20日目「旅行」

「やっと着いたー」

 電車を降りると、世界は蝉の音で充満している。心なしかいつもよりもその声が激しく聞こえるのは緑の深い場所に来たという気持ちから来ているのだろうか。

 電車を乗り継ぐこと三時間。

 目の前には「箱根へようこそ」なんて大きな看板が構えられている。

 周囲には観光客と思われる人間しかいない。ホームを見回すとまさに観光地らしく、様々な施設の広告が並んでいる。その延長でふと隣を見てみると、長旅に少々疲れ気味の莉緒が汗を拭っていた。

「大丈夫?」

「はい。こんなに電車に乗ったの、久しぶりだったので、ちょっと疲れちゃいました」

 家を出る頃のウキウキと弾むような顔はもうなく、萎れた花のように芯の無い立ち姿の莉緒は笑う。

 温泉街だったら正直どこでもよかった。温泉に入って宿でゴロゴロして、そんな非日常を味わえればよかったから、行き場所は莉緒に任せてしまった。莉緒は熱海と箱根とその他何か所で迷っていたが、探した宿のホームページが気に入ったとかそんな感じの適当な理由でここに来ることになった。

「とりあえず行こっか」

「はい」

 左手首の腕時計が示す時間は午後一時。予定は軽くしか決めていない。

 とりあえず駅前で適当にお昼ご飯を済ませて、どこかへ観光へ。宿のチェックインは五時ごろ。それまで適当に見て回って、って。結局全然予定決まっていないじゃん。

「莉緒、お腹空いた?」

「麻里さんは?」

「微妙」

「私もです」

 ふらふらと駅から出ると辺りには饅頭やらかまぼこやらのお土産が並ぶ店が並ぶ。箱根って何が有名なんだろう。調べておけばよかった。

 駅前に人はいるもののメインの商店街ではない寂しい雰囲気がある。ここの駅の数駅前で一気に人が電車から降りる場所があったからそっちが箱根の核となる駅なんだろう。莉緒がここで降りると言っていたから何かしら理由はあるんだと思うけど、それにしてももう少し賑わいがあってほしかった。折角の旅行だし。

「お昼ごはんどうしよ」

「麻里さんが大丈夫なら私は後でも」

「でも、山の方行ったら飲食店なさそうじゃない?」

「流石にあるんじゃないですか? 観光地だし」

「じゃ、先に観光回っちゃおうか」

「はーい」

 莉緒は携帯を弄りながらうんうんと唸っている。これから観光に行く場所も実は莉緒に一任している。莉緒の行きたいところに、と言えば聞こえはいいが、実際は私が面倒臭いだけ。

 予約した宿が山を登った先だったから、そっちの方角に進むことしか知らない。

「私、行きたいところがあるんですけど、いいですか?」

「いいよ。莉緒に任せる。近いの?」

「まぁ、そこそこです」

「どんなとこ?」

「ガラスの美術館らしいです」

「へぇ」

 美術館か。旅行先の珍しい美術館に行くのは、旅行の醍醐味と言えるかもしれないが、ガラスの美術館とはまた面白い。有名な作品が展示されているのか、はたまたガラスの歴史をなぞる美術館なのか。知識欲が僅かに疼く。

「そこでいいですか? バスでニ十分くらいらしいですけど」

「うん。いいよ」

「まぁ、美術館の最寄り駅で降りたんでそこ以外に行く場所もないんですけどね」

「だろうと思った」

 自販機でお茶を買ってからバスの待機列に並ぶ。列にはそこそこの人が並んでいて、皆照り付ける太陽に汗を滲ませていた。

 



 現地に到着してみると期待以上に施設は広く、予想以上に人で賑わっていた。老夫婦や若いカップルに紛れてちらほらと子供の姿も視界に入り、夏休みを感じさせる。

 入ってすぐに大きな池を取り囲むような庭園が広がる。水辺に掛かる橋やアーチ状のモニュメント。そして緑と共に並ぶガラスのオブジェ。

 視界を揺らすたびに必ず視界のどこかがキラキラと光る。そんな幻想的な空間の中を歩く。

「正直ここまで期待してなかったかも」

「そこそこ有名みたいですよ? ここ」

「莉緒、こういうの好きなの?」

「まぁ、見るのは」

 生返事が返ってくる莉緒を見てみると、空間に広がるガラスの煌めきを瞳に映したような眩しい目で辺りを見回している。相当気に入っているらしい。太陽が私達の肌を焼くがそれもお構いなしに、ゆっくりゆっくり足を進める。

 室内に入れば、また雰囲気は打って変わった。先程までの庭園では子供の声が環境音に交じっていたが、一度屋根の中に入るとコツコツと鳴る足音だけが響く様な空間が広がる。やはり子供には美術館はつまらないものなのだろうか。視界にも子供は映らない。

 作品は壁に掘られたショーケースの中に展示されている。建物自体も作りが凝っていてまるで海外の教会にいるようだった。

 アーチ状の梁のようなものが天井に掛かっていて、実際展示には関係ないであろう箇所に興味が引かれる。ヴェネチアングラスって書いてあったし、建物もイタリアを意識しているのだろうか。やはり専門性の必要となる分野は難しい。私の浅い知識では何も分からない。

