第40話 不死の彼女の望むもの(3)
「行くぞ」
「おうさ」
短いやり取りと共に、標識と焼失が駆け出した。
触手の群れは先程までの蛇のような俊敏さを失い、死にかけたミミズのような遅々とした動きで、二人を追う。
標識の手に持つ白棒の先にある、逆三角の交通標識。
『徐行』を示す標識によって、その動きを阻まれているのだった。
顕が結界を解除すると、肉の魔女の隣に控えていた律が、猛然と駆け出した。
『左の女が結界斬撃。右の男が未来予知の魔法使いだ』
月彦は駆け出した二人に言霊を飛ばす。
了承の意を、ごく短い吐息だけで表した二人を見て、月彦は冷静に、
「(言霊を用いた通信に慣れすぎている……同じような魔法を使う魔法使いが隠れているか)」
と、姿の見えぬ第三者の存在を推察していた。
先程の敗北を覚えていたのか、律は標識を避けるよう、横っ飛びに軌跡を変え、焼失を狙うよう駆けた。
「お母様!」
「締りのねえ掛け声だ」
日本刀を振り回す。
その軌跡に沿うようにして、結界による斬撃が飛ぶ。
あらゆるものを切り裂く不可視の斬撃はしかし、
「誰がその技を教えたと思っているんだ、律」
遠く離れた所から、顕が放った結界によって相殺される。
「燃えて失せろ」
刀を振り抜いた状態で、僅かに硬直していた律に、焼失の手に持ったライターから、舐めるように炎が襲いかかる。
「ダメだよ。この子は大切な私の子」
しかし、律の身体は瞬間移動と見紛うような速度で現れた、肉の魔女によって引き戻された。
焼失が鋭く舌を鳴らす。
「おい、『徐行』効いてないぞ」
「広範囲型じゃだめだ。レジストされる。だから」
標識は、手の中の白棒を地面に挿すと、中空から新たな棒を二本取り出した。
「もう二本出す」
白棒の先にはそれぞれ、『一時停止』と『その他注意』の交通標識が付いている。
地面に刺さった『徐行』の交通標識の効果も、失われてはいないようで、触手の動きは鈍ったままだった。
「法則制御……便利だね。欲しいなあ」
律の身体を左手で軽々と持ち上げながら、肉の魔女は物欲しそうに呟いた。
その左手が、不気味に蠢動し、大きさを増してゆく。
ぶよぶよと膨れ上がった左手は、そのまま一気に肥大化すると、律の身体を飲み込んでしまった。
一瞬の静寂。
魔女の左手は、何事もなかったかのようにその大きさを元に戻した。
「直接触ると、取り込まれるってか。どこまでも趣味の悪ィ魔法だこと」
吐き捨てるように嫌悪を示した焼失に、歌うような調子で魔女は答える。
「私のかわいい子供。生まれたばかりの子供が、お腹の中にいることが、そんなに悪いことかな」
「違えよ。お前が気持ち悪いっつってんだ」
焼失が言い終わるか否かの隙に、標識が動き出している。
白棒を振りかざし、投げる。
唸りを上げて回転するそれを、肉の魔女は難なく掴み取ってみせた。
妖艶な顔に、少女のような純粋な笑みが浮かぶ。
「くれるの? ありがとう」
その身体が、一瞬だけ硬直する。
「『一時停止』」
「それで?」
本当に一瞬だけ止まった後に、肉の魔女は首を傾げた。
ぱきり、と碁石の砕ける音が響き、空間を埋め尽くすような、大量の結界が、肉の魔女を寸断すべく出現した。
血飛沫が舞う。
「これで終わり?」
血煙の中から平然と現れた肉の魔女は、落胆したような口調でそう言ってのけた。
魔女の身体を守ったのは、律の使っていた結界の術式だった。
「まずは目か足を狙う。基本だろ」
「ああ、これのこと」
肉の魔女は、光悦の表情を浮かべたまま細切れにされた、卜部の死体を見下ろした。
「もういらなかったのに。かわいそう」
「『かわいい子供』じゃねェのか?」
「ぜんぜん違うよ。へその緒がないでしょ」
「違いが分からねえよ」
ぶっきらぼうにそう答えた焼失に、肉の魔女は頬を膨らませてみせた。
「ねえ。様子見はやめて、そろそろ本気を出してほしいな。もう待ちきれないよ」
そう言うと、魔女は自分の身を掻き抱き、目を輝かせながらぴょんぴょんと小さく何度も跳ねた。
言葉の通り、待ち望んでいた瞬間を待ちきれず、興奮する子供のように。
「言われなくともそうしてやるさ」
標識は左手に持ったままの『その他注意』の標識を床に突き挿すと、再び宙から白棒を取り出した。
その先には、『一時停止』の交通標識と、『最低速度60km』の交通標識、二つが付いている。
取り出した白棒を右肩に担ぎ、一歩踏み出した瞬間にはもう、
「『最低速度60km』」
十歩の距離を、一息で詰めていた。
魔女の笑み。
「『一時停止』」
渾身の力を込めて、標識は右腕を振るう。
横薙ぎの一撃。
大振りではあったが、魔女が反応するよりも早く、『一時停止』が発動している。
躱すことはできない。
不可避の攻撃。
そのはずだった。
「肉の魔女おおおおおおおおおお!」
怨嗟の篭った叫び声が部屋に響いた。
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