第三節
二人はその足で学校を去らず、まずは新校舎の教室へ向かった。カバンを置いたままにしていたからだ。
教室までの足取りは妙に重かったという。重労働の疲れもあるだろうが、例の絵のことが気になってしょうがなかったのだ。少女のこともそうだが、違和感の正体と、先生が態度を変えた理由が知りたかった。
美術の先生だから、子供の頃に描いたものとはいえ、指摘されたくなかったのかもしれない。恥ずかしいとか、プライドが許せないとか、そういう理由でつい素っ気ない態度を取ってしまったのではないか。
などと、あれこれ考えながら教室に戻り、すでに帰り支度を済ませてあるカバンを手にしたときだった。
クラスメイトから、制服の上着を着ていないことを指摘された。
そういえばそうだと、そこでようやく思い出した。荷物運びをして暑くなったので脱ぎ、邪魔だから窓辺の手すりにかけてあったのだ。
例の絵のことに意識を奪われていたから、指摘されるまで気づけなかった。
どうしてもっと早く教えてくれないのだとクラスメイトに文句を言いつつ、彼はカバンを手に教室を後にし、独り旧校舎へと引き返した。
夕暮れ時で薄暗く、ますます不気味さが増している廊下や階段を、彼はおっかなびっくり駆け抜けて、急ぎ四階へ向かった。
廊下を走ってはいけないと思い出して早足になり、窓もカーテンも閉め切られて薄暗い教室を、一つ、二つと通り過ぎて、真っ赤な光が漏れている美術室のドアを開けて顔を覗かせた。
「すみません、上着を忘れました」
そして、そんな風に声をかけて入室しようとしたのだが、できなかった。何故なら、室内は火の海だったからだ。
床一面に置かれた絵や画材が、めらめらと燃え上がっていたのだ。
その光景を目の当たりにして思わず息を飲むと、途端にひどく苦しくなり、激しく咳き込んだという。
想像するに、扉を開けたことで、窓から逃げていた煙と熱気が彼の元へと押し寄せたのだろう、それを吸い込んでしまったのだ。
あまりにも突然だったため、なにがなんだかわからなくて、夢や幻覚でも見ているのではないかと疑ってしまった。しかし、苦しさも、肌で感じられる熱も本物だった。
彼は慌てて扉から離れて、熱の届かない廊下の端から室内を窺った。混乱していたのか、逃げることも忘れて先生の姿を探したそうだ。
すると、窓辺に人影があった。見れば、先生が窓枠を乗り越えようとしていた。
それで、あっと思った矢先、先生はチラリとこちらを振り返って、なにやら口を動かしたかと思えば、まるでプールに頭から飛び込むような姿勢で、さっと窓の向こうに消えてしまった。
そしてまもなく、音がした。燃えさかる炎にも負けない強く荒々しい音だった。柔道の投げ技がきれいに決まったときに発する音に似ているが、それをより乱暴にしたような、そんな音だったという。
つまり、水分や脂を含んだ肉の塊が高いところから落ちて、地面に叩きつけられた音である。
その音と衝撃を耳と肌で感じ、先生が飛び降りたのだと察した彼は、気づいたときには走り出していた。一目散に逃げ出したように。
外へ飛び出して裏手に回り、美術室の真下に到着するまではあっという間で、まるで一瞬のことだったという。だが、それから先はスローモーションのようで、しっかりとはっきりと、鮮明に憶えているそうだ。
美術室の真下には花壇があった。手入れがされておらず、雑草が生え放題。
そこに先生は倒れていた、うつ伏せの状態で。だが、頭だけは空を見上げるように、真上を向いていた。
「せ、先生……?」
確か、そう声をかけたそうだ。
すぐには声が出せなくて、なんとかして絞り出したので、ひどくかすれていたという。
すると、先生がすっと目を動かした。目の端でこちらを見つめて、パクパクとまた口を動かしたという。
なにを言っていたのか、なにを言いたかったのかは、まるでわからない。
近づいて聞こうとしたが、その前に先生は動かなくなり、開いたままになっている口からあふれ出すように血がこぼれた。
多分に事切れてしまったと思われる先生と目を合わせたままで、彼はしばらく茫然と立ち尽くしていた。そして、思い出したように恐怖し、震えて、その場から逃げ出そうときびすを返したところ、足になにかが当たった。
蹴ったときに重みを感じたので、反射的に足元を窺うと、赤いものが転がっていた。
それはリンゴだった。あの絵に描かれていたものにそっくりな、赤々としたリンゴである。
それを見た瞬間、彼は息を吸うのを忘れてしまった。目の前の恐怖や不安すらも忘れて、ただただ理解し、納得した。
気づいたのだ、例の絵を見たときに覚えた“違和感”の正体に。
おかしいのはリンゴだった。その影が、あるべきところになかったのだ。位置がちぐはぐだった。
夕陽に照らされた校舎を思わせる背景が上方にあり、寝転がった少女が下方にいて、リンゴはその左方、頭の先、伸ばした手の先に存在していた。そして向きは上ではなくて、少女がいる右方を向くように傾いて描かれていた。
だとすると、リンゴの影は下や、左下を向くように描かれるべきだろう。しかし、あの絵のリンゴの影は、何故か右上に向かって伸びるように描かれていたのだ。
彼はその矛盾点に気づいたわけだが、息を吸うことや、目の前の恐怖や不安を忘れさせたのは、それではなかった。その直後に気づいた、新たな矛盾点のほうだった。
おかしいのはリンゴだけではなかった、“彼女”もだった。
有るべきはずの影が、無かったのだ。
足元に転がったリンゴを見た瞬間、例の絵を思い出して脳裏に浮かべ、そして違和感の正体に気づいた彼は、ふと思った。
もしかしたら、あの絵は、そもそも向きが違っていたのでは……?
すると不思議なことに、脳裏に浮かんでいる絵がひとりでに向きを変えた。逆時計周りに、横から縦へと九十度回転したのだ。
上方から左方に移動した背景の、まるで西日に照らされた校舎のようなものは、まさにそのものとなり、左方から下方に移動したリンゴの影は自然な位置におさまって、自らを照らす太陽の位置を教えてくれた。
そして、下方から右方に移動した少女だが、その姿は寝転がっているものから、まるで空から落ちてきているような、地面に落ちているリンゴめがけて真っ逆さまといったような、そんな状態になったのだ。
彼はあらためて思った。
もしかしたら、あの絵は、落下する少女の姿を描いたものだったのではないか……。
少女の死の直前を、その光景を、切り取ったものだったのではないか……。
煙に気づいて駆けつけた先生たちが、火を消そうと必死になっているその声や音を遠くに聞きながら、彼はその後もしばらく死体のそばに立ち尽くしていた。
先生の一人が気づいて駆け寄り、大丈夫かと呼びかけて肩を揺さぶるまで、正気を失っていたとか。
そのあいだ彼は、脳裏に浮かんだ例の絵から目が離せなくて、ただただ、憑りつかれたように眺めていたのだそうだ。
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