「ねぇ、麻里さん。なんかここでバイオリンのコンサートあるらしいですよ」

「今日? 偶然」

「いや、なんか夏休み中はほぼ毎日やってるっぽいです」

「なんかありがたみが薄れた」

「ごめんなさい」

「有名な人なのかな」

「わかんないですけど、調べてみます?」

「別にいいや。時間は?」

「あと少しで始まると思いますよ。この建物の中の小さいホールでやるみたいです」

「行く?」

「まぁ、せっかくなんで」

 美術館を進んでいくと視界の開けた空間に出る。と言ってもそこまで広い場所ではない。三階建てのデパートの吹き抜けくらいの大きさだ。美術館の内部で壁や天井は不規則に曲がっていて、素人目でも良い環境ではなさそうだと分かる。

 無料のコンサートに文句を言っても仕方ないが、観客は結構な数いるようで。設けられた椅子やベンチに入りきらず、立ち見の客もちらほらと目に入る。みんな一様に期待に胸を膨らませている様子なので、つられて私も少し期待してみたり。

 私達はあまり人のいない壁際によって遠目からそれを見る。暫くすると美術館のスタッフの司会セリフと共にバイオリンを持ったふくよかなヨーロッパ系の男が登場した。挨拶もほどほどに演奏が始まり、私はそれに耳を傾ける。

 お世辞にも音楽を聴く方ではない私には音の違いは分からなかった。それでも流石プロだなと思うくらいにはその音は私の琴線に触れる。生のバイオリンを聞く機会なんてそこまで多くない。いつしか私は目を閉じてその空気の振動に身を預けていた。

 三十分程の演奏が一瞬のように過ぎ去った。終わってみればそれは心地よい時間で、始まる前は少し長いなと感じたそれも、もう少し延長しても良いと思える時間だった。

「よかったですね~」

 それは隣の少女も同意見だったようで。

「私バイオリンの演奏生で見たの初めてです! 空気って震えるんですね」

「気に入った?」

「はい! 目で見て楽しんで、おまけで耳で楽しませてくれるなんてすごいお得感です」

「言われてみればそうかも」

 美術館の順路を進みながらする会話はどことなく明るい。芸術に触れるとテンションがお互いに上がるらしい。

「麻里さん、お腹すきました?」

「んー。まぁ、ほどほどに?」

「さっき外の庭園の端に」

「あったね。レストラン」

「ちょっと高そうでしたけど、この際、味覚もって考えちゃう私は欲張りですかね」

「すっごく欲張り。でも、私も同じくらい欲張りかも」

「どんな感じの店なんですかね」

「美術館がこれだからイタリアンじゃない?」

「最高ですね」

 

 それから私達は少し高めのレストランに移動し、少し贅沢をしたランチを食べ。おまけに食後の珈琲なんかも頼んじゃったりして、旅行という非日常を楽しんだ。

 食後にふらふらと園内を散歩してみたり、お土産を覗いてみたり。

 お土産コーナーはかなり広く、三階建ての建物全てがそれにあてられていた。三階ではリアルタイムにガラス細工職人がその技を見せており、高熱のバーナーとガラスの棒が見る見るうちに芸術品になっていく過程に私達の口は塞がらなくなったり。そんな光景を見せられれば財布の紐も緩むもので、その後私達は別々に買い物を始めた。

 私は来週急遽変えることになった実家への手土産として、ガラス細工と関係があるのかは知らないが綺麗なボトルに入った酒を一本買った。酒の置かれる場所の近くは比較的高価な物が並んでいて、ショーケースに並ぶアクセサリーなんかも目に入る。

