12日目「隠れ家」

『まーちゃん、最近ずっとここにいない?』

『居心地がいいんだからしかたないよ』

『実家の居心地が悪いだけでしょ』

『……迷惑?』

『いや、別に』

 受験を諦めた私は、これまで積み重ねてきた勉強の貯金を使ってワンランク下の高校に入学し、晴れて花の女子高生となった。中学時代よりも制服は派手になり、スカートは短くなる。バカ騒ぎする連中とつるみ、メイクも覚えた。そうしてゆっくりゆっくりと自分を変えていき、高校一年の夏が来る頃には昔の優等生だった私は消え、本格的にグレた私が誕生していた。

 原因は明確で、これまで停滞していた家庭の問題が私の高校進学を機に一気に動き始めたから。母親と会話する事は無くなり、家に帰る事すら避けるようになった。

『だからって僕の家を寝床にされても』

『佳晴だって同じでしょ。家から逃げてここにいる』

『まぁ、そうだけど』

 私が避難場所に選んだのは佳晴の部屋。週に三回彼の母親が部屋を訪れる時間帯を除いて、ほとんどの時間をここで過ごしている。勿論、私がいるという痕跡は残さない。もし佳晴の親に私の存在がバレようものなら。考えるだけでも恐ろしかった。

『悪魔が来る前に部屋を掃除してあげてるんだから、ウィンウィンでしょ』

『部屋を散らかしてるのも主にまーちゃんだけどね』

 佳晴は私がいても基本的に机に向かっていて、私は私で勝手にゲームをしたり本を読んだり。

 母親から逃げることに成功したのにもかかわらず、彼は時間が経っても勉強から離れることができなかった。もう一年以上一人暮らしを続けているのに呪いは解けない。脅迫されるように毎日毎日机に噛り付いていた。

 そんな彼に呆れて私は少しずつ世間一般の娯楽を教えていく。

 ゲームもインターネットもほとんど触っていなかった彼にとって、私の持ち込むものは物新しいらしく、電子機器を触る年寄りのようにたどたどしく好奇心を満たしていった。

 ゲームにはそこまで興味を示さなかった彼だが、インターネットには狂気的なまでにのめり込んでいた。そこには無限に広がる知識の海があり、自分が無知であることを知ったのだろう。

 インターネットを禁止するとはすごい親だ。情報統制もいいところ。

 そんな無知な彼に新しい世界を教えるのは、彼の親への反抗を手伝っているようで楽しかった。

『まーちゃん。流石に家に帰った方がいいと思うよ』

『それ佳晴が言うの?』

『だって女子高生が男の家に毎日泊ってるなんて知られたら、学校でも問題でしょ?』

『佳晴の親が来る日には家に帰ってるじゃん』

『もっと家に帰った方がいいって話』

『何回も言ってるでしょ。あまり帰りたくないの』

『まぁ、それを知ってるからここに入れてるんだけどさぁ』

『じゃあいいじゃん』

 ここは家から逃げた人間達の隠れ家。理由は違えど、似ている二人。例えば死んだ目とか。

 人の家だとは分かってはいるけれど、居心地がいいんだから仕方ない。

『それに私、佳晴を男だって思った事ないんだけど?』

『なんだと思ってるの?』

『うーん。死体?』

『ゾンビってこと?』

『そ。だって生きてて楽しそうじゃないし。性欲とか皆無だろうし』

『やっぱりそう見える?』

『私からはね』

 その言葉に佳晴は彼特有の笑顔を浮かべる。関係性を取り繕うために拵えた偽造の笑顔。

『それ、気持ち悪いからやめてって言ってるじゃん』

『学校では結構評判だよ? 笑顔が素敵って女子からも言われる』

『全員頭が狂ってるんでしょ』

『酷いなぁ』

 驚くことにこの男は高校で多少なりとも女から人気があるというのだ。

 細い、白い、殴ったら折れそう。そんな男のどこがいいんだかさっぱり分からない。顔は整っているが、良い意味ではなく、まるでアンドロイドのような無機質さを感じる整い方。笑うと正しく不気味の谷が現れるようだった。

