第13話 古武術使いと肉の魔女(7)
僅か二合のやりとりで、戦いは決した。
しかし、その疲労はこれまでにないものだった。
(ほとんど息を使い尽くした……危なかった)
しばらく呼吸を整えてから、和馬は男の懐を探り、鍵を奪い取った。
「カズくん、カズくんカズくんカズくん!」
意味のある言葉になっておらず、ただひたすらに和馬を呼ぶアイリ。
和馬が天井に繋がれた鉄枷を外してやると、腕には痛々しい赤色に跡がついてしまっていた。
「遅くなって悪い、アイリ。腕、痛くないか……」
「カズくんーーー」
和馬はアイリを抱き寄せ、背中を叩いてやった。
そして、繋がれているもう一人を見て――――
「ありがとう。私のために来てくれて」
絶句した。
アイリと共に囚われていたのは、和馬の父ではなく、まさしく絶世の美女と呼ぶに相応しい女性だった。
黒天鵞絨のように深い黒髪に虹の光沢を備え、切れ長の瞳は夜空のように黒く輝き。
濃桜色の唇からは愛らしくも艶かしい色気が漂っている。
身体には羽衣と言えば良いのか、ほとんど透けてしまっているような大きな淡い雪色の布一枚を纏い、そこかしこの女性的な膨らみが露わになっていた。
布の隙間から見える肌は吸い込まれるほどに白く、きめ細かい。
薄暗い展望台のホールの中でさえ解る、別次元の存在であった。
「あ、いえ……その……」
思わず見惚れてしまい、硬直する和馬。
そんな和馬の袖を、アイリはものすごい力でぐいぐいと引っ張る。
「待ってたよ」
美女が和馬に微笑みかける。
後ろから神々しい光が差し込んでいるのではないかと錯覚してしまう程の美しさに、和馬は耳の温度が上がっているのを自覚する。
アイリが腕を強く引く。
和馬はわかってる、と小さくつぶやいた。
それ以上見ていると気分がどうにかなってしまいそうで、和馬はなるべく視界に入らないよう、美女の鉄枷を外した。
どうしても身体を近づける必要があり、甘い香りが鼻を擽ってくるのを、頑張って無視する。
「嬉しいな。ねえ、お礼をしないとね」
枷が外れるや否や、抱きつかんばかりに近づいてくる美女に、和馬は目を白黒させてしまう。
アイリが和馬の腕を引く力は、ほとんど半狂乱だった。
「カズくん……カズくん!!」
「おい、アイリ。いい加減に」
「カズくん、逃げて!!!!」
絶叫のようなアイリの声。
和馬は即座に後ろを振り返る。
まさか、あれだけ脳を揺らしても、動くのか!
しかし、和馬が倒した男は未だ地面に伸びていた。
和馬は小さく息を吐くと、アイリに向かって向き直る。
「アイリ、大丈夫。あいつは倒したよ。あとはお前とこの子の手当てを……」
「すごいすごい」
突然喜色に塗れた声を、美女があげる。
「『逃げて』って言っていいなんて許可は出してないのに。よく喋れるね。愛の奇跡だ」
和馬はその発言の意味を即座に理解できなかった。
アイリが和馬の腕を引く。その表情は決死のものだった。
焦燥感が波のようにひたひたと押し寄せてくる。
アイリの腕に残る、痛々しい枷の痕。
そして、女神と見紛うような笑顔で小さく拍手をする美女の腕を見る。
先ほどまで天井から鉄枷を填められて吊るされていたのに、その白く滑らかな肌には傷どころか、跡の一つも残っていない。
何故か。
和馬はアイリを見る。
必死に頷く。
そうか、こいつが。
「お前が、肉の魔女……!」
和馬はアイリを抱えて、女から飛び退き、距離をとった。