 綺麗だけど私が付けてもな、なんて思いながら見ていた筈なのに、気が付けばこれは莉緒に似合うだとか、莉緒に付けてほしいだとか、そんな考えに変わっていて笑ってしまう。

 莉緒はアクセサリーとか嫌がるだろうな。

 そう思いながらも私は悪戯心半分に、ショーケースの端にある比較的安いものの中から莉緒に似合いそうなイヤリングを買った。

 主張し過ぎない小さくて透明のガラス。

 店員さんに包んでもらったそれを丁寧に鞄にしまい、私は何気ない顔で莉緒と合流した。

「この後どうするの?」

「今何時ですか?」

「もう少しで四時」

「じゃあもうチェックインは出来ますね」

「ようやく温泉だ」

「麻里さん、すぐ宿に行きたいですか?」

「どうして?」

「いや、実はなんですけど、ここの近くにある場所にちょっと寄ってみたくて。そんなにいるつもりはないのでちょっと見て終わると思うんですけど」

「別にいいよ。どこ?」

「ここから歩いてもいける所なんですけどね……。えっと」

 なぜか莉緒は恥ずかしそうに私から視線を逸らす。

 恥ずかしがる莉緒が珍しくて、私はそれを覗き込むように腰を曲げる。

「なんでそんなに恥ずかしがってるの?」

「いや、ちょっと、なんか言いづらくて」

「なにそれ」

 私がケタケタと笑うと、莉緒はそれに怒るように小さく頬を膨らませながら、私を上目遣いで見上げる。

「……麻里さんは、星の王子さまって読んだことありますか?」

「え、なに? もう一回」

「星の王子さま」

 一切予期していなかった場所からの話題を唐突に出されて私は軽く混乱する。

「えっと……。星の王子さまってあの学級文庫とかによく置いてあるやつ?」

「はい。サン=テグジュペリの星の王子さまです」

「作者の名前は覚えてないけど、読んだことはある気がする。それこそ小学生の頃だけど」

 最後まで読んだかは覚えていないけど。なんとなく覚えてる。小さい星の王子さまが色んな星に行って色んな人と話す話。内容もほとんど覚えていない。

「で、その星の王子さまがどうしたの?」

「えっと……。ここの近くにそれのミュージアムがあるんですよ」

「それに行きたいと」

「麻里さんがいいなら」

 なぜかいつもと違いやけに低姿勢な彼女に笑みがこぼれる。

「私が駄目っていうことなんて滅多にないでしょ」

「でも、早く温泉行きたいかなって」

「莉緒が行きたいところあるなら任せるって。ほら、私って主体性ないし」

「そういえばそうでしたね」

 じゃあ、行きましょうと莉緒の顔に活気が戻る。この旅行のプランニングが強引だったから私に遠慮しているのだろうか。

 あ、もしかして私が明日誕生日だから気を使ってくれているのかも。この旅行も元はと言えば私の誕生日を祝うなんて名目だった気がするし、ありえなくはない。

 そんな気使わなくていいのに。

 一足先に外に出る彼女を追うように私もエアコン下の室内から出る。蒸し暑い空気と鋭い日差しが私を襲うがそんなことお構いなしに莉緒についていく。

 視界はキラキラと光り、彼女と歩くその道はまるで夢の世界の様だった。




 ガラスの美術館から歩いて数十分。目的の園内に入ると周囲は西洋の街並みに変貌した。作者はフランスの出身だという事を莉緒から聞き、この街並みもフランスの再現なんだろうかなんて考えながら見上げてみる。石造りの家や井戸、教会なんかが並び、それに隣接するようにヨーロピアンガーデンなんて書いてある庭園が広がる。閉園時間まで一時間と少しとなった園内には人影は少なく、異国の地に二人で降り立ったかのような感覚だった。

「好きなんですよ」

「星の王子さま?」

「恥ずかしくて誰にも言えないですけどね」

「恥ずかしくはないでしょ」

「だってなんか。幼く見えないですか?」

「そんなことないよ」

 ここまで足を踏み入れても作品の内容はほとんど思い出せない。園内には作品に登場するキャラクターの像がいくつか点在したけれど、それを見ても誰だかはっきりとしない。

「なんかごめんなさい」

「なにが?」

「つまらないですよね。私だけはしゃいじゃって」

 興奮を押し殺すようにして私のテンションに合わせていた彼女が申し訳なさそうに口にする。

 そんなにつまらなそうにしていただろうか。顔に出てしまっていたなら申し訳ない。

「もう話の内容も覚えてないからなぁ。ここに来るならもう一回読んでおけばよかった」

「ごめんなさい。私もここを知ったの今日の朝だったので」

「ううん。大丈夫。分からなくてもそれなりに楽しめるから」

 私は西洋風の町中を見回す。作品を知らなくてもこの雰囲気だけで充分楽しめる。

「でもそれじゃ……」

「あ、じゃあさ、莉緒が解説してよ。どうせ客もそんなにいないし、迷惑にはならないでしょ」

「それいいですね。賛成です」

 私は運よく無料の案内人を雇い、そのままふらふらと園内を歩く。

「麻里さん、この話ってどれくらい覚えてますか?」

「うーん。ほんとにほとんど覚えてないよ。小学校の低学年じゃないかな、読んだの。それこそ学校に置いてあったのを読んだ気がする」

「例えばどんなキャラクターが出てきたなとか」

「主人公? でいいんだっけ? 砂漠に飛行機が墜落した人。その人と星の王子さまが会話をする内容だったのは覚えてる。王子さま、地球に来るまで色んな星を渡り歩いてきたんだっけ。内容は覚えてないけど」

「結構覚えてるじゃないですか」

「そう? 実は記憶力はなぜかいい方なんだ」

「それはにわかに信じられないですねー」

 これでも結構いい大学を出てるんだけどなぁ。なんて面倒臭い返しをしてみても、莉緒は鼻で笑うように私の記憶力に首を振った。そんなに頭いいイメージ無いのかな。私。

「あ、この人とか分かりません?」

 敷地の端にある小さな教会に向かうと、いくつかのキャラクター像が出現した。机に座って怖い顔をしている男と、棒を持っている男、かな。

「全然わかんないや」

「星の数をただただ数え続ける男と、灯台の火をただただ点けたり消したりしている人です」

「……そんな話だったっけ?」

「そうですよ。二人とも違いはあれど使命に捕らわれてしまった人達」

「なんかもっとファンタジーな世界観だと記憶してた」

「小学生が読んだらファンタジーに読めるんじゃないですか?」

「そうかも。よくあるもんね。大人になってから読むと意味が変わってくるやつ」

「多分この作品も同じ類だと思いますよ」

 夏が終わったらもう一度読んでみようかなと思いながら、そのキャラクター達の像を見る。花壇の中に浮かぶ彼らはお世辞にも幸せそうな顔をしていない。

「莉緒はこのキャラクター達、好きなの?」

「……どうでしょう。物語の登場人物としては好きですけど。キャラクターとしてはそうでもないかもです」

「なにそれ」

「伝えたいことは色々とあるとは思うし、物語的には仕方ないとは思うんですけど、ただそういうキャラクターだって言われても、朝から晩までその仕事を全うしてる彼らが私は可哀想に見えちゃうんですよ。憐れんだ目で見ちゃいます。だってこの人達の生活は私から見たら幸福とは呼べないんですもん」

