第30話 世界の終りの前哨戦(9)
乱れた衿を正し、完全に動かなくなったそれに一瞥もくれずに、朽網は小さくあくびをした。
「本丸の守りでさえ、この程度の身体操作使いしかいないとはね。所詮は時計塔。質の悪さは如何ともし難い、か」
退屈そうにそう言って、部屋を見回す。
「それにしても、君たち。いくら雑魚相手とは言え少しは援護するとか、あるだろう? ずっと見ているだけとは、随分意地が悪いじゃないか」
沼園の『影沼』に潜り、隠れているはずの二人に向けて、声をかける。
が、返事はない。
「あれ」
姿も、影も、『影沼』さえも。
部屋の中には見えなかった。
「……おーい」
朽網の言葉が、一人きりしかいない広い部屋に響いた。
天仙道最強の結界使い、曲輪木顕が使う碁石は、結界の魔力が込められた魔法具だ。
魔法具とは、魔法を用いる際に使うことで、その魔法の行使を簡略化する、或いは補助するための道具である。
加えて、曲輪木の碁石には、そこに込められた魔力を用いて自動的に特定の形状の結界を張る魔法が書き込まれている。
曲輪木が痛みに悶え、取り落とした碁石にも当然、その力は込められていた。
黒い碁石の周りの空間が、僅かに歪む。
エヴェレット収束。
世界を歪める、魔法現象によって生じる、世界の上げる悲鳴。
倒れ伏し、手元から離れたとしても、発動する魔法の予兆―――
その碁石を、苦慈の足が蹴り飛ばした。
「あ、ぎぃっ、ぐ、がふっ、く、ああああああああ!!! あーー、あああああああああああああああーーーーッ!!!」
「抜け目、ない、な? これが、布石の、つもり、か? ク、クク。足掻け。その、一つ、一つを、クフ、丁寧に、折ってやる」
激しい吃音で、刻み付けるようにボソボソと言葉を漏らす苦慈は、曲輪木に向けてついと指を振る。
その足元で、曲輪木は絶叫を繰り返していた。
手脚は断続的に無秩序に痙攣し、整った顔立ちを苦悶に歪め、口からは意味のない叫び声と涎が溢れ落ちるのを止められないでいる。
「痛みだ。意志の、強い、女が、許しを乞って、這い蹲る。堪らないな。聞こえて、いるか? この、痛みは、首輪だ。そら、ワンと鳴け」
苦慈が指を下ろすと、曲輪木の叫びが止まる。
かち、かちと。
硬質な音のみが響く部屋に、曲輪木が咳き込む音だけが響いた。
荒い呼吸を繰り返し、失った空気を求めて嘔吐く。
「俺は、鳴けといったぞ」
「っき、ああああああああああああッ、いやああああああああああああああああああああああああーーーーーーーーーーー!!!!!!!!」
苦慈が指揮者のように指をそろりと振るだけで、曲輪木は肺の空気をすべて吐き出さんばかりに声を上げてしまう。
その様に満足したように、苦慈は穏やかな笑みを浮かべた。
「この、痛み。これを使って、いずれ。俺が、母上様を、支配する。お前は、猟犬だ。わかったか? わかったら、ワンと鳴け」
「……」
「『
返事もせずに、うずくまったままの曲輪木に、苦慈が指を振る。
しかし、曲輪木は声さえ上げない。
床面に向けて倒れ伏して、ぴくりとも動かなくなっていた。
「ふん。心停止でも、起こしたか。生かして、連れてこいと。言われている、のに。面倒なことだ」
苦慈は足で曲輪木の身体を転がそうと軽く蹴った。
その足を、微弱な結界が阻む。
「なに?」
「……の、ま」
曲輪木が、身体を起こそうとしていた。
口の中に溜まった唾を吐き出しながら、震える腕で上半身を起こし、立ち上がろうとしている。
「立っていい、と。許可を、出した覚えは、ないぞ」
苦慈が一際強く、指を振り、曲輪木に向けて突きつけた。
しかし、曲輪木は。
痛みに悶え、苦しむどころか、声の一つも上げずに、よろよろと身体を起こし、立ち上がった。
力なく、かろうじて立っているだけ、といった様子の曲輪木は、頭二つ分は大きい苦慈を睨みつける。
「なんだ、その、目は」
死に体で転がっていた人間の眼とは思えないような。
爛々と燃えるような目で、苦慈のことを睨め上げていた。