 じゃあ、ゾンビというよりもロボットと形容した方がこの男には相応しいのかも。

『そもそも、その鈴鹿君が毎日のように女を部屋に上げてることは知られてるの?』

『だからもっと家に帰った方がいいって言ってるんだよ』

『女子人気が離れるのが心配?』

『まさか。僕が怖いのは母親だけだよ。回り回って噂があの人の耳にでも入ったらお終いだからね』

 話を続ければ私が負けることは分かり切っているから、会話を途中で放棄して携帯に視線を落とす。そうすると目の前のロボットはくるりと反転して机に向かい、また静かに勉強し始める。

 その背中は悲壮感に溢れていた。

『……本当に迷惑だったら言って。出ていくから』

『まだ迷惑ではない』

『そ』

『これでも救われてるんだ。まーちゃんといると僕は人間でいれる気がするから』

 勉強しながら発せられるその言葉に信憑性は微塵も感じられなかった。




 目を開けるとそこは知らない天井。

 無機質で清潔感の溢れるその明るさに目を傷めながら私は体を起こす。

「病院……。あ、そうだ。病院に運ばれて……」

 昨日からの記憶が曖昧だった。

 面接会場で意識を失った私が次に目を覚ましたのは、もうこの病院内。恐らく昨日の夜だろう。幾つかの質問をされ、それに返答し、今のところは問題ないと診察された記憶がある。そこで気分の悪さを訴えたらそのまま病室に通されて。

 入院て、こんな簡単にするもんなんだ。

 意識が朦朧としていたせいでもあるが、病院で一晩を過ごす選択をした自分に驚く。一体いくら請求されるんだか。酔った勢いでぼったくりの店に入った時のような気分だった。大学生の頃に一度失敗したっきり、店では飲まなくなったから、あれはあれでいい体験だったけど。

 入院するのは初めてではないが、とても久しぶりに感じる。思い返せば社会人になってからは自ら病院に足を運んでいないかもしれない。一度生徒が熱中症で運ばれた時に付き添ったことはあったけれど、自分がこっち側になるとは思いもしなかった。

 熱中症の生徒は生理食塩水を点滴されていたのを覚えているけれど、今の私に刺さる管は見当たらない。それでも、私はいつの間にか病院着のようなものに身を包んでいて驚く。

 就活でばっちり身なりは決めていたのに、それが気づいたら無くなるなんて変な気分だ。追剥ぎにでもあったよう。

 私は近くにあったナースコールを押すのを躊躇って、スリッパを履いて廊下に出る。数歩歩いたところにあった管理窓口に声を掛けると「そちらに向かいますので部屋で安静にしていてください」なんて慌てて戻される。