 莉緒の感受性は高い。これまでの生活からも十分にそれは分かる。必要以上に考えて、必要以上に感情を起伏させて。それでこそ彼女だと言えるのかもしれないけど、やっぱり隣で見ている私からは生き辛そうだななんて感じてしまう。

「このキャラクター達はきっと、私に似てるんだろうね」

「……はい。私にはそう見えました」

「そのさ。本編ではそうやって何かに縛られてるキャラクターに王子さまはなにか言及したっけ?」

「たしか、してたと思いますよ。特に星を数えるだけの人には辛辣だった気がします」

「そっか……。じゃあやっぱり少し可哀想だね」

「強く言われたからですか?」

「ううん。王子さまはその人達にその後なにもしてあげなかったから。……なんとなく覚えてるんだ。あの王子さま、行く星々の問題は解決してないよね。私さ、小学生にしては大人びた考え方してたんだと思う。当時、王子さまのこと無責任だなって思ってたもん」

「確かに。言うだけ言って去っていきますもんね。そういう見方をすればそうかもです」

 私は止まっていた足を前に進め、二人のキャラクター像から離れて小さな教会へ向かう。莉緒はそんな私の背中を慌てて追う。

「だったら私はこのキャラクター達より幸せだよ」

 恥ずかしい台詞だったから莉緒から私の顔が見えない今がチャンスとばかりに呟いてみる。

「どういうことですか?」

「私の星に来た王子さまは無理やり私を変えてくれたから」

 違う価値観を提示されるだけされたこのキャラクター達は王子さまが去った後にふと自分の生活のことを考えてしまうかもしれない。今の自分が幸せかそうでないのか。考えるだけ無駄なことが頭にチラついてしまうかもしれない。それまで無知なりに幸せだった彼らにとってそれは不幸でしかない。

 だったら私はきっと幸せな方。

「私、ですか」

「だって私、変わったもん。最近自覚できるくらいには、変わった。莉緒に変えられた」

「夏が終わったら私はいなくなっちゃうんですよ? それこそ無責任です」

 不安げに呟く莉緒の声は沈んでいる。多分俯いているのだろう。

 そんな彼女に私はまた熱い感情を抱く。

 恋心の様でそうではない。でも多分、幼い私だったら勘違いしていただろう程に恋心に近い感情。

 むずがゆくて、こそばゆくて、温かい感情。

 私は莉緒にもっと恥ずかしい台詞を吐きたくなって、くるりと体を反転させる。背景に教会を背負って放つこの言葉は少し重いかもしれないけど、なんだか今の気分にはぴったりだった。

「じゃあ、もっと私を変えてよ。莉緒がいなくなっても、その後に私が幸せだって思えるくらい、私を変えて」

 告白のような言葉に莉緒は目を見開く。

 そしてすぐにその目を逸らした。

「これ以上麻里さんに踏み込んでいいんですか?」

 私はその言葉に迷うことなく、首を縦に振る。

「莉緒になら、いいかなって」

「私気付いてますよ? 麻里さんまだ大きいものを私に隠してる。それを私に見せちゃったら、きっと傷だらけになっちゃいます。きっとすごく痛いです。それでもいいんですか?」

 私はまた頷く。

「多分私のこれはさ、この先の人生を考えても莉緒にしか話せないんだと思う」

「そんな大層な人間じゃないですよ」

「大層な人間だよ」

 莉緒は驚いたような顔をして溜息をつく。

「なんか今日の麻里さん、いつもと違います」

「旅の恥はなんとやらってね」

「それ使い方あってます?」

「まぁ、雰囲気は?」

 莉緒は長い溜息をつきながら私の隣を通り抜けて教会へ入る。

「やっぱりさっきのキャラクター達、麻里さんに似てます」

「なんで?」

「だって王子さまが彼等に抱いた台詞が今、そのまま引用して私の気持ちになりますもん」

「それってどんな台詞?」

 教会の中に入った彼女の頭上には小さなステンドグラスの窓がキラキラと輝いている。それに負けないくらいの美しさで彼女も笑っていた。

「大人って、何を考えてるんだか、ほんとにわからないなぁ」




「疲れましたぁ~」

「そうだね~」

 二人並んでベッドに倒れ込む夕方。窓から入る日差しは橙色。顔を埋める枕はいつもよりも柔らかい。

 莉緒の予約した温泉宿は正面玄関の風格から高級という二文字が相応しい雰囲気を放っていて、一度宿の名前を確認してしまう程だった。勿論客への対応もそれ相応のものを準備されていて、接客に慣れていない私達はびくびくしながら部屋へ案内された。

 この宿の中では恐らく一番小さいであろう二人部屋。普段の私の部屋よりも小さい部屋だが、流石はリゾート地。そこに狭さは感じられず寧ろその纏まった空間に安らぎを覚える。茶色に統一されたフローリングの一室にはソファにテレビ、ダブルベッドが置かれ、大きく開かれた窓からは箱根の緑が広がる。

