第12話 古武術使いと肉の魔女(6)

 場所がわかっていれば、さほど時間はかからない。

 走ること30分とちょっと、和馬は駅前の繁華街とは逆側にぽつりと立つ、時計塔の根元にたどり着いていた。


 古部駅のそばに立つ、20mほどの高さを誇る古部時計塔。

 夕方には閉まる時計塔の周りは、夜になるとすっかり閑散としており、人の気配は近くにまるで感じられなかった。

 美しく整備された広場だというのにいつも人が少ないのは、繁華街と逆にあるからというだけでなく、悪い魔法使い達が何か仕掛けているからなのかもしれない。


 閉まっているはずの時計塔の正面入り口は、和馬が近づくと音もなく開いた。

 中にはわずかな灯りが誘うように灯っている。


「入ってこい、ってか? 上等じゃねえか……!」


 意を決して中に踏み込もうとした視界の端を、小さな黒い影が横切った。


「ネズミ、か? 今の」


 和馬は足元の小石を拾い上げて、ネズミが駆け込んだと思しき草むらに向かって投げつけた。

 草を擦る乾いた音が立った。

 ネズミといえば、魔女の使い魔だったりするのではないか。

 アイリがネズミ捕りを買ってくるよう言っていたのも、今にして思えば、何かの注意だったのかもしれない。


「……ネズミなんか怖くねえよ」


 そう、怖くない。恐れる必要はない。その必要もない。

 中に入ると、時計塔の扉はひとりでに閉まった。

 これで、後戻りはできない。

 構うものか、と和馬は覚悟を決める。

 アイリと父さんを救い出すまでは、帰るつもりはなかった。


 時計塔の中、一階の大広間の正面に、音もなくエレベーターが降りてきて、ドアを開いた。

 何から何までお膳立てされているようで、気に食わない。

 それでも和馬が乗り込むと、ボタンを押さずともエレベーターはひとりでに閉まり、上り始めた。


 和馬は気を緩めることなく、息を整える。

 戦いの準備。あるいは、奇襲への備え。

 父から教わった蔵部流の全てを思い返し、精神を集中させる。


(父さん。アイリ。無事でいてくれ)


 あの男は『諦めろ』などと言っていたが、希望を捨てる必要はないはずだ。


 エレベーターは時計塔の最上階に備えられた展望台で止まった。

 ドアが開く。

 展望台は壁面全てがガラス窓になっており、夜の今は遮光カーテンが下がっていた。

 その展望台スペースの真ん中、エレベーターから見て真正面。

 黒色のコートに身を包んだ男が一人、こちらをガラス玉のような眼で見つめていた。


「カズくん……?」


 左手から声がかけられる。広げた視界の端に、天井から伸びた鎖に手を繋がれた、二つの人影。


「アイリ!」

「カズくん!」


 声を聞いて確信する。

 間違いない。アイリだ。

 和馬は意識を目の前の男に戻す。

 そして、心の底から安堵する。無事で良かった。


(アイリがいるなら……俺は無敵だ)


 不安が拭われてしまえば、怒りが燃え上がる。

 和馬の内心を知ってか知らずか、正面に立つ男は声を上げた。


「俺が受けた指示は二つ。一つ。お前を試せと言われている。一つ。お前の質問に回答しろと言われている」

「手前ら、何のためにこんなことをした!」

「その質問に答えろという指示は出ていない」


 黒尽くめの男の声は抑揚がなく、感情がまるで欠落していた。

 まるで機械のような声。あの電話の声と同じだった。


「二人を解放しろ」

「鍵は俺が持っている。解放を望むなら、俺を倒せ。そういう指示だ」


 そう言って男は懐から鍵を取り出し、和馬に見せびらかすように振ると、再び懐の内にしまいこんだ。


「悪趣味極まりないな」


 和馬の悪態にはまるで反応せず、黙って男が構える。

 隙がない。

 打ち込む前から、相当の使い手であることがわかる。

 だが和馬に選択肢はない。

 身体の力を抜き、構えを捨てて立つ。

『無拍子』と呼ばれるその技術は、蔵部流最速の構え。

 和馬の最も得意とする、戦闘の構えだった。


 負けられない戦いというものは唐突にやってくる。

 だからといって、和馬は緊張しない。している場合ではない。

 こんなふざけた男にアイリを渡すわけにはいかないし、何より、


(アイリの前でなら俺は、誰にも負けない)


