エピローグ/ネクストステージ(前)

 何処ともしれぬ地下の空間に、湿った肉の臭いが漂っている。

 決して不快に感じるものではない。

 馴染みのない香りだが好ましく感じられるはずだ。不思議と、あるいは不自然に。

 それは、嗅げば嗅ぐほどに精神を乱し、臭いに耽溺させるような、極めて依存性の高い薬物を偽装するための香り。

 正常な思考能力をそのままに、快楽神経を空転させ、価値観を食い荒らし、意に従う従順な『端末』を作り出し、維持するための仕掛けであった。

 生合成できる物質であるならば、時計塔が首魁『肉の魔女』の魔法で生成できないものはない。

 たとえ、未だ他の誰にも見出されていないような悪魔めいた生理活性物質でさえ。




 その奥深く、土下座して縮こまる人間を雑に溶かして固めたような、太い肉の管で乱雑に頭だけを繋ぎ合わせたような、醜悪な肉のオブジェに囲まれた部屋の中に少女が腰掛けている。

 年嵩は七つに満たない程。

 黒天鵞絨ベルベットのように深い黒髪に虹の光沢を備え、切れ長の瞳は夜空のように黒く輝き、濃桜色の唇からは人ならぬ妖しい色気が漂っている。

 身体には一糸まとわず、女性的な膨らみこそ見られないものの、未成熟の柔らかな輪郭が露わになっている。

 その肌は吸い込まれるほどに白く、きめ細かい。

 醜悪な肉塊に腰掛け、艶然と微笑んで見せるその少女こそ、先の戦いで自死を選んだはずの『肉の魔女』の新たなる依代であった。

 その両脇に控える男女が、平伏しながら嘆きの言葉を漏らす。


「おお、母上……おいたわしや、そのような姿になられて」

「母上の身体以外にも、我らが失ったものは甚大です。我らが本拠地たる時計塔は焼け落ち、『人の算盤』も多くが失われてしまいました」


 少女――肉の魔女は、細く白い腕をなめらかに動かし、腰掛けている肉塊を軽く叩いてみせた。


「ああ、? こんなもの、幾らでも手に入るんだから、気にしなくていいんだよ」


 魔女の配下が人の算盤と呼ぶそれは意図して人の身体を象っているわけではない。

 ただたる人間を、必要に応じて繋ぎ合わせた結果として、人の姿が手付かずのまま残っているというだけのことだった。

 算盤と呼ぶからには何らかの計算を行うものなのだろうが、何を計算しているのかを知る者は、肉の魔女本人以外に知る者はいなかった。

 頭骨の形が残る滑らかな曲面を、肉の魔女はそろりと撫でた。

 白魚の如く躍る艶めかしい指先に熱い視線を向けながら、男は主人に希う。


「そうまでして、奴らに楔を打ち込む必要があったと。理解の及ばぬ私たちに、どうかその遠大なお考えの一端をお教え願えませんか」

「そうです! 母上の力を持ってすれば、天仙道てんせんどうなど取るに足らない相手。何故我らに抗戦を命じて下さらなかったのでしょう!」


 負けじとばかりに言葉を継ぐ女の表情は、まるで兄弟に愛しい母を取られた幼児のようだった。

 肉の魔女は、未だあどけなさの残る顔立ちに、慈母の如き柔らかな眼差しをたたえ、稚気じみた争いをする二人に言葉を投げかける。


「それはね、私が死にたくないからだよ」


 それはあまりにも俗っぽい理由。

 時計塔の長、蟻塚ありづかの女王。この世界の魔法使いの中でも10指に数えられるであろう大魔法使いである肉の魔女に、最も似合いそうもない言葉に、魔女の配下は言葉をしばし失った。

 母の言葉は絶対。

 しかし、先だってまさに自分の『死』を道具のように用いて、敵対勢力の魔法を封じたその本人が、『死にたくない』とは?


「お戯れを……あなたこそ、死から最も遠い存在ではありませんか」

「そうだね。でも、遠いだけで絶対じゃない」


 肉の魔女。肉の支配者。

 他人の身体だろうと自分の肉体であろうと、自由自在に変じて見せる、正しく人外の怪物。

 万の刃で心臓を貫かれたとて、その場でもう一つ心臓を作り上げれば良いだけのこと。

 億の刃で散々に刻まれようとも、その挽肉を喰らい、新たな身体を作り上げれば良いだけのこと。

 殖え、侵し、蔓延し続ける形で不死を実現した、現代最高峰の魔法使いの一人は、目を細めて答えた。


「例えばあの、炎の魔法使い。あれに全てを焼かれたら、私も復活の余地なく消えてしまう」


 魔女が思い返すのは、
『焼失』と呼ばれた男が使っていた炎。

 炎を媒介として、焼いたものの全てをにする、虚空蔵追放ダムナディオ・メモリアエと呼ばれる類の、特異な魔法だった。

 物理現象としての火であれば難なく防ぎ得るはずの魔女の身体を、容易く焼き消してのけるあの魔法なら。

 再生能力の通用しない、全てを文字通り焼いて失わせるあの魔法で肉体全てを焼かれてしまったら、いかな肉の魔女とて、存在の完全消失――即ち『死』を免れることはできないだろう。

 しかしそれは。の話だ。

 魔女の配下は、自らの主が持つ絶対的なまでの優位性を誇らしく感じた。


「あり得ません。この世界の何処に隠されているとも知れぬ母上の肉、その全てを焼き滅ぼさねばならないということ。僅か一片の肉片からでも、母上ならば殖え、蔓延り、身体を作り上げることができる。地球上の全てを焼いて滅ぼしでもしない限り不可能でしょう!」