 ベランダに出ればこの宿の目玉ともいえる備え付けの客室露天風呂。私達は真先にベランダに出てその檜の箱に興奮し、一通り室内を見て回った後こうしてベッドに倒れ込んだ。

「麻里さんへとへとじゃないですか」

「莉緒に言われたくない」

「二十超えると下り坂って言いますもんね」

 とりあえず寝転がったまま莉緒の足に蹴りを一発お見舞いする。

「いたーい」

「私まだ若いから」

「まだ若い人は年のこと言われて人のこと蹴ったりしないですよ」

「うるさい。そもそもその下り坂の人間と同じ体力してる若者ってどうなの」

「なんか最近体力なくなってきちゃって」

 ミュージアムを出てからは顕著にそれが表れていた。疲れを感じ始めた私の横で息切れしていたくらいだ。何度か心配したがその度に大丈夫だと言うのでそのままにしたけれど、やはり体調でも悪いのかも。

 振り返れば昨日の花火大会も疲れていたように見えたし、最近の朝の散歩もそう言われてみればと思うところがある。先入観の方が強いかもしれないけど。

「夏バテ?」

「んー。どうなんでしょ。私夏バテってなったことないんですよね」

「怠くなったり食欲がなくなったり?」

「じゃあ、麻里さんは年中夏バテじゃないですか」

「そうやってすぐ誤魔化すんだから」

「別に誤魔化してはないですけど……」

 莉緒は体を捩らせながら短い脚で私の足を弱々しく蹴り返す。彼女の裸足が私の太ももに当たり、それがひんやりと冷たかった。

「麻里さん温泉入ってこないんですか?」

「私?」

「だって、ずっと入りたがってたじゃないですか」

「まぁ、そうなんだけど。莉緒は?」

「えっと、私は……。いいかなって」

 申し訳なさそうに声を小さくする莉緒に驚く。折角箱根まで来て温泉に入らないなんて、メイン料理を食べない様なものじゃないか。

「なんで?」

「いや……」

「やっぱり体調悪い?」

「えっと」

「生理?」

「……躊躇いなく聞きますね。恥ずかしながらそれも理由の一つではあるんですけど」

「わざわざ私の誕生日に合わせたの? 温泉入れなかったら元も子もないじゃん」

「違うんですよ。いつもならもう終わってるんです。なんか偶々長引いちゃって」

「あー」

 それに関しては何とも言えない。運が悪いと言ってしまえばそれまで。

 彼女の体調が悪いのもそれに関係しているんだろう。

「って、それだけじゃないですから。そもそも私、長引いてなくても温泉には入ってなかったと思いますし」

「なんで」

「……温泉、慣れてないんですよ」

 隣を見てみると、莉緒は顔を枕に埋めている。声が籠って聞きづらい。

「こういうとこ、あまり来ないの?」

「あまりっていうか、ほとんど行ったことないです」

「それで恥ずかしいってこと?」

「……まぁ、そうです」

「なにそれ可愛い」

「馬鹿にしないでください。……他の人の裸とか、ほとんど見たことないんですよ。だからなんか怖くて」

「見たことないって……」

 たまにそういう子もいる。高校教師になって最初の年、引率としてついて行った泊まり込みの学校行事でそんな小さなトラブルを経験したこともある。その時は特別に教師陣の入浴時間にその子を招いたんだっけ。教師に見られるのはなんとか平気だけど、同級生にはどうしても無理だと泣いていたのを覚えている。

 思春期だと自分の体を見られることにも抵抗があるだろうし、温泉施設に行くことの少ない子には色々と難しいことがあるのだろう。

 莉緒も人生経験が偏っている人種だし、そういう何かがあるのだろう。

「だから麻里さんが薄着でうろうろするの正直苦手だったんですよ」

「……ごめん?」

「麻里さんの家なので、謝る必要はないですよ」

「言ってくれればよかったのに」

「言えないですよ。それにもう慣れましたし」

 無垢な彼女を無意識に苦しめていたことを知り、ほんの少しだけ申し訳なくなる。でもまぁ、彼女の言う通りあそこは私の家だし、仕方ないよね。

「じゃあなんで温泉に行こうって」

「麻里さんが行きたいって言ってたからですよ」

「無理しなくてよかったのに……」

「無理はしてないですよ。私はここの客室露天風呂で十分です。これでも楽しみにしてきたんですよ?」

 私は彼女の気遣いが嬉しくて。そして私の為にそんなことをしてくれる彼女にお礼を言いたくて。枕に顔を埋めたままの彼女の頭をそっと撫でてみる。頭に手が触れた瞬間、びくっと体を跳ねさせる。もじもじと落ち着かないように動いた後、震えるように体を固くしていたが、そのうち緊張を解いて頭を撫でられることに抵抗しなくなっていく。

