第二節
さて、本題に入ろう。
それは彼が中学一年生のことだった。
舞台は学校。
時期は冬休みの少し前で、音楽の授業が終わっての中休みだ。
皆でぞろぞろ、働きアリのように列をなして教室に戻ろうとしていたとき、彼はクラスメイトの男子とふざけあっていた。ちょっかいを出して、出されて。
そのとき、つい勢いがあまって美術室の窓ガラスを割ってしまった。
当然叱られたよ。担任と美術、それに教頭先生を交えた三人の前で、それはもうこっぴどく、平手まで食らうほどだった。
体罰を与えるほどかと眉をしかめたくなるかもしれないが、割ったのはガラスだ。下手したら大怪我をしていたかもしれないし、周りの生徒に被害が及んでいた可能性もあった。それがもしも女子で、顔に傷でも作っていたら大事になっていただろう。
だからこそ、もう二度とそんな馬鹿な真似をさせないためにも、ちゃんと叩いてくれたのだろうと、彼は言った。左の頬を撫でながら、申し訳なさそうに。
故意ではなかったにせよ、悪ふざけの末に割ってしまったのだから全額弁償するところだが、すでに叩くという罰を科しているからか、学校側が積み立てていた修繕費の予算から出してもらえることになり、弁償そのものは免れた。
しかしそれでは甘過ぎると、なんと二人のご両親から不満が上がったため、別に罰を科すことになった。それは力仕事だった。
彼が通っていた学校は、その年に新築されたばかりのもので、すぐ隣には旧校舎が残っていた。
授業に必要なものは関係者が総出で運んだが、まだまだ荷物が残っていて、休日や手が空いたときなどに少しずつ移動させていたのだそうだ。そのため、若くて元気が有り余っている男子二人の存在は貴重だったのである。
そして放課後、生徒の大半が帰路につく中、二人は残り、美術の先生に連れられて旧校舎へ向かった。
美術室の倉庫に仕舞われたままになっている、荷物の運搬と掃除を行う、それが課された罰だった。
新校舎しか知らず、旧校舎を訪れるのが初めてだった彼は、そこであらためて馬鹿なことをしたと、己が行為を悔いたそうだ。
木造建築の旧校舎は古くて、全体的に薄汚れた印象だった。ちょっと風が吹けばガタガタと揺れるし、床板は踏めばギシギシと耳障りな鳴き声を発する。
使われなくなってまだ一年も経たないのに、人気を失った空間はなんとも侘しく、廃墟を思わせる不気味な雰囲気に包まれていた。明かりのつかない廊下がそれを助長するので、先生やクラスメイトがいるとはいえ、美術室までの道のりは恐怖と不安でしょうがなかったという。肝だめしでもしているような気分だったそうだ。
逃げたい、帰りたいという気持ちを押し殺し、なんとか四階にある美術室に辿りついた彼らは、先生の指示に従って、まずは閉め切られた窓をすべて開けて風を通し、それから奥の倉庫に足を踏み入れた。
倉庫内は、見上げるほど大きい置棚が壁の両端に立てかけられていた。その棚板や周りには、ホコリをかぶった絵画や画材、ひび割れのある石膏像がうずたかく置かれていた。
絵を守るためか、倉庫は密閉されていて、窓もカーテンも閉め切られていた。そのため空気がよどみ、ひどい臭いが充満していた。
シンナーや灯油にも似た絵の具の臭いに、石膏、ホコリにカビと、様々な悪臭が混ざり合っていて、しばらく嗅いでいると頭がクラクラしたそうだ。
先生が用意してくれていたマスクでホコリは防げても、臭いはどうしようもなく、奥の窓を開けて換気したくても荷物が邪魔で近づけないので、休憩を何度も挟みつつ、なんとかすべての荷物を運び出した。
倉庫のスペースは手前の部屋の半分も無かったが、その中に仕舞われていた荷物の量は見合わないほどに多くて、教室の床は足の踏み場を残してほとんどが埋まってしまった。
よくもまぁこれだけのものを仕舞い込んでいたと、彼は素直に感心したという。そして同時に、これをすべて運び出さなければいけないのかと思うとウンザリし、本当に馬鹿なことをしてしまったと、もう一度反省したそうだ。
そうして一息ついているときに、ふと窓の外を見ると、空の一角がうっすらとオレンジ色に染まりつつあった。太陽は見えなかったが、光の黄色が濃くなっている気がしたので、陽が暮れ始めているのだとわかった。
今のだいたいの時間を察した彼は、不安になったという。すべて運び終えるまで帰してもらえないのではないかと、そう懸念していたのだ。
しかし、先生が言ってくれた。今日は棚の運び出しを終えたら帰っていいよ、と。
ホッと胸を撫で下ろした彼は、もうひとふんばりだとやる気を取り戻し、クラスメイトと協力して棚の運び出しを始めた。
倉庫から廊下へ、という動作を三度繰り返して、一番奥にあった最後の棚を運ぶべく、まずは壁から離したのだが、すると後ろでパタンと物音がした。
なにかが落ちたのだと思い、横から顔を覗かせてみると、四角い板状のものが、ホコリにまみれた床の上にあった。
それは新聞紙に包まれていて、角の部分がやぶれてキャンバスが露出していたので、すぐに絵だとわかった。
「先生、まだ一枚残ってました」
