13日目「命題」

「おはよう。莉緒」

「おはようございます」

 朝八時。空は晴れ。気温は高め。

 莉緒は朝から嬉しそうに笑っている。

「なに? 私の寝起きの顔そんなに面白い?」

「いいや。麻里さん。変わったなって」

「何が?」

「教えません」

「なにそれ」

「あとで教えてあげますよ」

「だからなにそれ……」

 起きて早々準備されている食卓に座る。同居を始めて私も料理をするようにはなったけど、まだまだ修行の身。莉緒師匠の料理には遠く及ばない。それは卵一つ、味噌汁一つとっても言えるること。

「やっぱり莉緒の焼く目玉焼きの方が美味しいよ」

「誰が作っても同じじゃないですか」

「私の食べたでしょ? 中身パッサパサなの」

「あれはあれで。です」

 一回失敗した程度で挫けるなという教訓めいたお言葉を頂き、私は黄身が流れ出す目玉焼きに醤油を掛ける。

「そういえば麻里さんは醤油派なんですね」

「なにが?」

「目玉焼きですよ」

「今更じゃない?」

「まぁ、そうですけど。一回はしたかったんですよ。目玉焼きに何を掛けるかの論争。ちまたでは血で血を洗ってるっていうじゃないですか」

「そんな物騒な」

 そういえばこの子、友達いないんだっけ。そんな話題を態々持ち出して話そうとするなんて、中々に拗らせていそうだ。

「争うにしても莉緒は何派なの?」

「私も一番は醤油ですかね」

「じゃあ、同陣営じゃん。争う必要もなし。……ていうか私、醤油以外掛けたことないかも」

「本当ですか……?」

「まじ」

 莉緒は私の返答に溜息をつき「かー。こいつはやってられねぇぜ」なんて言わんばかりに江戸っ子のような仕草を取る。

「多様性は大切ですよ」

「でも別に醤油で満足してるし。態々手を伸ばさなくてもいいじゃん」

「いざ戦うってなったらどうするんですか。敵を知らなければ戦えませんよ」

「なんでそんなに気合入ってんのよ……」

 莉緒が席を立ち、キッチンから様々な調味料を持ってこようとするので、私は落ち着いて彼女を止める。

「良いですか。試せるものは何でも試した方が絶対にいいんです。もしかしたらそこで新しい発見があるかもしれないじゃないですか」

「別に新しい出会いはいらないし」

「その考えが駄目なんです!」

 私の制止を無視して彼女は冷蔵庫からケチャップを取って戻ってくる。

「では、まずこれを」

「やらないって。もう醤油かけちゃってるし」

「じゃ、明日の朝はケチャップで決定ですね」

「だからなんでそんなに熱入ってるの……」

 私を別の陣営に追いやって言い争いたいだけなんじゃないか。そんなにやりたいならネット上で顔の知らない誰かとバトルしていればいいのに。

「ちなみにマヨネーズってのも」

「それどっちも卵じゃん」

 これから数日間の朝ご飯は毎朝違う味の目玉焼きを食べさせられる危機だけは容易に想像できた。




「麻里さん、一つやりたいことがあるんですけど」

 お昼を少し回った頃、莉緒は私の元に歩み寄る。手には二人の約束を書いたノート。序盤の数ページしか使っていない可哀想なノートだ。

「私、考えたんです」

「なにを?」

「毎日を輝かせる方法」

「あぁ、この間言ってたやつ」

 急に部屋を出ていったと思えば、帰って来て早々口に出したもの。

「最高に楽しむための方法です」

「夏休みを?」

「はい。延いては人生を」

「壮大だね」

 莉緒はノートを広げ、ページを捲る。ルールを書き留めた次のページを開けば、もちろん空白が広がる。

「この間、実は家に帰ったんですよ」

「――っ」

「あー。別にトラブルとかはないですよ? そもそも誰にも会ってませんし。丁度両親のいない時間だったので、これを取りに帰ってたんです」

 莉緒はもう一冊のノートを机の上に置く。

 年季の入ったノートだ。湿気を吸い、曲がっている。一年以上は使っているであろうノート。表紙もごく普通のもので、高校生が授業に使っているようなもの。