「ありがとね。莉緒」

「何もしてないですよ」

「こんな楽しい誕生日はじめて」

「麻里さんの誕生日明日じゃないですか」

「そうだっけ?」

「自分の誕生日くらい忘れないでください。本当に記憶力いいんですか?」

「冗談。流石に覚えてる」

「もう」

 莉緒の小さな頭を撫でる。ゆっくりゆっくり、その短い髪に手の平を合わせていく。

 黒く細い髪はさらさらと私の指を滑り落ち、夏の日差しに当たり続けた頭からはシャンプー越しに彼女の匂いを感じる。

「私が髪の毛を触らせるなんてレアなんですよ?」

「そうなの?」

「物心ついてからは誰も触ってません」

「誰も?」

「はい。誰も。親でさえも触ってません」

 私の手が少しだけ止まる。

「でも今日は機嫌がいいので許します」

「そんなに重大なことだとは思ってなかった」

「髪を触られると、かなりのストレス値が出るらしいですよ」

「嫌ならやめるけど?」

「……やっぱり今日の麻里さん、少しおかしいです」

 緊張を隠すためにへらへらと笑いながら、私はまた彼女の髪を撫でる。

 彼女のパーソナルスペースはきっととてつもなく広い。私との共同生活は彼女にとって異常なレベルの行為なんだろう。学校での彼女の姿を見たことは無いけど、恐らく誰も寄せ付けない雰囲気を醸し出しているんじゃないか。顔が整い過ぎて近寄りづらいというか、そもそも考えていることが周囲と違い過ぎるというか。彼女への理解を深めるとそんな光景が浮かぶ。最初は莉緒に友達が多そうなんて印象を抱いていたのに、不思議なものだ。

「莉緒、お風呂部屋ので済ませちゃうんでしょ?」

「はい。っていってもここの客室風呂、凄いんですよ。見晴らしもいいし、露天風呂だし。それに檜だし。ちょっと有名らしいです」

「じゃ、私も一緒に入っていい?」

「……え?」

 濁点が付いたような驚きの声が返ってくる。距離を詰めるには裸の付き合いから。私も人に見せられる体をしている訳じゃないけど、自分の過去を話すならそれくらいの恥をかかないと踏み出せない。

 それに、一緒に温泉旅行に来たのに私だけ大浴場になんて行けないじゃん。

「駄目?」

「…………駄目じゃ、ないです、けど」

「そっか」

 より強く枕に顔を埋める彼女の頭をまた撫でる。恥ずかしがっている彼女は可愛い。まるで初めて一夜を共にする若いカップルみたいだななんて考えながら、そもそも自分にそんな経験が無かったことを思い出す。

「……準備してきます」

 莉緒は不意にベッドから起き上がると、私から逃げるように荷物を置いた壁に向かう。そして幾つかの袋を手に取って今度はトイレへ向かう。家出をしてきた彼女の手荷物は可愛いポーチなんかではなく、薬局の紙袋やスーパーのビニール袋。その可愛げのなさと彼女の顔とのミスマッチが莉緒らしくて笑ってしまう。

 暫くして莉緒がベランダに出るので、私はそれを目で追った。

「こっち見ないでください」

「だってガラス張りなんだもん。目に入るじゃん」

「目瞑って寝ててください」

「はーい。しばらくしたら行く」

 莉緒の機嫌を損ねないように、私は彼女の言い分を聞きベッドにまた倒れ込む。目を閉じて数分待つとベランダからお湯の音が響き、その数秒後に檜の箱からお湯が大量に流れ出る。

 いい音だ。私の家だとシャワーが多いから浴槽の音はあまり聞くこともない。目と鼻の先で莉緒が風呂に入っている光景を思い浮かべて危なさを感じたけど、同居生活をしていてなにを今更と笑い飛ばした。

 私は極力外の風景を見ないように動きながら荷物をまとめ、入浴の準備を済ませる。

 服を脱ぎ一応髪を束ね、左の手首に多めの髪留めのゴムを通した。

 温泉用にと買った新品の手ぬぐいで体を隠しながら窓を開けると、心地よい風が体に当たる。裸で風に当たるのも久しぶりだ。夏の外気温は全裸には丁度良い。風邪をひく心配がないのが夏の露天風呂のメリット。

「ねぇ、麻里さん」

「ん?」

「ここ、絶対一人で入る大きさですよ?」

「だろうね」

「だろうねって……。分かってたんですか?」

「まぁ、だいたいそうじゃない?」

 驚きつつ私を睨みつける莉緒の視線を避けながら、桶で浴槽から湯を掬って体に掛ける。

「狭い所に二人で入るのも一回くらいいいでしょ。旅の恥は――」

「だからそれ、私がいる時点で使い方違うんで」

 旅先には知り合いなんていないから恥をかいても大丈夫的な言葉だっけ。

「莉緒との生活も一時的な物なんだし、似たようなものでしょ」

 もう三分の二に差し掛かる同居生活の終わりをわざと口に出しながら、私はもう一度体に湯を掛ける。

「ほら詰めて」

 立ち上がって上から見下ろすように莉緒を見る。変な所で律儀なのか、礼儀正しいのか、あれだけ恥ずかしがっていたのに、湯船にタオルを浸けていない。だから彼女は何も隠さないまま無防備にすべてを晒している。

 風呂なんだから当たり前なんだけど、その肌面積の多さに少し驚く。莉緒の裸をちゃんと見るのは初めてかもしれない。いつも露出している箇所ですら白いのに、普段布に隠れている場所は更に一段と白さが増す。白を通り越して不健康に青く見えるその肌は美しかったが、あまり人間味を感じなかった。

「なに見てんですか」

 私の視線に気が付いたのか莉緒は体を隠すように身じろぐ。それでもちゃんと私の入るスペースを空けるように詰めてくれるので、私は右手で持った手ぬぐいを浴槽の淵に置きながら、左手で照れ隠しをするように鼻をかいた。

