第10話 古武術使いと肉の魔女(4)

 死んでいる。

 見ればわかる。何かに詫びるように伏している男の首は、右半分がごっそりと抉れて、乱雑な断面が見えている。

 血液は既にほとんど流れ出ており、玄関は血の池と化していた。

 その向こう側。勝手知ったる我が家は今や、無秩序の塊となっていた。

 玄関から目に付くだけでも、部屋の扉が破壊され、壁には文様を描くように泥と血が塗りたくられ、床板は穴が空き、家具は打ち壊され引き裂かれ、執拗に破壊され尽くしていた。


「なんで、こんな」


 なんでこんなことになったのか。

 和馬の口からは、意味のある言葉が出なかった。

 目の前の物事が、意味を持たずに通り過ぎてゆく。


 違う。

 アイリ。

 アイリは無事なのか。


「アイリ!」


 叫ぶ声が遠くから聞こえるような気がした。

 ありとあらゆる物の残骸で散らかった床を飛ぶようにして、和馬は家の中を駆ける。

 玄関から見えた惨状、それは家中全てを執拗に、偏執的に破壊しつくした結果、その一部であった。

 どの部屋にも余すところなく破壊の手が及んでいた。居間の机は叩き割られ、椅子は脚が捻じ曲げられて、台所では、作りかけのドライカレーにゴミがぶちまけられていた。


「ざっけんなよ……」


 零れ出た言葉を自分で耳にして初めて、自分の肺腑に泥のように渦巻く感情が、怒りなのだと気づいた。

 許せない。だが誰を。やり場のない怒りが和馬の思考を鈍らせていた。


「そうだ、警察。警察だよな、こういう時は」


 呆けている場合ではない。

 和馬は自分の頬を叩き、ズボンから携帯を引っ張りだすと、110とボタンを押した。

 妙に間延びしたコール音がもどかしい。

 コール音が続く。コール音が続く。コール音が続く……

 おかしい。警察にかけているのに、こんなに誰も、出ないなんてことがあるだろうか?


「無駄だ」


 突然、電話から響く声がそう告げる。


「余計なことをするな」


 まるで感情を感じさせない、無機質な男の声。

 和馬は直感的に気づく。こいつが、アイリを。


「アイリと父さんを、どこへやった!」

「事を荒立てたくなかったら指示に従え。余計なことをするな」


 男は壊れた機械のように、抑揚を変えずにそう繰り返した。


「指示だと? 何の話だ!」

「玄関に置いてきたろう。あれが持っている」

「アイリは無事なんだろうな!」

「余計なことをするな。指示に従え」


 一方的にそれだけ言うと、電話は切れてしまった。

 和馬はリダイヤルボタンを押す。無反応。

 番号を押し、通話をかけようとする。無反応。

 電波は確かに届いているはずなのに、和馬の携帯電話は、電話としての機能を完全に失っていた。

 携帯を床に叩きつける。何かが砕ける音がした。


「ふざけやがって……!」


 息を吸って、吐く。

 滅茶苦茶に荒らされた部屋に居るだけで、息が詰まりそうだった。

 アイリ。父さん。無事でいてくれ。


 感情の昂ぶりで震える身体が落ち着いてから、和馬は指示とやらを確認することにした。

 玄関に戻ってみると、土下座する死体の伸ばした手指の先に、不自然なほど汚れていない便箋が挟まっていた。

 先程は完全に見落としていたそれを、俺は摘み上げる。


「……なんでだよ」


 その時初めて、俺はその死体の顔を見た。見知った顔だった。

 今日俺に喧嘩を売ってきた陸上部、木下が、溶けて崩れたような笑みのまま、固まっていた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る