シカゴ ― 追憶のOh Stevieばあさん

アイオイ アクト

前編

 あれは、1990年頃の事だった。


 当時小学生だった私は、親の仕事の都合で日本を離れ、北米で暮らしていた。

 果てしなく広い大地を走り回る大きなシカやリスやアライグマ、驚く程巨大な家、広大な庭、家に備え付けられた巨大な冷蔵庫、そして巨大なスーパーマーケット。日本とはあまりにも違う世界に翻弄された。

 そこで見かけた不思議なばあさんもまた、後にも先にも見かけたことがない、不思議な存在だった。


 小さな頃から、私には霊感と思しき感覚があった。

 私の母も叔母もそれを持っており、特別だと感じたことは一度もない。

 むしろ、邪魔な感覚だった。

 衆人環視の中で霊と思しき何かを見かけ、体が跳ねる程驚いてしまった事は何度もある。他人に変な目で見られ、私の自尊心は常にズタズタだった。


 十数年前までは、たくさんの霊能者がテレビで活躍していたので、私も有名になれるかもしれないという浅ましい思いに囚われた事があるが、すぐに断念した。

 私は霊能者が証言するかのような経験は少なかったからだ。

 遭遇した霊と思しき何かは大体の場合、同じ場所で同じ事を繰り返しているだけの存在が多かった。

 偶にちょっかいをかけられたり、語りかけられたりする事があっても、再び遭遇することがあれば、全く同じ事をされるだけだったのだ。

 そして当たり前の事だが、私には除霊などの知識は一切なかった。

 しかも、私のこの感覚には波があった。

 私には見える時期と見えない時期が交互に訪れ、しかも周期が全く一定しない。

 つまり、私のこの霊感と思しき感覚は、人生において何の役にも立たない感覚だったのだ。


 私がアメリカで遭遇したばあさんもまた、私が住む家の斜め前にある家の前に置かれた外のベンチに座ったまま、歌っているかのように同じ言葉を繰り返すだけの存在だった。

 単なるボケたばあさんではないのかと思うだろうが、絶対にそれはあり得ない。


 その場所は、アメリカ合衆国中部にあるイリノイ州のシカゴという街の郊外だったからである。


 シカゴという街の名前は誰しも聞いた事があるだろう。

 有名な五大湖の一つであるミシガン湖の湖畔に広がる、アメリカ第三位の人口を誇る巨大な都市である。

 それだけ発達した町なのだから、さぞかし安定した気象条件なのだろうと思うかもしれないが、実際は高緯度かつ内陸性の『亜寒帯湿潤気候』であり、季節の寒暖差が激しい過酷な地域だった。

 夏は摂氏四十度を超え、冬はマイナス二十度以下まで下がる事もしばしばある。

 夏も冬も、外に出るだけで死の危険がある環境で、薄っぺらいパジャマに薄いナイトガウンを羽織っただけの、白人の老婆がベンチに座り、歌のような台詞を吐き続ける事など、絶対にあり得ないのだ。


 そのばあさんはベンチから動くこともなく、ただ同じ事を呟いていた。


「Oh, Stevie〜、 where have you bee〜n?」



 ばあさんを初めて見たのは、その家へと引っ越してきてすぐの、過ごしやすい秋の日だった。

 私の部屋は三階建ての家の中二階にあり、表の通り側に窓があった。


 当時小学四年だった私が部屋の窓を開け放ったまま本を読んでいると、その歌うかのような声が、微かに聞こえたのだ。

 窓の外を見ると、左斜め前にあるきれいな家の前庭の歩道から一メートル程の場所に置かれていた、おしゃれな形のベンチに、声の主であるばあさんが座っていた。


 よく、何か良からぬものが近くにいると「鳥肌が立つ」、「気持ち悪くなる」と、霊感を持っている人は言うが、私にその感覚はあまりなかった。全く無かったという訳では無いが。


 その時も、私の体調に異変はなかった。

 だが、ばあさんの着ている服が風で一切揺れていなかったので、すぐに普通の人ではない事には気付いた。

 この頃私は既に人ではない存在はほぼ瞬きをしない、不可解なほど同じ事を繰り返す、そして服が風に揺れないなど、見分ける事には長けていたのだ。


「Oh, Stevie, where have you been?」

 和訳すると、「おおスティービー、どこへ行っていたの?」または「おおスティービー、どこで何をしていたの?」となるだろうか。

 ばあさんはずっとこの言葉を歌うように繰り返していた。

 不気味と言えば不気味なのだが、恐怖はあまり感じなかった。

 このばあさんからは、よく見かける霊と思しき何かにありがちな悲壮感や渇望感といった感情が見いだせなかったからだ。

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