「父さんをどこへやった!」
「ああ、あの男の子なら、用はないから帰っていいよって言ったら、帰ったよ」
「カズくん……!」
「今私が彼とお喋りしているから、『喋らなくていいよ』」
何かを伝えんと声を出したアイリは、怯える子供のように、和馬の腕の中で身を縮こめる。
「アイリに何をした!」
「少し黙ってもらっただけ……そんなことより、あなたのその魔法。ねえ、もっと見せて欲しいな」
魔女は媚びるようにそういうと、何の気負いも躊躇いもないように、ゆっくりと近づいてきた。
揺れる長い黒髪。
魂が抜け落ちるような表情を浮かべた美貌。
ただ歩いているだけで、隠しきれない弾力を備えた肢体。
その全てが無視することのできない引力を持って和馬に迫る。
「ふざけるなよ……」
言いながら、声が震えているのが自分でもわかる。
勝てない。
勝ち負けを競うような、そういう次元の相手ではなかった。
あの探偵が言ったとおり。
関わり合ってはならない相手という言葉の意味を、和馬は肌で感じていた。
全力全開で危険な相手だとわかっているのに、その美貌から目を離すことができなくなりつつある。
和馬はちらと室内を見渡し、非常階段の位置を確かめる。
そんな和馬の様子などまるで意にも介さず、魔女は頬に手を当てて、思案気に眉を顰める。
「んー。彼、あなたのことが気になってるみたい。困っちゃうな、どうしよう」
魔女にそう話かけられると、和馬の腕の中でアイリが震えはじめた。
その表情は、一瞬で病的なまでに青ざめている。
「ごめんなさい」
「……アイリ?」
宙に向けてうわ言のようにつぶやくアイリを見て、既に何か決定的なことが起こってしまっていることを、和馬は悟る。
「そうね。もう用はないから帰っていいよ。ばいばい」
魔女がそう言うと、アイリの目が深い絶望の色に塗り潰されていく。
アイリは突然和馬の腕を振り払うと、ごめんなさいごめんなさいと低い声で呟きながらものすごい勢いで駆け出した。
「アイリ!?」
その速度は、和馬の走りと変わらないくらいに速く。
アイリはそのまま一切速度を緩めることなく展望台の窓に向かって突っ込み、カーテンとガラスを突き破って落ちて行った。
風が音を立てて吹き込んだ。
カーテンがばたばたと間抜けな音をたてる。
「さあ、これで野暮な視線もなくなって、無事二人きりだよ。続きを楽しもうか」
小さく手を合わせて、魔女は和馬に微笑みかける。
「え?」
和馬は、今、何が起こったのかわからなかった。
アイリが。
ただの一言で飛び降りた。
この高さから。
そんなもの、助かるはずがない。
「ん、あなたはこういうのは苦手だったのかな?」
距離感が狂ってしまっている。
声が遠く聞こえる。
耳元で周期的に鳴る音が、自分の鼓動だとようやく認識する。
目の前でわざとらしく、小首を傾げて見せる魔女の姿を、まともに見ることができない。
呼吸が荒くなっている。
魔女は警戒も何もなくゆるりと近づいてくる。
隙だらけだ、そう考えた所で自分も隙だらけであることにようやく気づく。
和馬は慌てて身構えた。
そう、身構えてしまった。それは、蔵部流の技ではない。
和馬はまだ混乱していた。
わからない。アイリはなぜ飛び降りた?
目の前で童女のように、何の衒いもなく微笑む魔女。
こいつの仕業に違いない。
だけど、何が。
何が起こっているというのか。
俺は悪い夢を見ているのか?