「地球上の全てが滅ぶ程度のことで、わたしが死んでしまうのでしょう? それは嫌。わたしは死にたくないもの」


 熱に浮かされたような女の口上と対称的に、魔女は底冷えするような冷たさを孕んだ口調で答えた。

 地球そのものと自らの命ひとつを、当たり前のように天秤にかけてみせる――否。

 地球程度の瑣事など自分の命と天秤にかけるまでもないといったスケールの違い。

 崇拝する母上の不興を買ったと気付いて、女の顔から血の気がさっと引く。


「わたしは死にたくない。わたしは死にたくない。わたしは死にたくない。ねえ、。わかる?」


 人の算盤から降り、立ち上がって二歩進んだ魔女は、先程までの優雅な微笑を消し、跪く女を無表情で見下ろした。女に浴びせられた無言の圧力は、尋常のものではない。

 これがただの質問ではないということをどうしようもなく理解させられる。

 自分が今、魔女の逆鱗に触れてしまったのだということを実感させられた女は、がつんと音が鳴るほどに素早く、乱暴に額を床に打ちつけた。

 まるで制御することを忘れてしまったかのように小さく震える全身を必死で押さえつけながら考え、答えを口にする。


「わ、わかります」


 二度も続けて過てば、『用済み』にされてもおかしくはない。


 女は絶対者の問いかけに、肯定で答えた。


「『どこからどこまで私だろう。髪の端から爪の先』」


 少女の姿をした魔女は歌うようにそう呟くと、傅いたまま僅かに震える女の頬へ細く短い指を絡ませた。

 割れた額から溢れた血を掬うようにして指に絡め、塗りたくるように頬に触れる。

 指の腹でただ撫ぜられているだけとは信じられないほどの甘美な感覚に、緊張していた女の表情がだらしなく緩む。

 うっとりとした表情で、されるがままになっている女の肌に、その指が突如ぞぶりと沈み込んだ。


「っ、あああああああアーーーー!」


 絶叫が上がる。

 恐怖からのものではない。苦痛に満ちたものでもない。

 その叫び声には、隠しきれない歓喜と悦楽が含まれていた。


「わからないでしょ。だって、あなたたちは死を恐れてなんかいない。自分よりも多少強大な存在が現れたら、あるいは、地球を焼き滅ぼすほどの大災害に襲われたら、死んでしまっても仕方ない、と思っている。はじめから生きることに執着していない」




 身体に身体が沈み込む、心霊医術と呼ばれる儀式に似たそれは、人外の快楽を伴っていた。

 女が上げる甲高い嬌声を無視して、肉の魔女は手首まで女の頭に突っ込むと、妖しく整った無表情で言葉を続ける。




「現に、今ここでこうしてわたしに命を握られているのに、それをあなたは受け容れている。気持ち良ければそれでいい。わたしが与える役割に沿って、わたしの与える快楽を貪る方が、命よりも大切。そうだよね?」


「あッ、う、ううう、あ、きあっ、あぁァーーー」


「命と釣り合うものなんてありはしないの。それも分からないくせに……その程度にしか死を恐れていないくせに、その程度の無価値な命しか持ち合わせていないくせに。私の願いを知ったように語らないでね」




 淡々と紡がれる主の言葉を、もはや女は聞くことはできなかった。

 粘土でも捏ねるような、あるいは卵でも掻き混ぜるような乱雑な手付きで、自分の身体がぐしゃぐしゃにかき混ぜられ、それなのに、肉の一欠、血の一滴すらも損なわれることはない。

 
『肉の魔女』の魔法、肉体の変質。


 肉体を変質させるというだけであるはずのその魔法によって、身を焼き焦がすような、身体のそこかしこが爆ぜ狂うような、快楽を伴う責め苦を味わされていた。


 意味のある言葉を発することはできず、生理的な反応として、涎や涙、あらゆる体液を撒き散らし、断続的な筋肉の収縮によってのたうち回りながら、意味を持たない絶叫を上げることだけが許されていた。


 でたらめにかき混ぜられ、人としての形さえ失い、一つの巨大な異形の肉塊と化していた女から、魔女が唐突に手を離す。

 エヴェレット収束と呼ばれる空間の歪みとともに、女は急速に人の形を取り戻し、その場にへたり込んだ。


 割れた額も、いつの間にか元通り傷のない身体へと作り変えられていた。


「あああ、あうあ……」




 しかしその精神まですぐに元どおりとはいかなかった。与えられた暴力的な快感、その余韻に浸るように、忘我の淵に蕩けてしまっている。


「でも今日は機嫌がいいから許してあげる。よかったね、死なずに済んで」



 肉の魔女は、人生最大の幸福を味わっていただろう、女の悶絶する様を一瞥して、興味なさげに視線を逸らした。



 そして隣で伏したままの男に向かって、戯れに問いかける。


「あなたはどう? 命を大切だと思う?」


「思います。だからこそ、母上のためならこの命、捧げることを厭いません」




 顔を上げて答えた男の目には、期待の色が隠し切れていなかった。


 自分もあの快楽を味わいたい。


 魔女の手でぐしゃぐしゃにかき混ぜられてしまいたい。


 浅ましい、露骨な欲望を目の前にして、肉の魔女は僅かに眉を顰めた。


 しかし、彼らをそうのは魔女自身であった。

 そう答えるように価値観を破壊し、魔女のことを崇め、第一に扱うように、都合のいい『端末』として作り変えたのだった。麻薬めいた生理活性物質で。直接与えた肉体的快楽で。目の前で人をゴミのように破壊する様を見せつけることで。

 肉の魔女は小さな唇から小さな落胆のため息を漏らすにとどめた。






「そうだよ。大切なのは私の命だからね」

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