第二節
「うわ!?」
男の片足が乗った途端、缶は前に転がり、重心を預けていた男の身体は後ろに向かって見事にひっくり返ってしまった。その瞬間、男が履いているブーツのかかとに引っかかり、缶が宙に舞い上がった。
「ふぎゃあ!」
なんとも痛々しいまでの悲鳴が上がった。それは、惚れ惚れするほどの負の連鎖が生み出した、一瞬の出来事の末の結果である。
時間をほんの少しばかり戻して説明する――。
後ろ向きにひっくり返ってしまった男は、反射的に体勢を立て直そうと、ちょうど手の届く位置にあった教卓に慌てて手をついた。だが、教卓の脚はいまにも折れそうになっており、男が全体重をかけるものだから、見事にポッキリと折れてしまった。男は教卓もろともくずおれた。
不運は続き、倒れまいと教卓に手をついたことで、後ろに向かって倒れようとしている軌道にズレが生じ、脚が折れて、男に向かって傾いた教卓の角が、男の、背中側の脇腹を『グサリ!』と突いた。男はそのまま倒れ込んで床で腰を強打し、後頭部をしこたま打ちつけた。
そして、なんといっても極めつけは、宙へ舞い上がったあの缶である。それはもう、考えこまれた一コントの場面のように、缶は天井に当たって撥ね返り、後頭部を打ちつけたその瞬間の男の顔面にクリーンヒット! それはもう、見事にめり込んだ。
そのめり込む直前、缶が男の顔面に直撃するその瞬間、男はほんの一瞬だったが、缶の外側に書かれた銘柄を、その真紅色の瞳にしっかりと、くっきりはっきり捉えていた。銘柄の横には煮豆の写真。大量の豆がぎっしり詰まり、スープがたっぷり入ったずっしりと重たい、スチール製の非常に頑丈な缶……。
――これらが、一瞬のうちに男の身に降りかかった災難の全容である。
「ああ……ああ……」
床の上を転げ、のたうちまわっている男を、少年はただ呆然と眺めるばかりだった。
男は、頭に顔に、背中側の脇腹に腰にと、いくつもの箇所を交互に押さえながらもんどりうっている。
「うぐぐぐぐ……!」
しばらくすると、うつ伏せになり、亀のように小さくなってうずくまると、床を、拳で何度も叩きながら、男は、必死で激痛に耐えていた。
「いっ、痛い……いくら死なんとはいえ、これは痛過ぎる……!」
しばらく苦痛にもだえ苦しんでいた男だが、急に動きを止めると、突然、がばっと立ち上がった。床を転がっていた缶をひったくり、素早く少年に迫ると、握り締めていた缶を少年の顔の前へ突き出した。
「おい! 自宅であろうと、床にこのような危険性を秘めたものを置くべきではない! 貴様ら人間界のとある国ではなあ、窓際に包丁が置いてあったために、忍び込んだ泥棒が大怪我をして、それで逆に裁判を起こされ、多額の賠償金を払わされたという事例があるぐらいだ! もっと注意を払え! そして、悪魔召喚の儀式を行う場合には、こんな狭い所ではなく、もっと広い場所で行え! わかったかぁっ!?」
目にうっすらと涙を浮かべながら、男は一気にまくし立て、少年の手に乱暴に缶を手渡した。
「ごめんなさい! ごめんなさい!」
あまりにも痛そうで、思わず顔を顰めてしまうさきほどの光景と、男の恐ろしいまでの剣幕に少年は圧倒され、怯えて、ひたすら頭を下げている。渡された缶をその手に抱き、何度も繰り返し謝っている。男が涙目になっているのはわかるが、少年までもがどうして目を潤ませているのか……。
「まったく……!」
ぶつぶつと愚痴をこぼしながら、男は後ろに下がると、今度は念入りに足下を調べた後、魔法陣の中心に立った。周りに注意しながら踵を返し、軽やかにポーズを取ってみせる。その姿は、男がひっくり返る直前に取っていた格好と同じである。どうやら、仕切り直すつもりのようだ。
「この我を召喚するとは、いい度胸をしているな! 我が名を……って、ああもう、面倒臭い。もういい、前置きは省く。我が名はルシェルファウスト! 魔界の大公爵なるぞ!」
男は自己紹介を簡略化し、早口で自分の名前を名乗った。
「で? 貴様の願いはなんだ? 富か? 名誉か? それとも報復か? さあ、我に打ち明けてみろ。契約といこうではないか」
自らをルシェルファウストと名乗った男は、伸ばしていた手を上向きにすると、前に立つ少年に差し出した。物を欲しているような仕草だ。
「え? あ、あの、その……」
言葉に詰まり、もじもじとしている少年。急に尋ねられて、どう答えるべきかに迷い、戸惑っているようだ。確かに、ただでさえ緊張していたところにあのようなことがあったのだから、緊張や不安も高まり、つい混乱してしまうのも無理からぬこと。
少年が必死に考えをまとめようと躍起になっている間、ルシェルファウストと名乗った男は、少年へと差し伸べたその手をどうすればよいかに困り、また、なかなか返事が来ないことに苛立ち、手を小刻みに震わせ、唇の端を引き攣らせていた。
しばらくは辛抱強く堪えて待っていたが、いっこうに答える気配を見せない少年に苛立ちも限界に達し、ついに動いた。
「どうした? なぜ答えんのだ? 何か願いがあるから、この俺様を呼び出したのではないのか? 頼みたいこと! お願いだよ、お願い!」
ルシェルファウストは、伸ばしていた手を戻して自分の頭にやり、先刻、床で強打した傷をポリポリと搔きながら、丁寧とは呼べないものの、なるべくわかりやすい言葉を並べ立てた。もしかすると、さきほどの言葉ではわかりにくく、伝わらなかったのかもしれないと考えてのことだ。それが原因ではなかったのだが、どうやらそれが功を奏したらしく、まとまらなかった考えもようやくまとまり、少年は真っ直ぐに男の目を見つめ、胸の前で両手指を組み合わせた。
「あの! この教会を守るために、あなたの力を貸してはいただけませんか!?」
少年は祈るような仕草をし、子犬のように澄んだ目で男のことを見つめ、ハッキリした口調と大きな声でそう問いかけた。
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