「なるべくあなたの好みに合わせてあげたいと思うの。どうすればいいかな」
耳を擽る艶かしい声が何を言っているのかよくわからない。
珠の転がるように美しいその声で、話しかけられるだけで天にも登らんばかりに心地よい。
いつの間にか、魔女は背後にいる。
魔女の白い指が首筋に絡んでいる。
触れられているところが、ぐずぐずに蕩けてしまいそうなほど気持ちいい。
今何が起こっているのか和馬にはわからなくなりつつある。
「アイリを……アイリは、どうなった?」
「大丈夫? カズくん」
気がつくと目の前にアイリが立っている。
心配そうに、和馬の目を覗き込んでいる。
「アイリ、お前、どうして……」
「ああ、私は、飛んできたんだよ! 飛行魔法で! やったね! 肉の魔女も倒したし! ハッピーハッピーだね! これでカズくんと二人きり! 幸せ! 嬉しい!」
奈落のように暗い瞳。底抜けに明るい声色。
アイリの顔をしたそれは、笑顔のように顔を歪めて笑う。
「違う! お前は、アイリじゃない!」
「ふーん。これじゃダメなんだ」
和馬が叫ぶと、目の前のアイリは冗談のように消え去り、再び背後から声が聞こえる。
抱きすくめられて、気持ちよくて、動こうという意志さえ働かない。
「私は肉の魔女。あなたのどんな夢でも叶えてあげる。どうすればいいのかな? 教えて欲しいな。さあ。さあ。さあさあさあさあさあ」
和馬は渾身の力を込めて、後ろに立つ魔女を振り払う。
予想を遥かに超えて弱々しくはあったが、なんとか、魔女から離れることに成功する。
身体が、まるで自分のものでなくなってしまったように二歩、三歩とのろのろ動く。
空気が動き、鼻先を魔女が纏う甘い香りがかすめてゆく。
一瞬遅れて、無理矢理払った腕から魔女の柔肌の感触が伝わる。
ほんの少し触れただけの右腕が、今まで感じたことのない、大きな大きな幸福感に包まれる。
腕から許容量を超えた快楽が流れ込むという異常に、和馬の精神は耐えられなかった。
陶然となった意識は身体の制御を手放し、気付けば膝をついてしまっている。
目の前には満面に笑みを浮かべた魔女。
掌が緩慢に迫る。焦れったくなるほどゆっくりと、恋い焦がれるほど待ち望んだその腕を、今度は振り払うことができない。恋い焦れる? 違う。攻撃だ。見えているのだ。避けろ。それでは足りないと警鐘が鳴る。逃げろ。踵を返して、この場から。今すぐ全力を使って走れ。だが身体は動かない。逃げる必要なんてない。振り払えば済むことだ。だが逃げる必要はない。振り払う必要もない。アイリ。君が好きだ。君の手を払う必要なんて、違う違う違う違う違う!!!!
「違わないわ」
違わない。違う。違う、違う……
「違わない」
彼女の指が、和馬の額に触れる。それだけで泥のように粘度の高い悦びが満ち、和馬の全身はぞろりと総毛立った。
アイリの顔で、アイリの声で、アイリより遥かに魅力的な笑みを浮かべるそれが誰だか、和馬にはもうわからない。
目の前の彼女に塗り潰されてアイリのことを思い出せない。違うんだ、アイリ、こいつは、父さんと、君を。
「だって私はここにいるじゃない」
アイリの指がおれの唇を撫でて視界が白く爆発した。
きもちいい。あたまのなかがからっぽになる ちがうんだ ちがう ちがう ちがうちがうちがうち
「そうでしょ?」
みみをなでるひとことがあつめたこころをらんぼうにかきまわす。
「そうだよね?」
ちがう。「そうだよ」ちがう。「ちがわないよ」いやだ。「ちがわない」ちがうのに。「大丈夫だよ」でも。「大丈夫」そんなの、ちが、ああ、ああああああ!!!! そう!!! そう!!!!! そうだよ!
「そうだよねえ」
そう、そうです。ちがわない。
「いい子。いい子にはご褒美をあげる」
やったあ、ごほうびだ! ごほうび、どんなごほうび?
「私の靴を舐めてもいいよ」
くつを?
「そうだよ。嬉しいよねえ」
靴を舐めるなんて、そんな、あっ、かみのけをわしゃわしゃわしゃわしゃわゃとなでられ、あっ、ああっ、あ、あああ、きもちいい、あ、たすけてたすけて、ああい、ああ、あ、いやだ、やめないで、もっと、あ、あああ、あああああああうれしい! うれしいうれしいうれしい!
「さ、舐めていいよ」
あは。わあい。とてもうれしい。
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