21日目「誕生日」

 静かに、日付は変わった。

 静かに、私は二十五歳になった。

 静かに、眠る莉緒の頬に手を添えた。

 静かに、私も目を閉じた。




 部屋は暗い。

 日付が変わってどれほどの時間が経っただろう。

 ダブルベッドの上には莉緒と私の体。

 拭ききれなかった血液は彼女の皮膚の上で固まり、白い身体に美しく文様を作っている。

 シーツを汚さぬようにバスタオルの上に寝かせた彼女の体に、また別のバスタオルを掛ける。夏の夜は蒸し暑く、これくらいで風邪をひくことはないだろう。

 私はその隣で今日のために買った新しい寝間着を身に纏い、横になっている。

風呂場でパニックを起こした莉緒を部屋に連れ戻し、どうにか寝かせつけた後、彼女は何度か目を覚ました。彼女の意識ははっきりしていたが明らかに目に光は灯っていない。体調の確認の会話を何度か交わし、彼女の意見を尊重して救急車は必要ないと判断した。

だから私は彼女に何もしてあげられないまま、こうして隣で眠る彼女の顔を眺めていることしかできない。

まだ太陽が空に浮かんでいた数時間前の彼女の行動を思い返す。自分の血液を見て真青になりながら混乱する彼女。私はあの行動に覚えがある。

そう。あれはまるで高校生の時の私。

佳晴が死んでからしばらくの間、私は先ほどの莉緒のようなパニック障害を度々発症させていた。莉緒のあれは私のそれと同じだった。何かの心意的ショックがフラッシュバックして自分に制御が利かなくなる現象。だったら彼女が抱えているものも何かしらのトラウマなのか。例えば私と同じように、身近な人間の死。大量の血を見てパニックを起こしたところを見ると納得できないこともないが、普段の生活で日常的に目にする血液で毎回同じような症状を起こしているのだろうか。

 彼女の中身が真暗な闇のように見える。どこまで進んでも先は分からず、輪郭すらも視認できない。そんな不安を胸の中で御しつつ莉緒の頬に手を当ててみる。白い頬は冷たく滑らかで、人間というよりは人形という表現がしっくりくるような完成された顔だった。撫でるようにしてゆっくり下へ手の平を動かし彼女の首を撫でるように触れる。そこからはしっかりと心臓の鼓動を感じ、私はまた胸をなでおろす。

