第九節

「あのう」

 クリスは後ろを振り返り、声をかけた。

「なんだ?」

 ルシェルは首筋を掻きながら返事をする。

「お礼と言ってはなんなのですが、食堂に夕食を用意しておりますので、よろしければ食べていってください」

 クリスは自分から見て左手を指差した。彼が向けた手の先には扉が一つ。

「食事?」

 しきりにクリスが案内しようとするので、ルシェルはなんの気なしに扉に足を向けた。

 扉をくぐり、クリスに案内されるままに廊下を進むと、ある部屋に出た。クリスが言うには食堂らしい。

 食堂と言っても、少し広いだけの長細い部屋だ。レンガ造りの部屋の中央にはこれまた長細いテーブルと、十席そこそこの椅子が並んでいる。テーブルの上には、すでに食器やらパンやら、抱えられるほどのチーズやらが用意されてあった。

「すぐにご用意致しますので、どうぞ、お好きな席に」

 そう言うと、クリスはルシェルを食堂に残し、隣の部屋へと向かった。言われるままに、ルシェルは目の前にあった席にどっかと腰を下ろした。座るや否や、すぐさま足を組む。

 しばらくすると、クリスが食堂に戻ってきた。両手に厚手の手袋をし、大きな寸胴鍋を持って現れた。

「裏の畑で採れた野菜で作ったスープです。お嫌いなものとかありますか?」

 食器を並べつつ、クリスは畏まりながら問いかける。

「いや」

 テーブルに寄りかかりながら、ルシェルは軽く頭を振った。

「良かった」

 にっこり笑うと、クリスは、スープ用の深皿にスープを注ぎ入れた。スープと言っても、ごろごろとした一口サイズに切られた野菜が入っており、どちらかといえばシチューや、ポトフといった風の料理だ。

 ルシェルの分をまず用意し、次に自分の分に取りかかる。クリスが自分の分のスープをよそっていると、ルシェルは気を遣おうともせず、スプーンを手に取り、足を組んだままというなんとも行儀の悪い格好で、一口目をすすった。ルシェルは目を見開いた。

「美味い……」

 つい口が滑ってしまった。口に出した後、しまった、とルシェルはすぐに口を閉ざした。しかし、しっかりとクリスには聞かれていた。クリスの表情がパッと明るくなる。

「本当ですか? お口に合ったみたいで良かった」

 自分の分の料理を用意したクリスは、食事の前のお祈りを始めた。

「……いい味だな」

 思いもよらぬ美味しさに、ルシェルは戸惑ってしまっていた。頭をポリポリと搔きつつ、こんなはずではなかったのだがと困っている。

実のところ、クリスに懐かれていることをうっとうしく思っていたルシェルは、苛めてやろうと考えていた。そこで、出された料理をまずいと言ってひっくり返してやろうとか、あれこれ策を講じていたのだが、それらの計画は見事に失敗してしまった。料理が本当に美味しかったのだ。

 ルシェルは「まあ、いいか」と考えを切り替えると、純粋に夕食を楽しむことにした。しかし、次を口にしようとスプーンを入れた時、彼は、あるものをすくい上げてしまう。その途端、顔、頭、脇腹、腰に、にぶい痛みが走った。

「ま、豆……」

 すくい上げたのは豆だった。すると、ルシェルはそれをクリスに気づかれぬよう、別の皿へと移してしまった。とてもじゃないが、いまは豆を食べる気にはなれなかったのだ。もしかすると、ルシェルは豆を嫌いになってしまったのかもしれない。

