第34話 最愛の子供と繋がる絆(4)
「見えていると」
決して速くはない動きでないにも関わらず、卜部灘は振り返ることなく、沼園禊の手刀を紙一重で躱した。
「言ったぞ、沼園」
そのまま前に二歩歩き、振り返る。
熱に浮かされたように、焦点の合わない目で沼園は灘を睨みつけていた。
「その身体能力で、よく躱す……だが、いつまで続くかな」
「いつまでも、だ。ボクの勝ちは揺るがない……『ウィザーズ・ジェネレイター』。お前が、時計塔の仕掛けた呪いに侵蝕されていたとしても」
「お得意の未来視ではそこまで見えなかったのか?」
どこか挑発するような沼園の物言いにも灘は全く動じず、沼園に向けてただ冷たい視線を向け続けていた。
「ボクの未来視は、ボクの未来を視るものだ。君たち凡百がどうなるかなど……ボクの知ったことではない」
「存外、大した事のない魔法だな」
バカにしたように鼻を鳴らした沼園に、灘が僅かに眉をひそめた瞬間、沼園が駆け出していた。
走り寄り、身を屈めて足元を狙った水面蹴り。
不意を突いたはずのその一撃でも、しかし灘を捉えることはできない。
「脚狙い。移動を制限すれば見えていても避けられない、とでも? ハズレだ」
その問いかけには答えず、地面に手をつき、さらに追撃する沼園の身体が、影に包まれ、あやふやになる。
「『影沼』で姿を隠したところで同じこと―――『攻撃が当たるであろう感触』を避け続けていればそれでいい」
灘はごく冷静にそう告げると、踊るように身を翻し、不可視の攻撃を避け続けた。
攻撃を避けられ続けているはずの沼園は、それでもなお追撃の手を緩めない。
持久戦の構え―――しかし、灘はまるで動じない。
(焦る必要はまるで無いな。ボクの感覚が、ボクの勝利を肯定している)
傷を負う未来が存在しない。
その確信が、灘をどこまでも冷静にさせていた。
(三歩下がり、右斜め前に跳躍。身を屈め、向き直り、後ろに下がる)
くるくると回るように、舞うようにして回避し、後退を続ける。
廊下の分岐路にたどり着き、灘は全てがうまくいっている事にほくそ笑んだ。
(そしてここで振り返り、)
キスされた。
(――――――あ?)
突然身体に満ちたその感覚に、身体が反応できない。
『気持ちいい』という言葉を思い出した頃には、既に身体が動かない。
圧倒的な快楽の荒波に飲み込まれ、がくがくと脚が震える。
柔らかい腕が、身体に絡みつき、引き寄せられた。
深々と抱きしめられると、肌が触れているところ全てから多幸感が染み込んでくるようだった。
「あ、ああ」
「おかえりなさい」
唇が離れてゆくのが、堪らなく焦れったい。
それでも、耳朶に染み入るような、甘い声に、全身の肌が総毛立つ。
何かを言葉にしたくてたまらないのに、そのための言葉が出てこない。
「うん、う、あ」
「君だけはどうしても欲しかったんだ」
そう言って微笑みかける彼女の顔を、灘は目にしてしまう。
女神のように美しい。
そんな月並な褒め言葉が、本当に当てはまる相手がいるなんて。
肉の魔女。
身体操作の魔法に極限まで熟達した、稀代の大魔女。
その身体に触れてしまえば最後。
ありとあらゆる快楽を与えられ、与えられ、与えられ尽くし。
何もかも沈み、溢れてしまうまで。
快楽という名の毒を注がれ続けることとなる。
「雑に端末にして、君の魔法が失われたら困るからね。私が直接来るしかなかったんだ」
「うん! うん!!」
何を言われているのかわからない。
きもちいい。
それでも、自分に向けて何か言葉を投げかけてくれていることだけはわかるから、灘は必死で頷き続けた。
「私のこと、好き?」
「あああ、うん、うん! うん、す、すき! すき、すきすきすきすき、すき!」
「それじゃあ言うことを聞いてね」
灘の頬を弄んでいた指を滑らせ、身体へと移る。
魔女の指は、服を簡単に切り裂き、灘のへそに届くと形を変え、癒着した。
「あ、あああ! うん! うん! うん!! うん、あああ、ああああ!」
「これできみは私の愛しい子供」
肉の魔女は、触手だった指を元に戻し、灘の唇を撫ぜた。