「ん……」

 首を触られたのが不快だったのか莉緒は私の腕から逃れるように身動ぎ瞼を開ける。

 何度かゆっくりと瞼を開閉させ、首を回す。壁に掛かった時計を見て時間を確認すると、数秒間の情報整理と思われる硬直のあと、私のほうに向き直り弱々しい笑顔を見せた。

「……ごめんなさい。こんなみっともない姿見せちゃって」

「ううん。大丈夫だよ」

 私が首を振ると、莉緒は申し訳なさと恥ずかしさが同居したような表情でへへへと笑って見せる。

 私はそんな笑顔に胸を熱くしながら、もう一度莉緒の頬に手を添える。そこには先ほど感じた冷たさはなく、人間の温かさがあった。

「ねぇ、麻里さん」

「なに?」

「お誕生日、おめでとうございます」

「忘れてた」

「うそだ」

「うそ」

 力無く二人で笑いあう。

「麻里さん、二十五歳かぁ」

「なに? また歳だって言うの?」

「いや、遠いなって」

「気づいたらあっという間だよ」

「それでも、やっぱり私にはすごく遠いですよ」

 莉緒はごろんと体を転がし、天井を見上げる。その眼はずっと遠くを見据えていて、まるで天井を超えて星空を見ているようだった。

「そういえば莉緒の誕生日っていつなの?」

「秘密です」

「教えてよ」

「別に面白くないですよ?」

「でも知りたいじゃん?」

「……やっぱり駄目です」

「えぇ」

「じゃあ特別に季節だけ。……前に私が言った、死んだ時には木を植えたいって話、覚えてますか?」

 突然話が過去に飛ぶ。莉緒との会話は忙しい。私は急いで過去を振り返ってその時の記憶を深い場所から引っ張り上げる。

「……樹木葬、だっけ?」

「よく覚えてますね。麻里さん、本当に記憶力いいのかも」

「そう言ってるじゃん」

 莉緒はまた私の言葉を鼻で笑い、話を続ける。

「実は私の家には既に一本、他の記念樹があるんですよ。誕生記念樹ってわかりますかね。死んだときに植えるのとは別に、こっちは生まれたときに親が子供に植えるんです」

「知ってるよ。最近よく聞くもん」

「それがヒントです。私の家には杏の樹が植えられているんです。私の誕生日には毎年杏の花が咲くんですよ。何月かは教えてあげませんけど」

 誕生記念樹を植えてくれる親。やっぱり莉緒の両親は彼女に良く接していると考えていいのだろうか。彼女の抱えている問題を今でも考え続けている。彼女は否定していたが親からのストレスという問題を可能性の一部からずっと外せないでいた。

 親に悪意がなくたって子供は心に傷を負うものだ。中学の時の私しかり。親の教育で追い詰められた佳晴しかり。

「杏の花の時期くらい知ってるよ。春でしょ。桜に似てる花」

「わぁ、すごい」

「これくらいは一般教養」

「じゃあばれちゃいましたね。私の誕生日。春なんですよ。小さい頃は麻里さんが言う通り自分の木に咲く花を桜だと思い込んでました」

 ね、そんなに面白くないでしょ? と、こっちを横目に見て莉緒は鼻を鳴らす。

「ううん。いいことを聞いた」

「何がです?」

「だってこれから杏を見るたびに莉緒を思い出せるもん」

「……麻里さん、たまにロマンチックなこと言いますよね」

「そう?」

 自覚のない私に莉緒はため息をついて天井を見つめる。

「……私、庭に植わっている杏の樹、嫌いなんですよ」

「杏の花、綺麗じゃん」

「綺麗すぎるんですよ。私がこんなにも毎年必死に生きてるのに、何もしてなくてもあの花は毎年その季節になれば凄く綺麗に咲くんです。なんだか私の必死さが馬鹿みたいじゃないですか」

 理不尽な言いがかりをつけられる杏の樹に同情する。

「だから年を一つ重ねる度に、この樹には負けたくないって思ってるんですけど。中々枯れないんですよね。樹って」

「可哀想」

「それに花言葉も嫌いです。臆病な愛とか疑いとかそんなのばっかりで。私、なよなよしてるのって嫌いなんです。昔の自分を見てるみたいで」

「昔の?」

「……何でもないです。この話はここで終わりにしましょう。杏の話もお終いです。これ以上する話題もないですし」

「なにか杏のいいところないの? このままじゃ莉緒のせいで私も杏が嫌いになっちゃう」

「なんでしょうね。杏酒がおいしいくらいじゃないですか」

「えーっと。未成年さん?」

「麻里さんだって、高校の時に煙草吸ってたんでしょ。お互い様」

 深夜の会話は脳みそを使わないで済む。頭に浮かんだ言葉をするりと投げれば、向こうからも同じように適当な返事が返ってくる。それが心地よい。

「こんな人間でも学校の先生になれるんだよ」

「先生失格の一か月だけどね」

「莉緒も共犯」

 自分の非行に話題が向いたことに居心地の悪さを感じ、天井を見たまま体を動かす。すると左手に莉緒の右手が触れたので、そのまま軽く手を握ってみる。びくっと莉緒の体が跳ねた。