「料理が得意なのか?」

 スープをすすりながら、その合間にルシェルは問いかける。

「はい。お師匠様はあまり料理が得意ではないので、だから自然に」

「なるほど。――お代わりをもらおうか」

 ルシェルはスープをペロリと平らげてしまった。どこか横柄な態度を取りつつ、ずいと皿を突き出す。

「はい」

 クリスは嬉しそうに皿を受け取った。

「ところで、ワインはないのか?」

 テーブルにどんと肘をつき、その手の上に顎を乗せて、皿が戻ってくるのを待ちながら、ルシェルは問いかけた。

「ワイン、ですか? ああ、すみません。お師匠様はお酒を飲まれない方なんです。僕は未成年ですし……」

「ふーむ、ここはワインが欲しいところだな……」

 顎に触れながら、ルシェルはもどかしげに呟いた。

「儀式に必要な時などには用意するんですが、普段、うちはお酒とは無縁なんです、すみません」

 クリスは、二杯目をよそった皿をルシェルの前に差し出した。

「ふう、仕方ないか――」

 ルシェルは指を打ち鳴らした。影から黒い触手が現れる。触手は一本の古びたワインを持って現れた。

「人間界のものでも、これだけは認めている。フランス、ボルドー産の超一級品だぞ」

 ルシェルがワインを受け取ると、触手は一瞬にして影の中へと引っ込んだ。テーブルの下に顔をやり、それを眺めていたクリスは、ふと「便利だなあ」などと思っていた。

 ルシェルは慣れた手つきでワインを開封し、用意されていた水用のグラスに注ぎ入れた。

「これはな、いまから二世紀も前の赤ワインだ。魔界にある俺様の城には、このワインのためだけに特別に造った、時間を止められるワイン蔵があるんだぞ、すごいだろう?」

 ルシェルはグラスを手にし、鮮やかなその真紅の色を眺め、香りを味わい、軽く回した後、すっと口に含ませた。味と香りが口に広がり、鼻腔をくすぐる。

「うむ、美味い! やはりいいな。ワインというのはこうでなければいかんのだ。魔界のワインは下卑た味でいかん」

 至福の時を味わっていたルシェルだが、ふいに眉間にシワが寄る。

「このワインはな、あの蝿の大馬鹿者が、自分の好みじゃないからという理由で台無しにしおった以前の由緒正しき! フランス産のぶどうから作られたものだ……! くそっ、奴め、いつか仕返ししてやるからな……!」

 ルシェルの目が、凄まじい殺気と怒りを帯びる。身体からうっすらと煙のようなものが立ち昇っているようにも見える。かなり怒っているのが見て取れる。突然、どうしたのだろうか? さきほど、「蝿の大馬鹿者」がどうしたこうしたと言っていたが、それと関係あるのだろうか?

 また一口含むと、そんな怒りも消し去られた。ルシェルが笑顔を浮かべている。

「おまえもどうだ?」

 ルシェルはボトルを手に取り、クリスに向けた。

「あ、いえ、僕は未成年ですから。それに、お酒はちょっと苦手で……」

 クリスはやんわりと断った。

「こんな素晴らしいものが苦手とは、残念な奴だなぁ」

 ルシェルは哀れみとも取れるような溜め息を一つ吐き、右手にはグラスを、左手は上に向けて返し、そのまま、肩を竦めるような仕草をし、同時に首を左右に振ってみせた。

 ルシェルはまた料理に手を伸ばし始める。

「……」

 そんなルシェルの姿を見つめながら、どこか不思議そうにするクリス。

(なんだか、聞いていた感じと違うなあ……)

 クリスはふと、以前に聞かされた話を思い出していた。それは、お師匠様から教わった悪魔というものの存在のことである。

 神に背く悪しき子。

 己の欲を満たすためならば、どのような非道も歩み、その手を罪という名の血で染める。

 その言葉を思い出したクリスは、あらためてルシェルの姿をうかがい、とてもそうは見えないと思って小首を傾げた。

 確かに、ルシェルにも指摘されたとおり、あまり常識を知らない方だと“自負”してはいるクリスだったが、目の前にいるのが正真正銘の悪魔と知りつつも、やはり、怖いなどとは感じられなかった。神の敵などという意識ももてない。

 自分はどこかおかしいのだろうかと、クリスは悩んでいた。

 その一方、

(俺は何をしているんだ……?)

 ルシェルも悩んでいた。

 自分はどうして人間の子供と、それも聖職者である奴と食事を共にしているんだ?

 言ってみれば、本来は敵同士の関係だ。しかし、クリスが幼いというか、世間知らずというか、なんだか、いままでに見てきた人間とはどうも勝手が違う。

 ルシェルはどうもいつもの調子が出せずにいた。それが悩ましい。しかしまあ、料理も美味ければ、酒も極上。ルシェルは、もうどうでもいいと考え始めていた。単純だ。

 お互い、ひとまず悩むのをやめて、食事を楽しむことにした。

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