「麻里さん。やりたいことノートって書いたことありますか?」

「なにそれ」

「簡単ですよ。自分が死ぬまでにやりたいことをノートに書いていくんです。そして達成したらその項目を消す。新しいのが思い浮かんだらまた書き込む。そんなノートです」

「なるほど」

 彼女は年季の入ったノートをぺらぺらと捲りながら続ける。私にはその中身は見えない。

「私、目標が二つあるんですよ。あ、最初の日に麻里さんに言った綺麗に死にたいってのは最終目標なんですけど、それ以外で」

「うん」

 彼女の口から数日ぶりに死の話題が出るが、もうあまり驚かない。

「一つ目はこのノートを完成させること」

 ノートをひらひらと振って見せる。恐らく数年前から書き続けている物なのだろう。きっと書き始めたのは彼女がなにか問題を抱えた後。

「そして二つ目は、毎日眠るときに後悔をしない事」

「ポジティブな考え」

「違います。無理やり追い込んでるんです。明日死んでもいいように毎日最高な今日を過ごす。そう思って生活するんですよ」

 一日の密度が変わります。と笑って彼女はソファの上に正座した。隣に座る私に体を向けるので、折り畳んだ足の分もあってか顔の高さが同じになる。

「どうですか?」

「どうですかって?」

「麻里さんにできそうですか?」

「……?」

 莉緒はゆっくりと笑む。

「私、許せないんですよ」

「……なにが?」

「麻里さんの人生を、です」

 ふざけている雰囲気など一切ない。莉緒は私の目をまっすぐ見たままとんでもないことを言う。

 私の人生が許せない。か。

 それもそうか。

「だっておかしいじゃないですか。誰かの代わりの人生なんて。……絶対におかしい」

 首を九十度回転させて彼女を見ている私は、また金縛りにあったかのように動けなくなる。

 彼女の目に吸い寄せられる。それは引力。当然のように私を引き付ける。

「だから、私に手伝わせてください。……お願いします」

 彼女の目には炎が燃える。そして、同時に涙を溜めていた。

「どうして、そんなに」

 どうして彼女は私に手を差し伸べるのか。どう考えても変だ。だって私は彼女の自殺未遂を目撃してしまっただけの人間で、こんなに助けられていい側の人間じゃない。

 そもそも私は彼女を助けるために……。

「理由なんて一つしかありません。私が……麻里さんに助けられているから」

「助けられてる……? 私、何もしてない。莉緒を引き留めてから何もできてない。むしろずっと莉緒に――」

「いいんです。いいんですよ。理由なんて。多分これは私のエゴなんです。だから麻里さんが拒むならそれでもいい。……でも。麻里さんだって変われる。だって、私が変われたんだから」

 莉緒は視線を変えずに、そっと私の手の上に自分の手を重ねる。その手は熱く、赤子の手のようだった。

「麻里さんは知らなくていい。でもこれだけは確かなんです。私は麻里さんに救われてる。身勝手な動機ですけど、これじゃ理由になりませんか?」

 私は何も言わない。

 だって私は「助けて」なんて一度も口にしたことがない。

 だから私は勝手がわからず、何も言えない。

 自分が助けられる側だという自覚すらない。

「麻里さんに一つ、夏休みの宿題を出します」

 私の沈黙を肯定と捉えたのだろう。一度重ねられた手に力が籠められ、彼女は私にそう言い放つ。

「……宿題?」

「はい。私が出すのは烏滸がましいかもしれませんが」

「……そんなことはない、けど」

「大丈夫です。私も一緒にやります。それに、なにも難しいことじゃないですから」

 莉緒は一度ソファから降りると机の上の二冊を手に取って戻ってくる。

「麻里さんにはこのノートを埋めてもらいます」

「したいことで?」

「そうです。そしてこの夏を使って一つずつ消化していくんです。勿論この夏に出来ないことだって沢山あります。だからずっと先の未来を見据えて書くんです。そうして作られるこの本は麻里さんの目標の一つになるんですよ。やっぱり目標は形になっている方が分かりやすいですし」