 誰に言うでもなく、心の中でそう見栄を切って、和馬は奥歯をしっかりと噛み締めた。



「シッ!」


 どちらともなく、駆け出す。

 蔵部流の武器は速度。

 それは昼に見せたものとは別次元の走り。

 縮地と呼ばれる類の歩法で、一気に間合いを詰める。

 そのままの速度を乗せて、掌を突き出す。

 常人なら眼で追うことすら難しい掌打を男は腕で軽々といなし、そのまま巻き込むようにして腕を取り、投げを狙ってくる。

 和馬は力の流れに逆らわぬよう、その力を利用する形で地面を蹴り、わざと投げられる――男の掴んだ腕を逆に掴んだまま。

 空中で一回転し、そのままの勢いで腕を折りにかかる。


 男の決断は早い。

 服の袖が千切れるような馬鹿力で和馬を掴む腕を即座に振り払うと、空いた脚で未だ空中に居る和馬を蹴りつけてきた。

 蹴り脚を蹴り返すようにして、和馬は大きく後方へと跳ぶ。

 和馬は猫のように着地すると、一瞬で後ろに跳んだ。

 男の追撃はない。

 大きく間合いを開けて、仕切り直しとなる。


「冗談じゃねえぞ」


 和馬は額を汗が流れるのを感じた。

 この速度についてこられる人間を、和馬は父以外に知らなかった。


「それは質問か?」


 とぼけたことを聞く男は、声色や表情すら先ほどと全く変わっていない。

 動きに変化が乏しすぎて、呼吸しているかすら怪しかった。


(呼吸? そうか)


 和馬は息を整えた。


「質問に答えると言ったな」


 奴が魔法使いに操られた人形だというのなら。


「それが指示ゆえに」


 今までと違い、その言葉には僅かながら感情が含まれている。

 それは喜色と、誇り。和馬は冷静に観察する。

 思いつきに従って、和馬はもう一度、同じ質問を投げかける。


「何のためにこんなことをした」

「その質問に答えろという指示は」


 その答えを待たずに和馬は走り出す。

 声を出した瞬間。すなわち、息を吐き出した瞬間。

 奴が人間だろうが人形だろうが、人間の身体を使っている以上、会話の際には息を吐かざるを得ない。

 指示が絶対だというのなら、同じ発言には絶対に同じ反応を繰り返すはずだった。


(その間隙、刹那の時間だけで十分だ……!)


 瞬間が引き伸ばされたように、時がゆっくりと流れてゆく。

 一歩目を踏み出す時には既に最高速度に達している。

 本来なら間合いの外であるはずのそこは、既に和馬の間合いとなっていた。

 和馬が飛び込んでくるのを待ち構えていたかのように繰り出された拳に向かって、真っ正面から突っ込んでゆく。

 タイミングは向こうの方が早い。否、早すぎる。

 和馬が辿り着く前に空振ってしまうようなその右拳の軌道に、危険信号が鳴り響く。

 観察を止めずにいたからこそ気づく。男の目的は右拳にあらず。

 これは、そのまま振り抜くフェイント。本命は半身に隠した、


(左の肘打ちかッ!)


 完全に意表を突いたはずの最高速度に合わせられた、完璧なタイミングの老獪なカウンター。

 それはまさに、機械の如き正確さと達人の技術だった。

 全力を超えた全力で駆け出している和馬の身体は、止まらない。

 直撃は避けられないだろう。


 普通なら・・・・


 和馬は自らの身体を止めるために全神経を集中させた。

 早すぎる右フックが目の前を通り過ぎていく。

 本命の左肘打ち。これをさらに躱す。

 緩やかに流れる時の中で、身体が止まると確信している、故に、身体は止まる。

 埒外の急制動。加速も減速もまさしく自在。


(これが蔵部流縮地法が奥義、『黒白』)


 でたらめな制動に筋肉が悲鳴をあげることもない。それが奥義の奥義たる所以である。

 しかしなるほど、『魔法』か。

 和馬は自分の身体の内に、封筒を開けた時の空間の歪みと似たものを感じ、納得する。

 幼い頃から研鑽を重ね、当たり前のように使ってきた蔵部の技だったが、なるほどこれは、確かに魔法なのかもしれない。


 加速された意識の中で、和馬にはそんなことを考える余裕があった。

 最高速から急停止した和馬の鼻先を男の肘打ちが空振り、後頭部が致命的な隙とともに晒される。

 和馬は頚椎めがけて掌打を叩き込み、男の脳を存分に揺らしてやった。

 回転の勢いもそのままに、糸の切れた人形のように、男は床に倒れこむ。

 残心。

 男が動かないのを確認して、和馬は息を大きく吐いた。

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