灘はズボンを濡らしながら、何度も何度も頷いた。
「……なんだ、ありゃあ」
時計塔入り口前で、万書館の魔法使い二人―――『標識』と『焼失』が内部に侵入していくのを、見ていた人間がいた。
随分と年季の入ったジャケットに、皺だらけのスラックスを身に纏った、黒尽くめの青年。
生まれてこの方手入れされたことのないような乱雑に散った縮れ毛。
身体の線は細く、どこか儚げな印象すらある。
黒首探偵事務所所長。
探偵、黒首禄朗である。
「こんな遠くから見ててもわかるくらい、バカげたエヴェレット収束……あの『曲輪木』の結界を、正面からブチ破れる奴がいるのかよ」
黒首は、ポケットの中から白い碁石を取り出して、弄ぶ。
そこに込められた魔力がどれだけのものか、魔法使いなら触れただけで理解するだろう。
およそ人間には不可能とも思える、強大でありながら精緻な魔法。
それを真正面から焼き尽くすほどの『炎』の魔法使いのことを、黒首は知らなかった。
それはつまり、秘匿された存在。
(『井戸の守り手』とでも言うべきかね? 人工霊脈を激しく憎む魔法使いが、この古部には隠れている)
曲輪木の言葉を思い出し、黒首は、意識せず小さく息を吐いた。
「わかっちゃいたが……とんでもねェ厄ネタだ。でもなあ、前払いで報酬貰ってるからなあ……」
ブツブツと文句を言いながら辺りを伺い、『人払い』の結界の抵抗を感じながら、こっそりと時計塔の入り口に近づく黒首。
入り口の自動ドアを塞ぐようにして、突き刺された道路標識を見ながら、中の様子を伺おうとして、身体を止めた。
否。
「結界、じゃないな。物理干渉はないし……あからさまに怪しいのは、これか?」
白地の上に、赤の二重丸が描かれており、内側の円の中にはバツ印と青い『通行止』の文字。
『通行止め』を意味するその道路標識に従うように、前に進もうとする身体が、どうしても動かない。
黒首は、地面に突き刺さった道路標識を抜き取ろうと試みる。
「ふっんんんんぬうううううう! クソ、ダメだ! びくともしねえ……あの男、ゴリラかよ!」
道路標識は微動だにせず、まるではじめからそこに立っていたかのように道を塞いでいた。
「……『通行止め』だから、通れないってか? なんつーでたらめな魔法だよ」
黒首の影が、ざわめく。
影の一部が千切れるようにして離れ、小さな黒いネズミへと変ずる。
ネズミも入り口に向かおうとして、『通行止め』の標識に阻まれ、立ち止まってしまう。
「『影鼠』も入れないか。いよいよもって、どうしたもんかな……」
じゃらり、と。
ポケットの中の碁石に手を触れる。
石の残りは、白と黒、それぞれ4つずつ。
バケモノ犇めく時計塔の、ほんの入り口でしかないここで、貴重な結界の魔法具を消費していいものか。
音を立ててポケットの中を弄りながら、黒首がいっそ、このまま帰ることも視野に入れ始めたとき。
かつ。
硬質で軽い、コンクリートの床に小石が当たる音が響く。
黒首は素早く振り返った。
「……ッ!」
「どいて」
感情を感じさせない平坦な声。
しかしその眼は、狂気といっていいほどに濁った感情に塗りつぶされ、虚のように黒く染まっている。
肩まであった黒髪は、乱雑に短く切られている。
整った顔貌は、引きつったように歪んでおり、首元から蛇が這うように、黒い刻印が顔へと伸びていた。
以前見かけた時には、そんな禍々しい呪印など宿していなかったのに。
そう、黒首はその少女を知っていた。
「羽原、アイリ……!」
アイリが右手を翳すと、エヴェレット収束の歪みと共に、黒首の行く手を塞いでいた道路標識が消え去った。
少女の顔を這う蛇が、じわりと蠢いたように見えたのは、気のせいだったろうか。
アイリは、黒首のことなど一顧だにせず、迷うこと無く時計塔の中に消えていった。
「ちょ、ちょっと! 待ってくれ!」
一瞬呆けていた黒首は、羽原アイリを追って時計塔の中へと足を進めた。
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