 スリッパをリノリウムの床に擦って歩く。この床も久しぶりだ。学校の床に少し似ている気もする。

 私は無意識に溜息を零す。病院にはあまりいい思い出がない。みんなそうだと思うけど。

 手首に時計がないことに落ち着かず、左手首を右手で握るように擦りながら病室に戻った。ベッドに座っていると一分もせずに白衣が歩いてくる。

「おはようございます。気分はどうですか?」

「ええ。おかげさまで。すいません。無理を言ってしまって」

「いえいえ。大丈夫ですよ。体調不良を訴える患者を帰らせたらここは何の施設なんだって言われちゃいますし」

 甲高い笑い声を上げる男に苦手意識を覚えながら、私は質問する。

「あの……。私昨日」

「あ、そうですね。昨日担当した者から一通り話は聞いています。朦朧としていたと聞いていますが、何も覚えていませんか?」

「えっと、会話内容はほとんど覚えていません……」

 私の声はいつもよりワントーン高く、無意識に社会人の仮面を被っている。ここ数日ずっと仕舞いっぱなしだったこの仮面に懐かしさすら覚える。

「そうですか。では一つづつ報告していきます」

 私は昨日、面接会場で倒れた。理由は覚えている。ここ数日立て続けに見る夢のせいで過去と意識が近くなってしまっていたから。

 虐待という言葉が引き金になり、感情が溢れ、私はそれに耐えきれなくなった。

「ここでの質問で、このようなことは以前にも? とお尋ねしたところ、過去には良く起きていたと返答なさったんですが、それは正しいですか?」

「はい。ここ最近は起きていなかったですけど」

 面接官の一人が咄嗟に救急車を呼んだらしい。会場の人間には迷惑を掛けたな。グループワークで一緒だった学生の女の子。面接の順番が私の次だったけど、落ち着いて行えただろうか。

 ここに運ばれてからすぐに目を覚まし、そこからはなんとなく記憶がある。着替えをした記憶がないのには驚きだけど、それも特殊な感覚ではなく、今はそこまで頭も痛くない。煙草とウイスキーを同時に入れた翌朝よりは随分とマシだ。

「症状から神経調節性の失神だと考えられるのですが、以前からという事は、診察等は」

「はい。何度も受けてます」

「では、原因等も理解していらっしゃるんですね」

「……まぁ。はい。昔、カウンセリング等にも通っていたので、そこらへんは。ちょっと最近不安定でそれを思い出しちゃって」

 それから幾つかやり取りをして、何かあったら必ず診察しに来てくださいと念押しをされた後に解放された。実際問題私のこれは簡単な治療で治るものでもない。

 体の傷と違って記憶に負ってしまった傷を人間は上手く対処できないんだ。自然治癒と称した時間による忘却でも、ひょんなことで生々しい傷を取り戻してしまう。

 心にも効く薬があればいいのに。

「何か言いました?」

「え、いや。ごめんなさい。何でもないです」

「あ、そういえば長瀬さん昨日、意識があった時にご家族に連絡していたらしいので確認しておいた方がいいかもしれないです。あちらで携帯使えるので。……では、着替えたらそこのボタンでお呼びください。手続きとか色々する場所まで案内するので」

 家族に電話? 混乱して実家に連絡した? まさか。私が無意識に実家に連絡するなんてありえない。

 白衣の男が私の元を離れたので、簡易的なカーテンを閉めて机の上に畳まれている服に手を伸ばす。綺麗に畳まれたそれは、私が畳んだのか第三者がやったのか分からない。

「流石にやったとしても女だよな」

 別に男でもそこまで気にする性格ではないかと考え直し、ワイシャツに腕を通す。多分これは私が無意識に畳んだのだろう。最近、服を畳めと口煩く言ってくる人間が家にいるからな。

 そこでようやく私は莉緒のことを思い出す。カーテンの中でこそこそと携帯電話の電源を入れると、着信履歴に彼女の電話番号が表示される。

 実家じゃなくて莉緒に電話していたのか。まぁ、そっちの方がしっくりくる。ただ、私は彼女になんと伝えたのだろう。流石に倒れて病院に運ばれたとは言わないと思うけど。

 記憶が曖昧なまま私はカーテンを開き、今度は躊躇いなくナースコールを押す。ナースコールって名前なんだからナースが来ないとおかしいだろう。さっきまでいた男に不満を抱きながら待っていると今度は正真正銘若いナースが現れて、さっきこのボタンを押していればあの快活な男と話さなくて済んだのか、なんて考える。

 私は窓口に連れていかれ、様々な説明と共にそこそこ良い家電が一つ買えるほどの額を請求される。泣きそうになるのを必死に我慢しながら、今現金がないことを伝えると「後日で大丈夫ですので」なんて微笑まれた。

 手続きを進める途中で、ようやく自分がいる病院の場所を知る。

 自宅から車で三十分ほどの場所にある大学病院。様々な分野を内包している巨大な病院だ。なるほどここなら精神科も入っているだろう。いざとなればカウンセリングも可能って訳か。

 受付のお姉さんと笑顔で分かれ施設の外に出ると、外は晴れ晴れとしていて真夏の気温が私を襲う。タクシーが視界の端に映ったが、財布が寂しく鳴いていたので、近くのバス停までゆっくりと歩いた。