「……隠さなく――」

「なに?」

「何でもないです。早く入ってください。なんでベランダに全裸で立ってるのに仁王立ちでいられるんですか」

「別に誰も見てないから」

「見てたら問題ですよ。ほら、早く入ってください」

 莉緒に急かされながら私は湯船に足を入れる。足先から熱めのお湯に浸かっていき、ゆっくりと体を檜の箱に収めていく。その過程で私の体積分の水が零れ落ち、また豪快に音を立てた。

 私と莉緒は肩を並べるようにして外を眺めている。空は橙が終わり、殆どが藍色に変わっていた。夏の空気には蝉が一生懸命存在を誇示して喧しい鳴き声が溶け込んでいて、目の前に広がる緑は青々しく生い茂っている。まさに夏。夏の夕暮れを二人で暫くの間、黙って見ていた。

「ねぇ、悲しいときって、夕日が見たくなるよね」

 莉緒がポツリと言葉を漏らした。

「え?」

「これも引用です」

「王子さまの?」

「はい」

 よほどさっきのミュージアムが楽しかったのだろう。去ってもなお余韻が抜けきれない彼女に子供を見る時の可愛さを感じる。

「麻里さんは夕日ってどんな時に見たくなりますか?」

「その質問難しいね」

「そうですか?」

「だってそんなこと普通考えないよ。夕日を見たらどうか、ならまだしもどんな時に夕日を見たいかなんて考えたこともない」

「私は考えますよ」

「死ぬときに見たいとか言うんでしょ」

「……よくわかりましたね。正解です」

「これだけ一緒に入れば分かっちゃうよ。嫌でもね」

 額の汗をぬぐうように左手で顔を撫でる。湯船にその手を戻ると静かに水面に波紋が生まれた。

「綺麗な夕日ができる日の法則って麻里さんに言いましたっけ?」

「なんだっけ。聞いたような聞いてないような」

「雨ですよ。午前中に雨が降って、午後はカラっといい天気になって。そんな日の夕暮れは空が綺麗に橙に染まるんです」

 今日は雨が降ってないんで五十点くらいです。なんて言いながら莉緒は水面に映る藍色をぱしゃぱしゃと弄ぶ。

「私の人生って、言ってみれば雨続きみたいなものだったんですよ。そこから人生ノートを書き始めるようになって。無理やり自分の人生を晴れにしようと藻掻いてるんです。だから最期の日はそんな一日がいいなって。雨が降って晴れて、多分私の人生に虹は似合わないので雨上がりはすこし泥で汚くて。それで太陽が沈む時には真赤に世界が染まる。そんな一日」

 莉緒との出会いを思い出す。あの空が真赤に染まった夏の入り口。空の赤を背負う彼女の姿はとても美しかった。

 きっと彼女もあの美しさに魅了されていたのだろう。あの景色が美しかったから彼女は死に近づいた。死に近づいたから、きっと彼女はまだ生きたいと思えた。

「私、命って炎だと思うんですよ。毎日毎日燃料を投下して消さないように守っていく炎。弱くても強くても駄目で、丁度いい火力を保たなきゃいけないんです。あまり強すぎると、燃料が直ぐになくなっちゃいますから」

 例えば、なんて、莉緒は初日に私に説明したような例を持ち出す。

「芸術家って短命の方が多いじゃないですか。何かを創り出すって相当エネルギーを使うから、だから芸術家は命の炎を激しく燃やして早くに燃料を使い切っちゃうんじゃないかなって。これも比喩なんですけどね。多分生活リズムとかそんな話だと思いますけど、なんとなくかっこいいじゃないですか。そう考えた方が」

 やっぱり言葉にするのは難しいですと唸る莉緒を見る。すると莉緒は恥ずかしがって私の顔に腕を突き付けて無理やり首を逆に回そうとする。

「こっち見ないでください」

「もしかして恥ずかしさを誤魔化す為に難しい話してる?」

「……そういうのは分かっても口にしないもんですよ?」

「じゃあ黙る」

「もう遅いです」

 沈黙が生まれ、軽やかな水音だけが響く。

 無言の状態に耐え切れなくなるのは莉緒だと分かっていて、私は無言を貫いてみる。すると案の定、莉緒はすぐに続きを話し始めた。

「私。自分で言うのは烏滸がましいけど、芸術家の人達と同じだと思うんです。人生の燃料を過剰に燃やして生きてるって自覚があります。なにも作ってないので無駄遣いとも言えるんですけど。暗いのが怖いから炎を大きくして少しでも明るくしようとしてるんだと思います」

「ちょっと分かるかも」

「え?」

「命を燃やしてるって表現。莉緒から言われなくても、勝手に莉緒にそういう印象持ってた。……莉緒の目ってさ、たまに燃えてる時があるの。って、急に詩的な表現になっちゃったけど。……なんて言えばいいのかな、ギラギラしてて怖い時があるって言えばいいのかな」

「そうなんですか」

「初めて会った時とか、なぜか莉緒が怖くて足が震えたもん」

 そう言うと莉緒はケタケタと笑った。

「知らなかったです」

「言いたくなかったからね」

 もう一度莉緒は笑い、声のトーンをさっきまでの真面目なものに戻す。

「私が怖いかはともかく、私は命を燃やしてるんです。だからほら。夕日って空が燃えてるみたいでしょ? ピッタリかなって。燃える世界に燃え尽きる私。そんな綺麗な世界で私は死にたい。だから私は死ぬときに夕日が見たいんです」

