第35話 最愛の子供と繋がる絆(5)

 曲輪木律は、いわゆる『できそこない』の魔法使いだった。

『結界』の魔法を使うことに長けた曲輪木一族の中でも、満足に結界を張ることのできない落ちこぼれ。

 当代一の結界使い、曲輪木顕などは、五歳の誕生日のその日に宙に張った結界を踏み、空を駆け回る、といった芸当まで成してのけたほど。

 にもかかわらず、律は、十二歳になっても、簡単な平面結界の一つも張ることができなかった。




「……ぐす」

「泣いているのかい」


 涙を袖で拭い、ぱっと振り返る。

 聞いたことのある声だった。

 いつも厳しく、自分を叩き、罵倒している父でさえ平伏する、『とうしゅだいり』。

 そのひとが、私に話しかけてくださっていた。


「な、泣いてない、です! リツは、リツはいい子だから」

「そうか」


 そう言って、頭に乗せられた手の暖かさを、覚えている。


「もう一度、やってごらん」


 その手と同じくらい暖かい声だ、と思ったことも。


 私は、声に誘われ、導かれるようにして結界の魔法を構築しようとした。

 空間が歪み、エヴェレット収束が発生し。

 そのまま、何も起こらず、消失してしまった。


「……あ」


 せっかく見ていてくださったのに。

 失望させてしまう。

 父と同じように、このひとにまで嫌われてしまう。

 私に向けて手が伸ばされ、思わず身を竦めてしまう。

 しかしその手は頬を打擲するのではなく。

 溢れそうになる涙を、そっと拭ってくれた。


「きみの結界は……出力がずば抜けているな」

「え?」


 かけられた言葉の意味を、理解するのにひどく時間がかかったことを覚えている。


「どうやらきみは、発動した魔法を持続させることが苦手なようだ。しかし、だとするなら」


 そのひとはそう言うとかがみ込み、落ちていた枝を拾い上げると、宙に放り投げ―――腕を一閃した。


「わ!」


 宙で枝が切り刻まれてゆく。

 私にもわかるように、見せつけるようにして。

 そのひとは結界で物を斬る、ということを教えてくれた。


「大丈夫。きみはできそこないなんかじゃない―――魔法というのは、できそこないが可能性を掴むためのものだ。一つのやり方にこだわる必要なんてないのさ」


 そう言って、ウィンクする顔が、虹色に輝いて見えたのを覚えている。

 そのひとは、私ができそこないじゃないということを教えてくれた。

 そのひとの名前は、■■■■。

 私がいちばん、尊敬するひと。


 ■■■■。


 ■■■■。


 ■■■■


 ■■■■■



 ■■■■■■……




 すなわちそれは、『にくのまじょ』。






「あは、あはははは! はい、したがいます! リツは、リツは! こいつら全員ぶった斬るです!!!」


 狂気の哄笑と共に立ち上がった律は、首をぐるりと回して倒れたままの逆巻を、動けないままの神一を、そして、欲望に塗れた視線で律に癒着した肉の蛇を睨みつける憂暮を見た。

 血塗れの刀を抜き放ち、空を断つように強く振る。

 ひょう、と空気を裂く音と共に、固まりかけていた血が飛んだ。

 月彦はそれを見ながら、必死で頭を回していた。


(最悪の二乗だな。しかし)


 それでも、この程度。

 月彦だったなら、笑顔で乗り切る状況でしかない。

 なにせ、まだ月彦の口は開くのだから。

『言霊』が使えるのだから―――

 神一は、精一杯の力を込めて、唇を歪めてみせた。


(とはいえ、まずはこの身を縛る呪い。これを解かなくては……どうして僕は動けない?)


