第29話 世界の終りの前哨戦(8)
自ら耳を潰した葛葉は、朽網目掛けて突進した。
全速力で走る葛葉の背には、左右に伸びた細い触手と、腕ほどもある太い触手が、走るのに合わせて波打っている。
対した朽網は、葛葉が地面を蹴った瞬間から、扇子を懐に仕舞うと、手で印を組み、
「『そこに居ない私』霊閤疎にして窮苦籟々陣・発・誅・塔・人間に在りし我らが脈よ『二つ』我が祝詞に依て集え八音の剣『出でよ歪み』南より来りし二十七の災厄戊辰・絶吼・手裏に潜め磊落の礫即ち雹・雷・大渦の轟き」
ものすごい速度で口を動かし、詠唱を始めた。
(速い……! 読唇術などでは追いつかない、出鱈目な速度だ……しかし)
葛葉の攻撃の方が、圧倒的に早い。
口を動かし、詠唱を続けたまま横に跳び、突進から軸をずらして逃げる朽網。
その横を駆け抜けるようにして駆け抜ける。
すれ違いざまに、葛葉の走る速度が上乗せされた触手が、朽網に襲いかかる。
細い二つの触手が切り裂くようにして振るわれる。
斬撃が命中すると、朽網だったはずのそれは、紙の人形となる。
(本命は……こっち!)
幻影とは逆側に跳んでいた朽網の姿を、視界の端で捉えている。
攻撃中の身体の向き、速度に囚われないのが、伸縮自在の触手を用いた攻撃の強みである。
肉の魔女直伝の、身体操作術。
人体ではあり得ない、肉で形取られた鞭は、肉の魔女に植え付けられた葛葉の身体の一部である。
故にそれは、葛葉の思うがままに、朽網目掛けて躍り掛かる。
触れた瞬間、蛇のように螺旋を巻いて締め上げる。
しかし、朽網の身体がみるみる縮んだかと思うと、紙の人形へと変じてしまう。
「星辰巡りて大樹朽ちる時残りし家は幾ばかりか……」
聴覚を自ら封じたことが仇となったか、朽網の身を捉えきることができない。
小さく舌打ちした葛葉は首を振り、朽網の姿を辛うじて捉えて絶句する。
(なんだ……このイカれた規模のエヴェレット収束現象は!)
空間の歪み。
通常ではあり得ない現象を生む魔法を、世界が塗りつぶし、辻褄合わせをする際に生じる、エヴェレット収束と呼ばれるそれは、陽炎のように大気の歪みとして、実際に見ることができる。
その歪みが、朽網を中心として、半径2mほどの巨大な球体として、顕現していた。
朽網は、今も尚、口を動かして詠唱を続けている。
天仙道最強の言霊使い、朽網一族。
その当主代理である朽網月彦が、こうまで長い詠唱を要する大魔法とは。
こんな馬鹿でかい歪みを生じるような魔法で、何をするつもりなのか―――
地面を強く踏みしめ、速度を殺す。
慣性に従い、葛葉の額を汗が滑って行く。
助けを求めるようにして、葛葉の手が自然と自分の腹に伸びる。
(拙い! 詠唱を耳にしていないせいで、何が来るのかわからない、対策が取れない! リスクはあるが、今からでも……!)
