あくまでもクリスチャン
小野 大介
第一節
うすぼんやりとした明かりに照らされている部屋がある。その明かりは、窓から漏れる黄昏時の太陽。
物でごった返している部屋の中、それらを横に押しやり、辛うじて空けたスペースに、少年が一人、しゃがみ込んでいる。
白のチョークを手に、もう片方の手に一冊の本を広げて抱え、少年は、ホコリを払ったばかりの床板に、その本のとあるページに印刷されている図形や模様を真似して描いていた。なんだか、ラクガキをしているようにも見える。
少年が手にしているのは、片手でやっと持てるほどの大きさの、背表紙が真っ黒な本。
表紙を開けると、ページいっぱいに大きくきれいな円が描かれ、その中心にはちょうど半分ぐらいの小さな円が一つ。さらにその内側に、これまたちょうど収まるぐらいの五芒星が逆さまの形で一つ描かれている。
五芒星とは、五つの角がある、一筆書きが可能な星形の図形のことである。
大きな円と小さな円の間に、多種多様な生き物をかたどったさまざまな模様を描き、最後に五芒星の中心に、古代ヘブライ文字
で“13”意味する文字を書き記した。
「できた……!」
少年は手を止めた。身体を起こし、描いたばかりの魔法陣を踏んで消してしまわないよう気をつけて白線の外に出ると、だぶついた服の袖や裾についてしまったチョークの粉を叩いて落とした。
チョークを近くにあった教卓の上に置き、広げている本のページを一枚めくると、少年は魔法陣を前にして立った。本は左手に持ったまま。自由になった右手をすっと前に伸ばし、手のひらを下に向けて、魔法陣にかざす。
「えっと……」
めくったページに目を落とし、そこに書かれてある文字を声に出して読み上げる。
闇に潜む者よ、夜を彷徨い続ける者よ、我、汝との契約を求む、
来たれ、目に見えるように、好意的に、音もなく静かに、穏やかに、
東西南北、四方より来たれ、遅れず来たれ、
謀略を好むその耳で我が願いを聞け、魂を凍てつかすその声で我が問いに答えよ、
力の及ぶ限り我が願いを叶えよ、つつがなく我が意志を実現せよ、
堕ちた天使たちよ、地獄の王たちよ、光に背いた憐れな子らよ、
いでよ、この輪を通り地上にいでよ、我が前にいでよ、いでよ、
呪文とも取れるその言葉を声に出して読み上げると、少年は、魔法陣に手を伸ばした。少年が最後の言葉を読み上げた時、“それ”は起こった。
「あっ!?」
白線が赤く染まってゆく。血のように鮮やかな真紅色に染まるのを見た少年は驚いて声を上げた。
白線のすべてが赤く染まり、なんとも妖しげな光を放っている。その光は、窓から差し込んでいた夕陽を、窓の外へと追い出してしまった。
血塗られたような魔法陣が床に浮かび上がる。すると、五芒星の中に書かれた13を表す文字がまた別の色に染まり、黒い光を放った。
光は徐々に広がり、血で描き上げたような魔法陣を浸食し、すべてを黒に塗り潰した。まもなく魔法陣は消え去って、代わりに穴が現れた。
地の底にでも通じているようなその穴から、黒煙が濛々と溢れ出している。ドライアイスの煙にも似たそれは、さしずめ、黒い霧とでもいったところか。
黒い霧はあっという間に部屋を覆い尽くし、夜の闇を齎した。窓の外はいまだに黄昏。夜なのは部屋の中ばかりだった。
黒い光と、黒い霧によって支配された部屋の中、床に開いた黒い穴。その穴の中から、“それ”は突如として飛び出した。細い針のような無数の黒い影。それは、螺旋を描いて同心円状に広がりながら出現し、いくつかの棘の束となって、穴の周囲の床に突き刺さった。
まるでかぎ爪のようだ。
穴を固定するように突き刺さった無数のかぎ爪は黒い紐状のものに繋がり、穴の奥深くへと通じている。
そのすべてが束となり、穴の奥底から何かを引き上げるかのような動きを見せる。意思を持つようにひとりでに動くその姿は、まるで、なんらかの生き物の触手を連想させる。
黒い触手は、穴の奥底から何かを引き上げた。現れたのは、大きな黒い塊。何本もの触手が絡みついたそれは、黒い卵のようだ。
「ほっ、本物だったんだ……」
一部始終を目の当たりにした少年は圧倒されていた。碧くつぶらな瞳が美しいその両目を見開いて、穴から現れ、いま空中に浮かんでいる黒い卵を凝視していた。
黒い卵に絡みついていた触手が次第に解れてゆき、その中にあるものがあらわとなった。それは人の形をしている。
すべての触手が取り除かれると共に姿を現したのは、一人の男だった。
「ハアァァァ……ッ!」
開かれた口から、大きな溜め息と共に黒い霧が吐き出される。二つの目がすっと開き、血のように鮮やかな真紅色の瞳が現れた。獣のような鋭い瞳孔が、眼下に立ち尽くす少年を捉える。
「ククッ」
唇の端を吊り上げて、男はニヤリと微笑んだ。すると、わずかに開かれたその口元から、牙のように鋭い犬歯がチラリと見えた。
腰まで伸びた黒髪をなびかせて、男は空中に浮かんでいる。髪の先端と一部だけがプラチナブロンドと呼ばれるような白銀色をしている。
男は古い時代の燕尾服のような黒い服に、漆黒のマントを羽織っている。なんとも時代遅れな格好だが、長身で細身なその身体によく似合っており、見事に着こなしていた。
細身だが、線が細いわけではなく、スタイルは申し分ない。足もスラリと長く、とても美しい容姿を具えていた。“妖艶”という言葉がよく似合う。けれど、どこかしら違和感がある。薄気味の悪さとでもいうのだろうか。まるで、何かで造られたような印象が見受けられるのだ。譬えて言えば、精巧に造られた人形を見ているような……。つまり、魂が感じられないのである。
生きている者の気配をもたない男は、口元に微笑を浮かべながら、少年の前に降り立った。足音も立てずに。
「我を召喚するとは、いい度胸をしているな。我が名を知ったうえでのことか? ククッ、面白い! これだからこそ、人間は面白いのだ。ふん、いいだろう。恐ろしさのあまり、その身が凍りつくかもしれんが、教えてやろう。我が名は――」
男は、手を力強く前に伸ばし、少年に歩み寄らんと大きな一歩を踏み出した。その時、立ち込める霧で見えづらいその足下には、缶が、あった――。
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