第七節

「ぎゃあっ!」

 今宵は悲鳴の絶えない夜だった。

「ぎえええっ!」

 悲鳴が上がる。何かが壊れるような激しい物音がするたびに、悲鳴が上がる。

「なんなんだ、こいつ!?」

「ひええっ!」

 またも悲鳴が上がった瞬間、モーテルのすべての部屋の窓ガラスが吹き飛び、砕け散り、その窓ガラスの破片と共に、数人の男たちがモーテルの外へと飛び出した。モーテルの外、横の原っぱに停められてある数台もの高級車に、その数人の男たちが激しく叩きつけられた。狙い澄ましたかのように、一台に一人の割合で直撃し、フロントガラスを突き破り、ボンネットをひどく歪ませた。もはや高級車の面影などこれっぽっちもない……。

「――見てわからんか? 悪魔だよ」

 壁際にまで追いやられた一人の男は、不敵なまでの笑みを浮かべ、自分のことを真下に見下ろす、長い髪をした長身の男――ルシェルファウストに、手に握り締めている拳銃の銃口を向けていた。

 ルシェルファウスト改め、ルシェルは、てっぺんだけが禿げ上がった頭に小太りの、口元に髭を生やした男に銃口を向けられながら、なんら動じることはなく、平然そのもの。やせ我慢をしているわけでも、虚勢を張っているわけでもない。それは、彼の目を見れば一目瞭然。余裕に満ち満ちた目だ。イタズラ小僧のようなどこか挑発的な眼差しである。その目に気づいているため、拳銃を突きつけている男の方が動揺していた。

「貴様、どこのもんだ……!?」

 男は声を荒らげた。けれど、その声は震えている。拳銃を持っているからこそ、男はまだ平静を保っていられるが、限界は近そうだ。

そんな男の心情を察しているように、ルシェルは向けられている銃口に指を差し込んでみたり、指先で軽く弾いてみたりと、明らかに馬鹿にして弄んでいた。

「だから、悪魔だと言っているだろうが」

 ルシェルは、さきほどから何度も自己紹介のように自分の正体を明かし、説明しているのだが、モーテルに乗り込む時も、この男の手下と思われる連中を蹴散らしている時も、そして、現在も、誰もまったく信じようとしない。

「まあ、信じろというのも無理な話なんだがな」

 ルシェルは苦笑いを浮かべ、すっと肩を竦めた。

「目的はなんだ!? 金か!? それとも、ワシの命か!?」

 男はひどく怯え、少しでもルシェルから遠ざかろうと躍起になっている。けれど、すぐ後ろには壁があり、隣にはベッドと照明を置くためのスタンドがあり、男は、挟まれるような形でいるため、逃げたくても逃げられない。

 男はルシェルの一つ一つの動きに大袈裟に反応しては、ワナワナと肩を震わせていた。

「おまえ、そんなに命を狙われるようなことをしてきたのか?」

 ルシェルは目を細める。凝視するように、じっと男の胸の奥深くを見る。すると、なんともどす黒い、炎のように激しく揺らめく光が見えた。そのくせ、なんとも小さな光だ。

「ほほう。確かに、おまえを殺せば喜ぶ者が大勢いそうだな」

 ルシェルは馬鹿にしたように笑った。

「やっ、やっぱりそうか、貴様!」

 男は改めて拳銃を突きつける。

「残念ながら、違う。俺様はただ、この村や、丘の上にある教会に二度と近づいてほしくないだけだ。だからこうして、丁重に頼んでいるんだ」

 ルシェルはニッと唇の端を吊り上げると、自分の胸に手を当て、自らを指し示すような仕草をした。続けて、その手を足下にある自分の影の中に沈め、丸められた羊皮紙を取り出した。

 ルシェルの手が影の中に消えて、あるはずのないものが取り出された様を、男は見逃さなかった。まるで手品でも見ているようで、男はますます混乱する。

「ここにおまえの名前を書け。これは誓約書だ」

 ルシェルは羊皮紙を広げて、男に突き出すと、電話の横に置かれてあったペンを取り、指で器用にくるりと回してから男に差し出した。

「ふっ、ふざけるな!」

 男は差し出されたペンを拳銃で叩き落とし、銃口をルシェルの額に押しつけた。

「ふっ、言うと思ったよ」

 男が拒否するのは容易に想像がつく。ルシェルは、男の期待どおりの反応に笑みを浮かべた。

 ルシェルは羊皮紙を左手に持ち替えると、男の顔の前に右手を近づけて、パチンと指を打ち鳴らした。すると、ルシェルの影がひとりでに動き出し、その一部が横に移動した。その影の中から何かが現れる。それはひどく醜い姿をした、人の形をした生き物だった。