「その目を……やめろ!」
苦慈は、嬲るためではなく、怒りに任せた全力の蹴りを放って。
その脚が、結界に阻まれて、鈍い音を立てて、折れる。
曲輪木は、口の中の唾を床に吐き出した。
僅かに血の混じったそれが、口の端に引っかかっているのを、袖で乱暴に拭う。
「お前の……魔法。初めは、痛みの共有だと思っていた」
音一つ無い部屋の中に、曲輪木の声だけが響く。
「だが、空間の完全断絶をもってしても、痛みは消えなかった。『共有』という線は、消える」
「『
指をまるで剣のようにして振るい、曲輪木の頭を指し示す。
それでも、曲輪木は全く動かない。
「人体は、それ自体が完全に閉じた系―――魔法であっても、外部干渉には限界がある。たかだか時計塔の魔法屋如きが、痛みの呪詛なんて使えるはずはない。だとすれば、これは……別のもの。別の魔法だ」
「まさか」
苦慈は天井を見上げる。
部屋の天井に僅かに空いていた小さな穴。
その周りが、空間の歪みによって覆われていた。
先程から、部屋に響いていたかち、かちという規則的な音が、いつの間にか聞こえなくなっていた。
「お前の魔法。タネが割れればどうということはない。この部屋中に響く、あの音―――あれを媒介に、血管を攣縮させ、痛みを誘発する魔法だった。一度攣縮しはじめた血管は、音を断ってもしばらく痛みを放ち続けるようだ」
「結界、を……! どうやって! 碁石は、全て、潰した、はず」
苦慈が曲輪木に向き直り、何ともなしに伸ばした右手が、ずるりと落ちた。
滑らかな切断面から、血が堰を切ったように吹き出す。
「な……!」
「別に碁石なぞなくとも。腕なんか振らなくても、結界はできる」
こんなふうに、と顎を僅かに動かしただけで、苦慈の脚が床に縫い止められる。
透明な結界を伝って、血が空間を垂れていった。
苦慈は左手で右の手首を抑え、血を止めた。
「な……! だ、が! 痛みは……消えない、はずだ! どう、やって……!」
「大脳辺縁系、及び、求心性の末梢神経をあれこれと隔離した。どこをどう抑えればいいか、試しているうちに……少し無様を晒したがね。まあ」
そう言って、曲輪木は一歩、前に歩みを進める。
「目撃者さえいなくなればどうということもない」
曲輪木のほつれた髪は、浮かんだ冷や汗でひたいに張り付いている。
射竦めるように鋭い視線から、目が離せない。
その様はさながら幽鬼のようで、苦慈は知らずのうちに一歩、後退ろうとして。
縫いとめられた脚が、がくりと身体を引っ張った。
「神経伝達系を、遮断した、だと? 自分の、脳内に、結界を!!!? あの、痛みの中!? そんな、精緻な、結界操作、できるはずがない!」
「三流魔法屋の常套句だな。『できるはずがない』ことを『やる』のが魔法使いだろう」
曲輪木の右手から、びきり、という破壊音が鳴る。
いつの間にか手に現れていた、黒い碁石の欠片が、床面にぶつかって跳ねる。
「かち、かちかちかち、かち、かち、え、『
苦慈は、脚を抜くのを諦め、歯を噛み鳴らし、音を再現した。
そして、指を振り回し、必死で魔法を再使用し続ける。
しかし。
確かに発動しているはずの魔法は、目の前に迫る細身の女の、歩みすら止めることができない。
苦慈は、長い腕を前に突き出し、指を何度も曲輪木に向けて突きつけながら、声を荒げる。
「い、痛みが、全てだ! お前を縛る、上位者なんだ! 従え!」
「答え合わせも済んだ。幕にしよう……他になにか言いたいことは?」
「従え、従え、おまえ、従えよおおおおおおおおおお!」
「時間切れだ」
曲輪木が右腕を、ついと振る。
その腕を追うようにして、くるりと振り返ると、曲輪木の背後で、苦慈の叫びが唐突に止まる。
声が出なくなったのは、肺と声帯が分離してしまったから。
苦慈は、弾けた水風船のように血を撒き散らしながら、ばらばらになって崩れ落ちた。
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