第十節
「ごちそうさまでした」
クリスは食事を終えるとすぐに席を立ち、使用した食器を積み重ねて、キッチンに運び始めた。すぐに隣の部屋から水の流れる音や、ガチャガチャと皿のこすれる音が聞こえてきた。
ルシェルは席に留まり、食後の余韻を楽しんでいた。空いたグラスを指で弾き、その高い音色に耳を傾けている。
「ふふっ、あいつめ、我が屋敷のシェフにしてやってもよいな。――って、そんな場合じゃないだろ!」
ルシェルはようやく我に返った。膝を平手で叩くと、おもむろに席を立った。クリスのいるキッチンへと急いだ。
「おい、そんなことは後でしろ。早く俺様を召還してくれ」
聖職服の袖をたくし上げて、皿洗いをしているクリスの元へと歩み寄る。
「召還、ですか……?」
クリスは手を止めた。タオルで濡れた手をぬぐいつつ、後ろへと振り返る。ルシェルの顔を見上げると、そっと首を傾げた。
「やはりちゃんと本を読んでいないな? いいか? 悪魔召喚の儀式を行った際にはな、その儀式を行った者が契約の上で死を遂げるか、もしくは、再び、儀式ができぬ状態であれば、召喚された悪魔はおのずと魔界や地獄へと召還されるが、そうじゃない場合は、召喚した者がもう一度儀式を行い、悪魔を召還せねばならんのだ」
「そ、そうだったんですか……!?」
ルシェルのわかりやすい説明に、クリスは素直に感心し、しきりに頷いている。やはり、本に書かれてあった内容をちゃんと理解していなかったらしい。初耳だと言わんばかりの顔をしている。
「あの魔法陣はまだ消していないのだろう? ならば、さっさと俺様を召還し、魔界へと送り返してくれ」
「あ、はい! ただいま!」
タオルを置くと、クリスは駆け足でキッチンから食堂に抜けた。廊下を進み、聖堂へ。いまくぐり抜けた扉のちょうど反対の位置にもう一つ扉がある。その先に、例の魔法陣のある物置部屋がある。
二人が聖堂にある大きな十字架の前を横切ろうとしたその時、突然、入り口の二枚扉が勢いよく開き、そして、倒れた。
「――出てきやがれ、化け物め!」
けたたましい怒声が聖堂に響き渡る。すると、一斉に大勢の男たちが教会に飛び込んできた。
「!?」
クリスは跳び上がらんばかりに驚くと、その足を止めて、男たちの方へと振り向いた。それはあの地上げ屋の男たちだった。顔に見覚えがあった。けれども、いまほど恐ろしい形相はしていなかった。まるで別人のように恐ろしい顔だ。ひどく殺気立っている。
「いたぞ! あいつだ!ワシの足を潰しやがったあの化け物をぶち殺せぇ!」
男たちは一斉に何かを構えた。
「クリスっ!」
クリスの腕を摑んで引き寄せると、ルシェルは、漆黒のマントを大きく翻した。
無数の銃声が聖堂に鳴り響き、弾丸の雨が二人を襲った。
「ルシェルさん!?」
自らが盾となり、ルシェルはクリスをかばった。
「略すな……! 俺様の名は、ルシェルファウストだ……!」
ルシェルの背中に無数の弾丸が突き刺さる。さしものルシェルも顔を歪める。
「念のため、言っておくが、誤解するなよ……!? おまえを助けるのは、俺様の利益のためなんだからな! おまえが死んでしまっては、なんの意味もないのだ……! 寿命か、もしくは事故でなければ、おまえの魂が手に入らんからな! ここでおまえを見捨てて、みすみす地獄の亡者共や、天使共に魂を取られてたまるかあっ!」
ルシェルの目がカッと見開いた。真紅色の瞳の中心にある瞳孔がさらに細く鋭利なものとなり、まるで獣のような目へと変わった。
ルシェルは、唇の端を吊り上げてニヤリと笑うと、白い牙を垣間見せる。その表情は、まるで、この状況を楽しんでいるようだった。そんな彼の形相に、クリスは思わず身震いしてしまう。
「だっ、大丈夫なんですか……!?」
「馬鹿! 自分の心配をしろ! 俺様は悪魔だぞ!? 魔界の大公爵様だぞ!? この程度、蚊に食われたようなものだ!」
ルシェルは自分の足下に目をやった。すると、彼の影がひとりでに大きく広がる。
「俺様の影の中に避難していろ!」
「ひゃあっ」
ルシェルは、クリスの頭に手をやり、そのまま影の中に押し込んだ。甲高い悲鳴が穴の向こうに消える。
完全に消えたのを確認すると、ルシェルは再び漆黒のマントを翻して、素早く後ろを振り返った。
「調子に乗るなあっ!」
この世のものとは思えない咆哮が、一瞬にして銃声を搔き消した。空気が揺れる。その途端、ルシェルの正面に目に見えない壁のようなものが現れ、弾丸を堰止めてしまった。
「こんなもので、この俺様を殺せるとでも思ったか!?」
ルシェルの目がギラリと輝き、男たちの中の一人をその瞳に捉えた。右手に杖をついた、頭が禿げた小太りの男だ。それはモーテルでルシェルが足を踏み潰した、あの男だった。足にはギプスが巻かれてある。その男は、左手に小型のマシンガンを構えていた。
「悪魔だろうがなんだろうが、そんなもん知るか! これだけの銃がありゃあ、軍だって相手にできるぜ!」
男は目の前で起こっている光景を見ていながら、それでもなお、ルシェルに銃口を突きつける。周囲の男たちも、再び、銃を構えて、一斉にまた撃ち始めた。
ルシェルに弾丸の雨を浴びせかける。だが、何十発、何百発、何千発と弾丸を放っても、一発たりともルシェルの身体を捕らえることは叶わない。弾丸はすべて、彼の前の空中に留まっている。
「その諦めの悪さ、嫌いじゃないぞ」
ルシェルはニヤリと微笑み、片手を前に伸ばした。その手を横に流す。するとどうだ、空中に留まっていた無数の弾丸が、一斉にバラバラと床に落ちてしまった。
「魔界の大公爵、ルシェルファウストの名の下に、貴様らを地獄に送ってやるぞ!」
ルシェルが手を下ろしたその時だった。彼の身体が一瞬にして大きく膨れ上がった。聖堂に飾られている大きな十字架を、それよりも巨大な影が覆い隠してしまった。
二本の曲がった角を生やしたその姿は、まるで、二足歩行をする巨大な黒山羊の怪物だ。それがいま、男たちの前に聳え立った。
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