「ひぃっ!」

 真横に突如として出現した生き物のそのあまりの形相に、男は思わず息を呑んだ。


 ジュル……ジュルリ……。


 口の周りに白濁したよだれが溢れて床に落ちる。男は、そのよだれに触れたくないのか、素早く短い足を引っ込めた。

「なっ、なんなんだこいつは!?」

 眼がなく、髪もなく、ひどく瘦せこけた子供のような姿をしたその生き物の手には鋭い爪が生えており、よだれの滴るその口は頭の半分を占める大きさで、爪と同じく、獣のように鋭い牙がびっしりと並んでいる。そんな怪物が、いま、男の横にいて、じっと佇んでいる。時々長い舌を見せては、ベロリと舌なめずりをする。

「こいつはな、グールという低俗な悪魔だ。知能が極端に低く、食うことしか頭にない。だがなあ、食うことに関してだけは、類を見ないほどの獰猛さを見せる。地獄をうろつく亡者の如く諦めも悪い。執拗だぞぉ。どこへ逃げようともな、こいつは追いかけてくる。そして、一度捕まれば、肉はもちろんのこと、骨も、一滴の血も残さん」

 ルシェルは男に向かって淡々と説明をする。しかし、彼の言葉など、いまの男の耳にはこれっぽっちも聞こえてはいなかった。なぜならば、そのグールという怪物が、いまにも腕か足にでも食らいついてきそうで、気が気ではないからだ。

 ルシェルは肩を竦めると、親指と中指の腹を密着させた状態の手を男の顔の前に持っていった。

「もう一度、俺様がこの指を鳴らせば、こいつは躊躇うことなく、おまえを食らう。さぁ、どちらかを選べ。サインするのか、それとも、こいつに食われるか――」

 真紅色の瞳が妖しげに輝く。ルシェルは、人間のものとは明らかに異なる鋭い目つきで男を睨みつけた。

 ルシェルは、密着させている二本の指に力を込める……。

 男に考えるヒマなどなかった。余裕もなかった。男は拳銃を足下に放り出し、床に落ちていたペンをひったくった。そして、殴り書きするように誓約書にサインをした。

「汚い字だなあ、おまえ。まあいい。これで誓約は取り決められた」

 ルシェルが誓約書を丸めると、グールは一瞬にして影の中へと吸い込まれた。その瞬間、男は大きな溜め息と共に脱力した。

「ああ、ちなみにな、誓約を破った場合には、それ相応の罰を受けてもらうからな。気をつけろよ?」

 ルシェルは男の団子鼻に指を突き立てて、忠告する。ルシェルはまた不敵な笑みを浮かべると、その指を、男が着ているガウンでしっかりとぬぐった。その後、身体を起こし、一歩後ろに下がってから踵を返そうとした。

「――死ねぇ!」

 一発の銃声が轟いた。

「……」

 後ろを振り返ろうとしていたルシェルは、無言のまま、まず自分の胸を確認し、その後、手にしていた誓約書へとその視線を向けた。そして、最後に正面に戻し、男を見た。

「え……?」

 男の手には、いまにも消え入りそうな白煙を銃口から立ち昇らせる拳銃が握られていた。男は、ルシェルと拳銃を交互に窺った。ルシェルの胸には穴が開いており、その手に握られた誓約書にもしっかりと風穴が開いている。

(当たったはず……確かに命中した!)

 男は、ルシェルが後ろを振り返ろうとしたその一瞬の隙に乗じて、足下に置いた拳銃を素早く取り上げ、躊躇うことなく引き鉄を引いた。火花が散り、銃口から弾丸が放たれ、丸められた誓約書もろとも、ルシェルの胸を射貫いた。確かに射貫いたのだ。けれども、ルシェルの胸に開いた穴からは一滴の血もこぼれず、ルシェルは痛む様子も、苦しむ気配も見せない。床には弾丸が発射されたことを表す、空の薬莢が転がっているのに……。

「誓約を破ったな――」

 そう呟いた途端、ルシェルは足を上げ、男の膝を踏み潰した。

「これは罰だ」

 なんとも耳障りな音が辺りに響いた。丈夫な枝がポキリと折れるような、それでいて、熟れたトマトを握り潰したような、そんな音……。

「ギャアアア―ッ!?」

 ルシェルの足は床にまでめり込んでいた。男の太ももと、すねから先の部分はあるのに、その間の部分が存在しない。

「足が……足があああ――っ!?」

 ひどく耳障りな悲鳴が夜の闇をつんざいた。

「うるさい奴だなあ……」

 ベットリと血のついた足の裏を、ルシェルは横にあるベッドのシーツにこすりつけた。汚らしいものでも見るかのようなその目は、なんとも冷ややかだった。

 ルシェルは改めて踵を返し、漆黒のマントを翻した。その途端、彼の身体が自身の影の中へと吸い込まれた。ずぶずぶと、底なし沼にはまったように。

 ルシェルの姿が完全に見えなくなると、何かが影の中から飛び出した。それは狂ったようにわめいている男の頭に当たって、床へと落ちた。

 それは風穴の開いた誓約書だった。

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