 片手に刀をぶら下げて、笑みを浮かべながら空中の何かと会話する律。

 動かないままの憂暮。

 まだ幾分の猶予があることを確認し、さらに思考を回す。


(動けない、動かない、『動けない』……何か違和感があるな。僕は別に動けないわけではない。呼吸はできるし、僅かに身じろぎすることくらいはできる。強制力の高い法則制御でも、念動力でもない……だとするならば、そう。僕は『動きたくない』と思っている、思わされている・・・・・・・


 だとするならば。


「行く、です!」

「『焦燥フレット!』」


 姿勢を低く構え、床を蹴って迫り来る律。

 倒れたままの逆巻の首が、通り過ぎざまに切断され、激しく血を噴出する。

 そのままの勢いで走り、横薙ぎに神一を両断しようとした律の刀を、無様に転がることで、なんとか躱す。

 憂暮が、それを見て薄い笑みを浮かべる。


「私の『怠惰レサジー』から逃れるとは……しかし、これは酷いなあ。随分と顔色が悪いようですが……大丈夫ですか?」


 言われた通り、神一の額には脂汗が浮かび、もともと白い肌は、血の気が引いて完全に蒼白になっていた。

怠惰レサジー』。

 神一が気付いたとおり、それは精神に作用する魔法。

 やる気を奪い、無気力に変じるその魔法を無効化するため、焦燥感を掻き立てる『焦燥フレット』を自分に撃ち込み、無理やり身体を動かした代償。

 ブレーキとアクセルを同時に思い切り踏み込んだ車のように、神一の身体に大きな負荷がかかっていたのだった。

 それでも神一は、笑みで応える。

 朽網月彦ならば。

 自分の思う、最強の言霊使いならば、そうするだろうから。


「敵の心配とは、随分と余裕だな、時計塔」

「あなたがあんまり酷い顔をしているのでねえ。敵ながら心配にもなろうというものですよ。そら、今にも死んでしまいそうで―――」

「『嘘看破ペネトレイト』!」 


 神一が突如として吼える。

 エヴェレット収束が発生し、憂暮を包む。

 憂暮は舌打ちをした。


「その男を殺せ! 母上の為を思うならば!」


 未知の魔法に恐れをなしたか、憂暮が神一を指差し、律に命じる。

 夢現の狭間にいるように、ふわふわと落ち着かない様子の律は、その言葉に応じるように再び低い低い姿勢に構え、

 瞬きの合間に、憂暮を二つに斬り分けた。


「は……?」


 それは肺から空気が漏れた音か、それとも問いかけの一つだったか。

 その答えを抱えたまま、憂暮は血を撒き散らし、床に落ちた。


「……クソッ、僕じゃあ現実改変までは、無理か……せいぜいが無理やり、幻影を張って相手の姿を変じさせる程度……」


 神一は、乱れた呼吸を落ち着かせようと、胸に手を当てて深く息を吸い込んだ。

 しかし、そんな神一を見下ろすようにして、律はゆっくりと、神一を斬殺せんと歩み寄って来る。


「はい……♡ リツ、斬ります。斬ると、気持ちいい……リツ、リツは、できそこないじゃない……」


 神一は、笑みを浮かべようとして、咳き込む。

 身体が酸素を欲している。

 己の敵に、笑顔を見せられない。


(笑って、笑わないと、僕は)


 膝をついた姿勢の神一を唐竹割りに斬るように、律は大上段に刀を振りかぶった。


「リツは、リツはあああああああ!!!」

「『一時停止』」


 律の刀を止めるような軌道で、道路標識の棒が振るわれた。

 乱暴に振り下ろされた刀は、ぴたりと静止していた。


「……天仙道か? いや、うるせえな『郵便屋』。何も人死にを黙って見とくわけにも」


 長身の男は、宙に向かってぶつぶつと何事かをつぶやいていた。

 神一は声を荒げる。


「気をつけろ! まだ止まって・・・・・・いない・・・!」

「あ?」


 エヴェレット収束による空間の歪み。

 静止していた刀を中心として、結界が瞬間的に展開され。

 律の刀を止めた魔法使い、『標識』の右腕を切断した。

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