 帰ったら莉緒になんて言い訳しようか。あと数分で来るバスを待ちながら彼女を思い浮かべる。

「……狡いなぁ、私」

 彼女の事情は知ろうとする癖に、自分のことは何も話さない。

 私は、狡い。

「そろそろ、実家返らないとな……」

 もう数年帰っていない地元を想う。

 何もないけれど、全てがそこにある場所。

「私が墓参りに来ないから怒ってるのかな」

 空を仰ぐと燦々と輝く太陽が網膜を焼く。

 私はその光から逃げるように、目元をそっと手で覆った。


「まーりーさーん?」

「だからごめんって」

 自宅についたのはギリギリ午前中という時間。つまり丁度二十四時間家を空けていたことになる。

 放っておいても彼女は簡単に死なないと分かってしまってから、彼女の扱いが雑になってきている。

「なんですか、昨日の電話」

「えっと……」

 昨日の私は莉緒になんて説明したんだろう。なるべく無難な理由だと助かる。

「これから飲みに行くから帰れなくなるかもって何ですか! 電話が来たの、まだ空が明るい時間でしたよ? 採用試験終わってすぐに飲みに行くなんてどんな神経してるんですか」

「……あぁ、なるほど」

「なるほどって何ですか! しかもそれだけ言って電話切っちゃうし。心配したんですよ!」

 私も彼女の扱いが雑になってきているけど、彼女も私に対する接し方が雑になって来たな。なんだか、親族感が出てきたというか。

「いや、さ? 昨日試験会場で偶然大学時代の同期と合っちゃって。それで、お互いおつかれーって。ていうか試験終わって飲みに行くのはまぁまぁあると思うよ」

 我ながら嘘が上手い。

「麻里さんの友達も同じく三回も採用試験落ちてるんですか?」

「作用試験って結構倍率高いからね? そんな簡単に取れないから」

「麻里さんの不真面目さを見てからじゃ信憑性がないです」

 莉緒は大きな溜息を付いて、私に背中を見せる。さながら私は飲み歩いて嫁に怒られるサラリーマンってところか。

「莉緒、どんどん溜息が増えてってるね」

「誰のせいですか。……もう」

 キッチンへ向かいながらもう一度わざとらしく溜息をつく彼女の口角は心なしか上がっているように見えた。

「麻里さん、お腹空いてます?」

「え、うん」

 そういえば昨日の夜から何も食べてない。

「朝も食べてなさそうですもんね。一体どこに泊って来たんですか……」

「カプセルホテルだよ」

 清潔感があって、仕切りはカーテンで、それでいて宿泊費で安めの日帰り旅行に行ける小さなホテル。

「社会人はお金持ってますね」

「莉緒も相当持ってるでしょ」

「ただの嫌味なんでそこは気にしないでください」

「嫌味はそんなにストレートに伝えない方がいいよ」

「麻里さんはこれじゃないと伝わらないかなと思ったので」

 じゃれ合うようなコミュニケーション。それはなんとも心地いい。

「ちょっと待っててくださいね。今温めるんで」

「じゃあ着替えてくる」

「スーツ、煙草の匂いとか大丈夫ですか?」

「うーん。大丈夫だと思うよ。あそこ臭く無かったし」

 どっちかと言えば消毒液の匂いがしたくらい。

 私はスーツを脱いで部屋着に着替える。このスーツはもう始業式まで着ないし、クリーニングに出してしまおう。

「なんならシャワー先に浴びますか?」

「あー、じゃあそうする。頭がべたつく」

「夏にそれはテロですよ」

 初日にシャワーを進めたのに入らなかった人間が言う事かと頭の中で反撃を準備しつつ、私は無言でバスルームの扉を開ける。

 ここが彼女の隠れ家になっているならそれでいい。

 あの時の私のように、ここを逃げた先にしていい。

 それで彼女の心が落ち着くなら、迷惑なんて感じない。

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