 目標。

 中学生の私が捨ててしまったもの。あれから私は一度たりとも自分で目標を定めたことなどない。

 他人の目標に寄生して、周囲の流れに従って、流されるままここにいる。

「ねぇ、麻里さん。前を向いて、歩きましょう? 自分が歩く先を見て、前に進みましょう?」

 おかしい。

 これじゃ立場が真逆じゃないか。

 死のうとする彼女に生きている理由を作ってあげようと手を取った。

 なのに気が付けば、空っぽの私が彼女に理由を作ってもらおうとしている。

「なので特別に、私の人生も少しだけ見せちゃいます。本当に特別なんですよ? 誰にも見せたことないんですから」

 彼女はいじらしく笑うと、私にノートを差し出す。

 開かれたページは最初のページだった。

「これは二年前に書いたページです。これ、本当は数学のノートのつもりで買ってて、ここに書き込んだのも数学の時間だったんですよ。高校に入って一番最初の授業だった気がします。それが数学の授業でした」

 莉緒は昔を思い出すように黒目を斜め上に向けながら、話し始める。

「最初の授業だったので、先生も生徒も自己紹介をして。それで二十分くらい時間が余っちゃって。そしたら数学の先生が、高校生はこんな問題をやるんだって例題を出したんです。それが命題の真偽の問題でした。麻里さんなら勿論わかりますよね?」

「以下の命題の真偽を述べよ。でしょ」

「はい。丁度その時、こういうやりたいことノートを作ろうって考えていて、その命題の問題が丁度いいなって思ったんです。だから先生が黒板に書いた問題を写すふりをして、ここに書きました。これはこのノートのテーマなんです」

 高校一年の時にノートを作ろうとしたという事は、少なくとも彼女は二年前からこんな生活をしていたという事だろうか。

 しかし、彼女のノートを見た瞬間の衝撃は、私に彼女の詮索をすることを許してはくれなかった。

 一見、拗らせた中学生が書いたような文章。ただ、それを彼女が書いたと考えると肌が泡立った。妙に生々しく、感情のこもった問題。

『以下の命題の真偽を述べ、真の場合にはここに証明し、偽の場合には反例を上げよ』

 その問題を私は答えることができない。

『私は生まれてきてよかった』

 声が出なかった。

 その問題の下には空白の解答欄が設けられている。

「麻里さん……。大丈夫ですか?」

「……?」

「涙」

「……え」

 私は泣いていた。

 静かに左目から顎に涙が伝っている。

 その液体を手で触れて、目を見開く。

「私、泣いてる……?」

 泣いている。

 それは、とても懐かしい感覚。

 数年ぶりの感情だった。

 彼女といると私が蘇る。今までロボットのように毎日を過ごしていたのに、様々な感情が溢れてくる。まるで。

『まーちゃんといると僕は人間でいれる気がする』

「莉緒といると私、人間に戻ったみたいだ」

 数年間意味の分からなかった言葉に色が付いた。

 やっぱりだ。やっぱり莉緒といると私は佳晴を思い出してしまう。

「なんですか、それ」

「……何でもない」

 彼女のノートの解答欄に涙が落ち、慌ててノートを返す。

彼女の人生を私の涙で汚すわけにはいかない。こんな、人間の紛い物が流した涙を彼女のページに刻めない。

「これがこのノートのテーマです。私はこの一冊に人生を詰め込んで証明するんです。私は生まれてきてよかった。間違いじゃなかったって。胸を張って言うんです。その為に私は毎日を生きる」

 どうして彼女はここまで自分を追いつめているのか。

 それはきっと聞いたって教えてくれないのだろう。

「そんな悲しい顔しないでくださいよ。これは悲しい本じゃないんですよ?」

「……だって」

「わかってないですね。これは私が幸せになる本です。最期に私が笑うための本。だから泣かないでください」

 私の目元に莉緒の手が伸びる。

 柔らかい手の平が私の涙を拭い去っていく。

 その感触はとても暖かい。

「ほら、ここを見てください!」

 私の涙を止める為に、彼女はもう一度私にノートを渡す。

 声は明るく、まるで私を元気づけるようだった。

 手に取ったそれは右のページが硬い。視界は涙でぼやけていたが、それが最後のページであることは理解ができた。

「ごめん」

 自分の手でもう一度涙を拭い、晴れた視界で彼女の人生の最後のページを見る。

 多分これは彼女のやりたい事。

 この物語の集大成にして、彼女のゴール。

『幸せだったと思いながら、笑顔で死ぬこと』

 その一文はすぐに滲んで、私の視界から莉緒の顔も見えなくなった。

 