ぐち、と音を立てる。
葛葉はそれで、自分の鼓膜が再生し、聴覚が戻ってきたことを実感する。
先ほど朽網の目の前で派手に耳を潰してみせたのは、聴覚が失われたことを見せつけるため。
そして、いつそれが戻ったかを悟らせないためだった。
地面を蹴り、朽網に向けて再度突進する。
「来たれ宵闇我が道の上に」
「そこだ!」
先ほどと同じように横っ跳びに避ける朽網を追わず、腕ほどもある太い触手を、何もないように見える空間に向けて放つ。
「残念、またはずれだ」
一直線に伸びた触手が、透明な何かを穿つと、紙の人形へと変ずる。
朽網の言葉を聞いて、葛葉はにやりと笑みを浮かべた。
「詠唱が、止まっているぞ……虚勢が過ぎたな、言霊使い!」
槍のように伸びた触手が、縦に裂け、バラバラに解ける。
そして、葛葉の背中から切り離され、飛び散った。
螺旋を描き、六方に散った触手。
そのうちの一つが、螺旋状に何かを締め上げる。
空間が歪み、そこに触手に拘束され、床に転がった朽網が現れた。
「いやあ、まんまと捕まってしまったよ。すごいね? こんな触手、エロ漫画の中でしか見たことないよ」
身体を拘束されきつく締め上げられているというのに、まるで応えた様子もなく、朽網は不敵に笑みを浮かべていた。
その様子を見て、葛葉は顔を顰めた。
「何がおかしい」
「だって君ったら、僕にかかりきりで他の二人が何をしているのか、まるで注意を払わないんだから」
「『
「ありゃ、失敗」
悪戯が見つかった子供のように、舌を出して笑う朽網を、葛葉は見下ろした。
「で、何がおかしいと聞いているんだが?」
「いや、本当に時計塔の魔法使いは質が悪いなあ、って思ってね」
抵抗もできないまま、無様に床に転がされている朽網は、まるで自分の現状を顧みないかのようにそう言ってのけた。
「音が聞こえなきゃ言霊使いに勝てる? 見当違いにも程がある。現に君は二回も僕の人形に引っかかってる。僕の言葉は『世界』を騙すものだ。君が自分で耳を潰した時は……いやあ、笑わせてもらったよ」
見下ろされている側であるはずの朽網が、葛葉を見る視線は、心底相手を見下したものであった。
「それなのに、僕の詠唱とデカいエヴェレット収束にビビって鼓膜を治したんだろう? 自分からわざわざ僕の詠唱を聞きにくるなんて、本当に愚かだね。真面目に戦う気ある?」
「恐れてなどいない!」
まるで心の内を見透かしているかのように、心中を言い当てられた葛葉は、大きな声を上げて否定した。
その様を見て、朽網は声を出して嘲笑う。
「あっははは! 嘘はいけないな、嘘は。言霊使いの前で嘘を吐くなんて、君は何も知らないんだね」
「うるさい! どうあれ、結果が全てだ! 貴様はそこに動くこともできずに倒れ伏し、私がこうして無傷で立っている! それが、全てだ!」
「そうでもないんだよね。寝てるのだって、君があんまり雑魚すぎてやる気がないだけで、逃げようと思えばいつだって逃げられるよ」
「虚勢もここまでくれば笑えるな! その肉の鞭は鋼鉄よりも頑丈だ! 貴様の細腕で逃れる術はない!」
「本当かな。君は嘘つきだ―――
気軽な調子でそう言うと、朽網はゆっくりと、不自由など全く存在しないかのようにゆっくりと起き上がった。
朽網の身を縛っていた触手は、まるで紙切れで出来た飾りのように、簡単に千切れ、濡れた音を立てて床に落ちた。
唖然としている葛葉を見て、朽網が嗤う。
「ほら、嘘吐きの言葉なんて信用ならない」
「な、何をした!」
慌てて、後ろに飛び退り、距離を取る。
それを追うでもなく、朽網は気怠げに立ったまま答える。
「何も。君が嘘を吐いたりするからいけないんだ。一つ嘘を吐いたなら、一つぶんその言葉の重みは失われる。例えば、
ほんの一つぶんだけどね、と。
人差し指を立てて、朽網は笑う。
それは、一貫して変わらない表情。
心底目の前の相手を見下した目で。
葛葉は、ぎりと歯噛みした。
「たったそれだけの、ことで、現実改変を引き起こすなど……」
「『それだけのこと』なんかじゃないよ。嘘をついてはいけません。子供の頃に習わなかった?」
絶句する葛葉を冷たい眼で見ながら、今にも歌い出しそうな調子で朽網は続ける。
「ちなみに君がビビってた詠唱……あれ、何の意味もないんだ。最近漫画読んでてさ、かっこいい詠唱? みたいなの? やってみようと思っただけ」
朽網の周りの空間が歪む。
「このエヴェレット収束も、そういう幻術なんだよね。歪んだ空間を見せただけ。大技が来ると思って焦っただろう?」
「ベラベラと手の内を明かすとは、余裕だな、言霊使い。たかだか一度、私の鞭から逃げただけで、勝ったつもりか!」
「いや、だってもう勝ってるし。なんだっけ……『貴様の細腕で逃れる術はない!』だったかな」
再び飛びかかろうと構えていた葛葉の顔から、血の気が引く。
「ち、ちが……」
「嘘はいけないな、嘘は。君はまるで信用ならないよ。一つ嘘を吐いたなら、一つぶんその言葉の重みは失われる」
ゆっくりと葛葉に近づく朽網の表情。
変わらぬ笑みに、嗜虐の色が僅かに浮かんだ。
「さあ、君はどんな嘘を吐いたっけ?」
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