「莉緒さ、家の杏で杏酒作ってるの?」

「……はい。親が毎年律儀に作ってます」

「じゃあさ、莉緒の二十の誕生日に一緒に飲もうよ。今までの人生なんか振り返りながらさ」

 莉緒は私の言葉を聞きながら一度強く手を握り返し、私の言葉を聞き終えると同時にその力を抜いた。

「……それは、約束できません」

「そっか」

「約束は、できません」

 もう一度莉緒は震えた声で言い切る。

 私がそれに返事するように長い息を吐くと、部屋は深い深い沈黙に溺れた。




「ねぇ、麻里さん」

 それから会話が生まれたのは深夜を回りしばらく経った頃。あと一時間もすれば空が明らむといった時間帯だった。

 お互いに何度か浅い眠りに落ちては、すぐに目を覚ます夜。

 丁度私は瞼が重くなる瞬間で、意識を手放しそうになった時、繋がれた私の左手に彼女の力を感じ体をびくつかせながら目を覚ました。

 首を回転して顔を横に向けると、そんな私にくすくすと笑いながら天井を見つめている莉緒がいる。

 どうしたの? と擦れたような声を投げかける。すると莉緒はこちらを向くこともないまま、真面目な表情になり、言葉を天井に投げかけた。

「……麻里さんの話、聞かせてよ」

 ずっと遠くを見るその目と私の目は交わらない。

「麻里さんも、今の私になら話せでしょ?」

 言葉の意味が分からないと首を捻ってみると、彼女は笑って続けた。

「だって今の私は絶対麻里さんより弱いじゃん。弱い人になら、自分の弱い所も晒せるでしょ?」

 繋がれた手が解かれ、莉緒の指が私の手の平を登る。

 そして私の左手首に巻かれた腕時計の上に彼女はそっと手を重ねた。

「ねぇ、麻里さん。一つ、聞いていい?」

「……なに?」

「私さ、麻里さんを変えられたかな」

「なに、今更。昼間も言ったでしょ。私は莉緒に変えられた」

「……私さ、麻里さんを救えたかな」

「……なにそれ?」

 莉緒はおもむろに上体を起こした。彼女の体に掛けていたバスタオルがはらりと滑り落ち、その細く白い裸体が月明かりに照らされる。

 私はその身体を直視できずに目を逸らし、先程までの彼女のように天井を見つめることで視線を逃した。

「私はね。麻里さんに救われたんだ」

「私、何もしてないよ」

「したんだよ。……してくれた。だから今度は私の番だった」

「意味が分からない」

 莉緒は息を吸い、私の手首に圧力がかかる。それを感じて私の身体は固まり、汗が噴き出る。

 四肢は硬直し動かず、左手を彼女から逃がすこともできない。辛うじて動いた首を回し、天井から自分の左手に視線を移動させる。

 私の腕に彼女の手の平が重なっている光景に釘付けになっていた。

「私ね。知ってるんだよ」

 私の左手首でカチカチと時計が秒針を鳴らしている。五月蠅い程に時を刻んでいる。

「麻里さんが辛い思いをしてきたって知ってる」

 莉緒はその腕時計を私の左手首から静かに外した。

「本当は逃げたいんだって、知ってる」

 そうして露わになった私の手首に莉緒の涙が落ちた。

 皮膚の色が変色したリストカット痕の上に彼女の涙が落ちた。

「気付いてたんだ……」

「二十日も一緒に過ごしてるんだよ? 気付かない筈ないじゃん」

「隠せてると思ってたんだけどな」

「寝る時に腕時計する人なんていない。家にいたっていつも何か手首につけてるんだもん。すぐわかる」

「そっか」

「麻里さん、隠し事下手だもんね」

 ずっと手首を隠して生きてきた。

 外に出る時はファンデーションを必ず乗せるし、手首を露出させる時にはそれ用のテープすら使用してきた。だから多分、誰にもこの傷の存在は知られていない。

「ずっと隠して来たんだけどな」

「多分気付いてる人いると思うよ?」

「そうかな?」

「話題を出していいこともないし。きっと放っておいてくれてるんじゃない?」

「それはそれでショック」

