第八節
闇夜に支配された村。その一角でけたたましい悲鳴が上がっていた、その同時刻。
「主よ……」
聖堂の奥にある巨大な十字架のその下に、ひざまずいているクリスの姿があった。胸の前で両手指を組み合わせて、目を閉じ、静かに瞑想している。何かを呟いているらしく、その口はしきりに小さく動いていた。そして、おもむろに立ち上がると、胸の前で十字を切った。
「――無駄なことを」
「え?」
後ろから声が聞こえ、クリスはハッとした。それまではなかった何かの気配を感じたのだ。慌てて振り返ると、いくつも並んでいる長椅子の一つにルシェルが腰を下ろしていた。腕を組み、足も組んで、じっとクリスを見据えていた。
「いくら祈ったところで、そいつは救いの手を差し伸べはせん。ただいつも、いつまでも、頭の上から見守っているだけだ」
ルシェルは肩を竦ませ、嘲笑するように鼻で笑った。聖職者に対して喧嘩を売るような言葉と態度だ。
ルシェルは、クリスがどんな反応を見せるだろうかと期待していた。普通なら声を荒らげて否定するだろう。それとも泣き出すだろうか?
しかし、そんな期待も虚しく、クリスは、ふっと苦笑いをするばかりだった。
「はい、仰る通りです」
クリスは少し畏まりながら、ルシェルを見つめた。
「……?」
予想外の反応を見せるクリスに、ルシェルは訝しげな顔をする。
「主は、いつも僕たちを見守ってくれています。人によっては、どうしてあの時、救いの手を差し伸べてくれなかったのかと、不満や恨みをおっしゃられる方もいますが、僕は、それが本当の慈悲なのではないかと考えています。もし、すべてにおいて主がその御手を差し伸べれば、それは真の神とは言えません。別のものです。人は、己の足でこの大地の上を歩いていかなければいけないのですから」
クリスはふっと微笑んだ。
「ほう……」
ルシェルはすっと目を細めた。真紅色の瞳が妖しく輝く。クリスの内に秘められた心を覗き見る。
「僕自身も、昔は主に不満や怒りをぶつけていました。どうして神様は、僕を救ってくれないのだろうかと。――僕は孤児です。生まれてまもなく天涯孤独になって、お師匠様に養子として引き取られるまで、いろいろな施設をたらい回しにされていました。虐待と呼べるものかどうかはわかりませんが、ひどく辛い時期もありました。
その頃の僕はひどく神を憎んでいました。周りにいる子供たちはあんなにも幸せそうにしているのに、どうして、僕だけがいつも不幸な目に遭うのだろうかと。時には、踏み越えてはならない一線を踏み越えてしまったこともありました。いま思えば、なんという恐ろしいことをしでかしてしまったのか……とても罪深いことです。大罪と言ってもいいでしょうね。もしかしたら、いまの僕はいなかったかもしれない。そう思うと、いまでも身体が震えます……」
クリスは右手で、左手首をぎゅっと摑んでいる。その手は小刻みに震えていた。
「お師匠様と出会い、養子として引き取られて、素晴らしい教えや、たくさんの愛情を頂き、僕は、当時の僕の考えがいかに愚かだったかを思い知らされました。――信じ、決して諦めず、真っ直ぐに前を向いて歩いていれば、いつかはきっと、報われる日がやってくるんです。この僕のように……」
胸の前で十字を切り、クリスは首から下げていた十字架をそっと握り締めた。クリスの表情はなんとも優しく穏やかなものだった。そんなクリスの姿に、ルシェルは眉を顰めていた。その顔は、理解できない、とでも言いたげだった。
ルシェルの瞳は、クリスの過去を覗いていた。まだどこか幼さを残した顔立ちをしているクリス。歳もまだ大人と呼ぶには、もう少し時を要する。そんな彼が経験してきた人生は並大抵のものではない。死を選ぼうとしたのも納得がいく。すべての人間を憎み、己さえも憎む人生。愛を知らず、信用とは無縁の生き方をしてきたのだから。
ルシェルは見抜いていた。クリスの身体に一生消えることのない傷が無数にあることを。肉体のみならず、心にもまた、その傷は深く刻み込まれている。だからこそ、どうしても解せなかった。そんな人生を歩んできたクリスの魂が、どうしてあのように白く、美しく輝いているのか……。
愛を知っただけで、こうも人は生まれ変わるものなのか……?
「人間とは、やはりよくわからん生き物だなあ……」
ルシェルは疲れたように、椅子に深くもたれかかった。遠い天井を見上げたまま、そっと目を瞑った。目頭を押さえている。
「あの、どうかされましたか?」
クリスは、相手の顔色を窺うようにルシェルを見る。
「別に、なんでもない。――ほら、仕事は終えた。証拠の誓約書だ」
ルシェルは勢いをつけるようにがばっと起き上がると、つかつかとクリスの元へと歩み寄った。パチンと指を打ち鳴らし、影の中から丸められた羊皮紙を取り出す。
ルシェルはそれを誓約書と言った。しかし、誓約書はモーテルに捨ててきたはず。だが、そこには確かに誓約書があった。モーテルにいたあの男のサインもある。だが、風穴などどこにも開いていない。
「これで、法的にはもはやこの村には近づけん。……法的にはな」
クリスに丸められた誓約書を手渡すと、ルシェルは、彼に聞こえないほどの小さな声でぼそっと呟いた。クリスには見えぬように、口元にニヤリと笑みを浮かべる。
「本当ですか!? ああ、なんと……!」
クリスは感動し、誓約書を手に握り締めながら、胸の前で十字を切った。
「おお、主よ……」
クリスは踵を返し、大きな十字架に向かって祈り始めた。
「ええい、鬱陶しい……」
ルシェルは身体が痒そうだった。
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