彼は絵を拾い、すぐに先生の元へ届けた。そのとき先生は、あらかじめ用意してあったリストと照らし合わせて、倉庫から出された荷物の数をかぞえ、ついでに保存するものと廃棄するものを区別していた。色違いの付箋を貼って。
その絵を手渡すと、先生はすぐに新聞紙を広げて、中の絵を確認した。どんな絵が入っているのかと、なんとなく気になった彼も、横から覗き込んでみた。
現れたのは一枚の油絵で、横長のキャンバスに、夕陽を連想するやや赤みの強いオレンジ色の背景と、同校の制服を着た一人の女子生徒の寝転がった姿が描かれていた。
背景は、西日に照らされた校舎のようで、キャンバスの上方にあった。
一方の女子生徒は、和服の似合いそうな黒髪の美少女で、下方にいた。
少女は頭を左方に、足を右方に向けていて、校舎を見上げるように仰向けに寝転がっていた。そして右手だけを上げて伸ばし、頭よりも先の左方に転がっている、一つのリンゴを取ろうとしていた。
リンゴは赤々としていて、新鮮でみずみずしいという印象を抱いたそうだ。
一目で上手だと思える絵だったが、どことなく変わっていて、変な感じがしたという。
どうして変な感じがするのだろう……と、ふと思った矢先のことだった。
「あっ!」
隣の先生が声を上げた。
「わ!」
驚いた彼は反射的に振り返り、先生の顔を窺った。すると、まるでオバケでも目撃してしまったような形相を浮かべていた。
先生はしばらく呆然とし、その絵を見つめていた。だがふいに、ふっと微笑んで、こうつぶやいたという。
「こんなところにあったのか」
どうしたのだろう、どういうことだろうと不思議に思っていると、先生は歩き出し、近くにあったイーゼルに絵を飾った。
知らない方のために書いておく。イーゼルというのは絵を描く際に、キャンバスやスケッチブックなどを固定したり、完成した絵を展示したりするときに用いられる道具のことで、日本語では“画架(がか)”という。
先生はその絵を、わざわざイーゼルに飾るほど大事に扱っていたので、もしかしたらご自身が描いたものなのではと勘繰ったという。
すると、そばでいたクラスメイトがこう尋ねた。
「その絵、先生が描かれたんですか?」
先生はそうだと認め、自分も昔はこの学校に通っていたのだと、卒業生なのだと教えてくれた。
聞くと、先生は当時美術部に入っていて、その絵は部活中に描いたものらしい。我ながら上手く描けたので気に入っていたのだが、あるとき紛失してしまい、実はずっと探していたのだそうだ。
その話に「へぇー」と相槌を打っていたクラスメイトが、また尋ねた。
「その人、先生の彼女だったんですか?」
冷やかすような問いに、先生は照れくさそうにしている感じで、「まぁね」と言った。
そのとき先生がどんな表情をしたかだが、わからない。彼は一切見ていなかった。二人のやりとりに耳を傾けて、(ずけずけとよく聞けるもんだ……)と思い、クラスメイトのデリカシーの無さに呆れたり、感心したりしてはいたが、目を向けることはなかった。
何故なら、彼はこのとき、例の絵から目を離せずにいた。少女の美しさと、その微笑みに心を奪われていたのだ。
同年代で、顔立ちこそまだ幼いというのに、こちらを見つめる優しげな眼差しは妙に大人びて見えた。達観しているとでもいうのか。それでいて、口元に浮かんだ微笑みは不敵というか、相手を小馬鹿にしたような悪戯心が現れている感じで、だからなのか、なんとも言えない魅力があったのだ。
一目見て、“彼女”と目が合った瞬間から胸が高鳴り、心がときめいたという。
つまり、恋をしたのだ。
それが初恋だと思うと、彼は言っていた。それまで異性に対して特別な感情や想いを抱いたことがなく、強い興味を持つことも無かったため、それが恋だとはすぐに気づけなくて、戸惑ったのもずいぶん後のことだったそうだ。
まさか絵の少女に恋をしてしまうなんて……それがまた初恋だなんて……と、恥ずかしそうに言っていたよ。
そういう理由で会話に参加せず、ただ絵を見つめていた彼。だからこそ気づけたのか、彼は絵に“違和感”を覚えた。
「あれ……? あの、先生、この絵、なんかおかしくないですか?」
彼はそう尋ねつつ振り返り、作者である先生の顔をうかがった。すると、ほんの一瞬ではあったが、先生の顔が強張ったという。
ハッとした、ギョッとした、そんな感じだったそうだ。
つまり動揺したのだろう。その証拠に先生は視線を逸らし、誤魔化すように腕時計を確認した。そして「もう遅いから、早く棚を運び出して帰りなさい」と、急かすように言った。
先生の様子がおかしいのは明らかだったが、生徒という立場上そう言われると、それ以上の追求はできなかった。また、クラスメイトが早く帰ってゲームがしたいという理由で率先して倉庫に戻ってしまったので、追いかけずにはいられなかった。
二人は急ぎ、途中だった棚の運び出しを終わらせると、先生にさようならと一声かけ、足早に旧校舎を後にした。
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