 いつしか私の身体から力は抜けている。瞬間的に緊張した筋肉が弛緩し、ベッドにだらしなく体重を預けていた。

「でも、私は少し嬉しい」

「なにが」

「だって、この傷を言及したのは私が初めてってことでしょ?」

「だね」

「じゃあ、この傷の意味を知っているのは麻里さんと私だけってことになるね」

「それが嬉しいの?」

「嬉しい」

 莉緒の言葉は砕けている。たまに彼女がリラックスしている時に出る素の彼女。

 私が心を開き始めているから彼女もそれに応えてくれているのだろうか。

 莉緒は私の痣をそっと撫でながら笑う。夏の月に照らされるその顔はとても美しく光っていた。

「汚いでしょ。かなり昔の傷なんだけど、ずっと消えないの」

「汚くないよ。それにこういうのは消しちゃいけない。消えちゃったらその時の自分を忘れちゃう」

「私は、忘れたいかな」

「駄目。今の麻里さんはその過去があってここにいるんだもん」

「今の場所、そんなに気に入ってないからなぁ。知らない線路に乗ったまま、気づけばここまで来ちゃった」

 莉緒と目が合う。

「ある人の夢、でしたっけ?」

「え?」

「麻里さんが言ったんですよ。別に自分は教師になりたい訳じゃなかったって」

「あぁ」

 この話をしたのももう一週間以上前のことか。

「聞かせて。麻里さんの過去。この傷も。心の傷も。私なら受け止められる」

「うん」

 元より彼女に話す覚悟はできていた。

 だから私はゆっくり深呼吸をして目を瞑る。

 すると彼女は私の隣にもう一度寝転がり、手探りで私の左手を掴んだ。

 彼女から差し伸べられた手をまるで救いの手のように強く握り返し、私は話し始める。

「どこから話せばいいのかな」

「一番最初から聞きたいな」

「長くなりそうだね」

「いいじゃん。チェックアウトまではまだまだ長いからさ」

「そうだね」

 私は一から彼女に話し始めた。

 それは長い長い私の過去。

 今の私が誕生したきっかけ。




「おはようございます」

 朝、目覚めた彼女はまだ気分の悪そうな顔をしていて、それでも私に心配を掛けまいと気丈に振る舞い朝の挨拶をした。

 私と彼女の手は繋がれたままで、目を覚ました私はそれに赤面してすぐに手を離す。大の大人が恥ずかしい。

「離しちゃうんですか?」

「え?」

「手」

「だって」

 結局私の過去話は朝の七時頃まで続いた。

 過去話をしていると途中から半ば夢を見ているような感覚に襲われ、話し終えると同時に私の意識は泡となって消えた。莉緒もそれは同じなようで、二人で目を覚ましたのはチャックアウトまであと少しという太陽も真上に昇る時間帯だった。

「莉緒、大丈夫?」

「少し気分は悪いですけど大丈夫です。昨日はごめんなさい」

「いいって。気にしないで」

「そして、ありがとうございます」

「ううん」

「……ありがとうございます」

 莉緒は私の過去に何一つとして言葉を返さなかった。

 それが莉緒の優しさなのかは分からないが、きっと今のお礼には過去話を打ち明けたことに対する感謝も含まれているのだろう。感謝しなければならないのは寧ろこっちの方なのに、先を越されれしまった。

 私達はそれから急いでチェックアウトを済ませて、そのまま帰路についた。

 莉緒は体調は大丈夫と観光を続けようとしていたが流石にそれは容認できず、駄々をこねる子供を連れて帰る母親の気分を味わいながら温泉旅行は終わりを告げた。

 彼女のパニック症状の原因は分からないまま。謎は深まっただけだ。ただ彼女の身に何かがあるという疑念は確信に変わった。

 すべてを開示した私に彼女も心を開いてくれたら、なんて淡い期待を持ちながら私達は一晩締めきってサウナと化した我が家に帰るのだった。

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