 


「大丈夫ですか? 麻里さん」

「……うん」

 私は久しぶりの涙で眩暈を起こして、暫くの間横になっていた。

 なんてかっこ悪い大人だ。

 歳を取ると涙を流すことが少なくなるなんて言うけれど、私の場合は少し違う。高校の時に涙が枯れるまで泣いて、そこで壊れてしまった感情は停止した。

 感情とトラウマと。全てが凍り付いてしまった。

 だから私の時間はあの時のまま止まっている。

 それは今でも動かない。

 体は日に日に変化していくけれど、中身は変わらない。

 多分私は高校生の私から、何一つ成長していない。

 ただ、そうやって私の中で大きく固まった氷が、莉緒と触れ合うことで少しずつ溶けだしているのが分かる。彼女の温かさに触れて、私の氷はゆっくりと表面から液体になって流れ出す。

 あの夢も同じ。

 止まっていた時間が動き出してしまったから、あの時の光景が脳をチラつくんだ。

「……全部溶けたらどうなるんだろ」

「なんです?」

「ううん。なんでもない」

 自分でも心の溶け具合は理解できる。まだまだ氷は大きい。時間はまだ止まったままだ。だってあの頃と比べたら幻覚も感情も甘い。あの頃の地獄のような感覚とは比べられない。

 あの頃の私は崩壊寸前で。だから脳が防衛本能で心を凍らせたのだろう。カウンセリングもその一端を担っていたのかもしれない。

 だからこの氷が完全に溶ける時、多分私は壊れてしまう。

 彼の後を追ってしまう。

「ごめんね、莉緒」

「いいえ、大丈夫ですよ。でも、麻里さん……」

「ん?」

「いえ、やっぱり何でもないです。詮索はしません」

「ごめんね。……かっこ悪いなぁ、私」

「大丈夫ですよ。麻里さんはこれまで一度も格好いいところなんてなかったです」

「そうだった」

「はい」

 莉緒はベッドに横たわる私を見ている。膝立ちのような体勢になりながら、床から数十センチ高いベッドに両腕をつき、その上に顔を乗せる。

 私がゆっくり莉緒の方へ顔を傾けると、彼女の顔が目の前にある。

 息も感じられそうな距離に彼女を見ながら、私は彼女に決意を伝えた。

「書くよ。ノート」

「……ありがとうございます」

「なんで莉緒がお礼言うの。お礼しなきゃいけないのはこっち。……ありがとう。莉緒」

「どういたしまして」

「……ありがと」

「ノートを書くのは明日にしましょう。時間はいっぱいありますし」

「うん。あ、でも一つ」

「なんですか?」

「私のノートにさ、莉緒が書いてよ」

「なにを?」

「最初の命題」

「……私のと一緒でいいんですか?」

「うん。私もさ。ちょっと証明したくなっちゃった」

「普通はあれを見て気味悪がるんですよ?」

「私がそんな人間に見える?」

「見えません」

「それにさ。意味は違うけどちょっといいなって思ったんだ。命題」

「どういうことですか?」

「数学の意味で考えると真偽の問いだけどさ。漢字で見ると違くも見える」

「命の……」

「命の題名」

「なんだ……。麻里さんもロマンチックなこと言えるじゃないですか」

「そう? ぴったりだなって思っただけ」

「……その命のテーマを問うのが私でいいんですか?」

「うん。莉緒が適任。これは宿題でしょ? 私が書いたら、ただの自習になっちゃう」

「真面目なんだか不真面目なんだか」

「どっちでもない」

「麻里さんは中途半端ですね」

「それにさ。勉強をしてると落ち着くんだよ」

「それに関してはさっぱりわかりません」

「分からなくていいよ。莉緒は勉強よりもやるべきことが沢山あるでしょ」

「そうですね。世界の全てを体験するには一生あっても足りませんから」

「だから私も、それに少しの間だけ同席させてほしいなって」

「どうぞ。……一緒に解きましょう。この問題、難しくて全然分からないんです」

「そっか、じゃあ私の出番だね」

「はい。教えてくださいね。先生」

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