「そういえばそんな話だったね」

「はい。次、麻里さんの番です」

 莉緒は私に会話を投げる。

「私、か」

「どんな時に見たいですか?」

「夕日……」

「夕日の話じゃなくてもいいですよ?」

「え?」

「何でもいいです。話したいことがあるならなんでも。私は何でも聞きますよ」

 莉緒の目は優しく、私を救ってくれる慈愛に満ちているように見えた。

 私の過去。私のトラウマ。

 私の終わりと今の私の始まり。

 全部、莉緒に話してしまおう。

 全部、蹴りをつけてしまおう。

 きっと潮時だ。

 この道が正しいと思っていた私に、莉緒は間違っていると言ってくれた。そして正しい道に手を引いてくれた。

 そんな莉緒になら話してもいい。

 そんな莉緒だから、救ってくれる。

 過去のまま凍り付いてしまった私の時間を莉緒なら溶かしてくれる。

 彼女にはそれだけの熱量がある。

「じゃあ、一つ。話をしていいかな」

「はい」

「ちょっと長くなっちゃうかもしれないけれど」

「どんな話ですか?」

「莉緒に合わせるなら、そうだな。じゃあ、朝焼けの話。私の過去の話」

「聞きますよ。どれだけ長くなっても」

 私は一度湯船に深く浸かる。温かい水が体をほぐして口も軽くしてくれる。

 ふと、莉緒の顔が見たくなって首を捻った。

 もう一度くらい彼女を恥ずかしがらせてもいいだろう。

 悪戯心で私の隣にいる美しい少女を見る。

 視線が合うように顔と顔が向き合い、彼女の白い肌が私の網膜を焼く。

 そしてその美しさの中に不純物が混じった。

「莉緒、鼻血……」

「……え?」

 真白な肌に一筋の赤が流れている。さらさらと鼻から流れ落ち、あっという間に首、鎖骨を下ると水面に到達した。

「大丈夫?」

 ゆっくり水面に彼女の赤が広がっていく。

 莉緒は動かない。驚いたように目を見開きながら動かない。

「莉緒?」

「…………鼻血?」

 ようやく動いた莉緒はゆっくり自分の口元を手の甲で拭う。白い肌の上に彼女の赤が広がり、それを視界に収めた莉緒は固まる。いや、固まったように震えだした。水面は彼女を中心として波を作りはじめ、その波は彼女の赤を運ぶ。

「ねぇ、莉緒? 大丈夫?」

「…………やだ。――やだ――やだ」

 最初はゆっくりと、そして次第に加速して莉緒は何度も何度も自分の口元を擦る。

「莉緒、大丈夫。鼻血くらいすぐに止まるって」

「やだ、やだ……」

「のぼせちゃっただけだよ。長話してたからさ。血行が良くなったんだって!」

 聞く耳を持たない彼女を何とか正気に戻そうとへらへらしながら彼女を宥めてみる。しかし彼女は一向にこちらを向かない。

 どう見てもおかしい。周囲の言葉なんて耳に入らず、彼女の目はうつろに揺れる。

 私はこれを知っている。

「とりあえず上がろ? 立てる?」

 私は震える彼女の体に触る。その体は熱くて冷たい。

 脇の下に手を入れ、とりあえず湯船から出そうとする。

 口元を真赤にした彼女の顔は真青で、白と赤と青がチカチカと私の視界で揺れて、脳を掻き回す。

「ほら、せーの」

 掛け声と共に彼女を持ち上げ、浴槽の淵に座らせる。

 座らせるや否や、彼女は私の手を手繰り寄せ、勢いよく抱き着いた。

 私の背中に手を回し、力強くも弱々しく体にしがみつき、胸に顔を埋める。

「ねぇ、……。やだ。ねぇ……。やだよ」

 震えた手は固く、私を話さない。

「やだ、やだ」

 私はこの状況に驚きながらも咄嗟に彼女の頭を撫で始める。

「私、やだよ……」

 ゆっくりゆっくり彼女の心拍数を下げるように頭を撫でていく。

「大丈夫。大丈夫」

 彼女がどうしてここまで鼻血を恐れているのかは分からない。血が怖い? そんな馬鹿な、さっきも生理だと言っていた。血が怖いなら毎月こんなことをやっているのだろうか。そんな筈はない。じゃあ、どうして。

 私は腕の中にいる少女を何一つとして理解できないまま、無責任な言葉を吐き続けることしかできない。

「……こわい」

「大丈夫だよ。私が付いてる」

「やだ……。もう、やだ」

「大丈夫。大丈夫」

 かなりの時間をそうやって体を抱きしめたまま過ごした。

 少女の鼻から流れる血はしばらく止まらず、浴槽は血で汚れた。

 少女のパニックが収まり、鼻の血も止まる頃には空は星空に変わっていて、いつもより多くの星が空に浮かんだ。

「大丈夫だよ。私がいる」

 そんな言葉を何百回と掛けた。

「大丈夫。落ち着いて」

 意味のない言葉を何百回と囁いた。

 少女の身体から力が抜け、眠りに落ちる寸前、小さく彼女の喉が鳴る。

「おとうさん。おかあさん。……せんせい。……まりさん」

 そして莉緒の意識はすっと抜け落ち、血だらけのまま寝息を立て始めた。

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