですけど」

「すごい。あなたが担当することになるクラスにもT学院を目指す子がたくさんいるのよ」

 サトウは、紙マスクの下で声を少しだけ弾ませた。中学受験の講師には出身大学だけでなく出身中学や出身高校の良さも求められる。特にエミのような名門私立高校出身の場合、他の学生アルバイトより時給が高くなることすらあるのだ。

「T学院に入るなんて、相当お勉強したんでしょう?」

「いや、そんな」

「謙遜しなくてもいいのよ。……で、どんなふうにお勉強したの?」

 エミは少し苦い顔をした。

 こういう質問に答えると、決まって人に「かわいそう」だとか文句を言われる。それが嫌なのだ。

「もう、ずっと塾にいました」

「塾に? 毎日?」

「はい。でも嫌いではありませんでした」

 むしろ、好きだったとすら言える。

 小学生の時、クラスに話が合う友達がいなかったエミにとって塾という空間は特別なものだった。


 学校は、退屈だ。


 好きでもない体育。得意じゃない図画工作。クラス内に派閥が存在し、問題児のせいで授業がまるまる潰れる。やる気なさそうに、何一つ工夫のない授業を行う先生。誰もが仕方なく通い、目的もなく時間が消費されていく。エミには、小学校がそんな場所に思えた。


 それに比べて、塾はなんと刺激的なのだろうか。


 やるべきことは勉強だけで良い。入塾テストによってバカが排除されているため、学級問題など絶対に起きない。男女隔てなく仲が良く、教室に差別なんて存在しない。

 何より、授業が面白かった。

「言葉が世界を作るんだ」「数式は嘘をつかない」「英語は世界言語だ」

 講師全員が担当する科目のすばらしさを語ってくれる。

 教え方は工夫されていて、皆が「教える」という行為のスペシャリスト。全員が「勉強ができる」ということを正当に評価してくれる。

 学校は、努力してないやつですらみんな平等。クラスで目立たない存在だったエミには、通うモチベーションがどこにもなかった。

 塾は、足が速くなくても、流行りのおもちゃを持ってなくても、偏差値が高ければクラスで尊敬される。

 だから、エミはたくさん勉強した。

 学校では無口に一人で過ごすエミが、塾に行けば教室の中心人物になれた。

 話の合う友達がたくさんいて、いつも夕方6時以降が楽しみで仕方なかった。

 学校なんてなくなってしまえばいい。朝から塾に通いたい。

 そんなふうにすら考えていたと、サトウに伝えた。

「アンドウちゃんは塾が好きだったのね。……でも、その気持ち、なんとなく分かるかも。特に学校には話の合う子がいなかったって部分」

 意外にもサトウは話に共感してくれた。その反応で、エミは少しだけサトウに好感を持った。

 しばしの沈黙が車内を支配する。信号待ちの時間が、少しだけ長く感じた。

「アンドウちゃんがこれから教える子たちも、塾が大好きな子供ばかりなのよ」

 サトウが再び口を開く。自分の子供でもないのに、どこか自慢するような口調に聞こえた。

「そうなんですか」

「ええ。本当に勉強が好きな良い子たち」

 そこまで断言されると、会うのが楽しみになってきた。早く教室で授業をしてみたい。

「着いたわ」

 サトウに言われて車を降りる。エミは傘を差しながら、目の前の建物を見る。

 ずいぶん古い造りをしたビルだった。駐車場の周囲に人の気配が感じられない。ビルのまわりには畑や林ばかり。人工物といえば、赤さびた掲示板らしきものが一つある程度だった。

「本当にここなんですか?」

 エミは少し不安になった

「ええ。そうよ」

「子供たちはどこに?」

「もう教室にいると思うわ。……あ、雨が強くなってきたわね。中に入りましょう」

 車の窓ガラスをボツンと、大きな水滴が打つ。一粒落ちてからは早かった。遅れてやってくる大量の雨粒が、周囲を一瞬で覆った。

 急いでビルの中に入る。生徒を迎え入れるべき入口に電気は付いていたものの、人はいなかった。靴を下駄箱に入れる。スリッパを履き、エミは先を歩くサトウにまた問いかける。

「あの、他に誰もいないんですか?」

「気にしないで。さ、ここが講師控室」

 入り口の傍のドアを開く。中を覗くと、窓際に職員用のデスクが二つと保健室にあるようなベッドが一つ、そして、


 鳥居があった。


 高さ1mほどの赤い鳥居が、部屋の中央で存在感を放っていた。

「……あのベッドで寝るんですか?」

 あえて直接、聞かなかった。

「そう。疲れたときの仮眠用。寒かったら奥の棚に毛布が入ってるから」

 淡々と説明するサトウに、だんだんと不信感が募ってきた。教えたことのある塾は一つしかないが、この塾がおかしいことにエミは気づき始めていた。

「あの、サトウさん」

「何?」

「ほんとに私、ここで授業するんですか?」

「そうよ。三科目一〇時間集中講座。あなたはその講師をやるの」

 まばたきもせずに答えるサトウ。口元はマスクで隠れているため、どんな形をしているか分からない。

「何か嘘をついてたりしませんか?」

「うーん。嘘、というほどじゃないけど、言ってなかったことはあるわね」

 やっぱりそうだ、とエミは思った。学生向けなのに「日給5万円の塾講師バイト」という時点で気付くべきだったが、やはりおかしな案件だった。

「実はね――」

 講師用のデスクに寄っかかりながら、サトウが話を始める。窓に打ちつける雨の勢いはさらに強くなっていた。

「ここにいる生徒たちは、普通の子供たちではないの」

「それはいったいどういうことですか」

「全員が、『障害児』。それもある共通した障害を抱えてる」

 説明不足にもほどがある。エミは障害児を相手に授業を行ったことはなく、指導に不安がある。何より、そんな大事なことは面接会場で教えるべきだろうと、憤りを感じた。

「大丈夫よ。障害といえども、コミュニケーションに支障はないの。学習レベルも求人内容と同じように最難関校受験クラスで問題ないわ。あの子たちに知的障害はなくて、身体障害があると考えてほしいの」

「身体障害……耳が聞こえないとか、目が見えないとか?」

「うーん。一度会ってもらった方がいいかもしれないわね」

 サトウはそう言うと、講師控室を出ていく。「ついてきて」と言われ、エミはそれに従う他なかった。

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