第七話 見てる
これは石屋時代の話。
俺は20年近く石職人をしていた。
石職人ってなんだか偉そうだけど、まぁ要するに土木作業だ。
施主に注文を受けて、中国の石の産地に契約してる工場に、図面を送り発注すると、約一ヶ月ほどでお墓が一式梱包されて来る。
それを、ユニック車に乗って各家庭の墓地に出向き、
プラモデルの様に据え付ける。
ただし、すべて重い。
墓石に使われる石はだいたいが御影石と呼ばれる花崗岩。
非常に風化に強く、強度もあって、1,500年は風化に耐えると言われている。
石は一尺(30.3センチ)真四角を「一才」という単位で呼ぶ。
その一才が約70キロ。
一番小さなパーツである、水鉢ひとつでも、70キロ以上ある。
石職人は、それらを平気で持って歩けなければいけない。
持ち上げるだけなら、その辺の力自慢でも出来る。
でも、持ち上げて、過酷な状況の中を歩いてって、角が欠けない様に細心の注意を払いながら、そっと据え付けなければならない。
長く現場施工の総監督をやらせて貰っていたので、
いろんな力自慢を見てきた。
でも、大概は、3日ももたずに辞めていく。
本当に過酷な仕事だから。
夏の炎天下にフルパワーで、機械も何も入らない狭い墓地の中で、迫り来る大群のヤブ蚊と戦いながら、ツルハシ一本で地面を掘り、コンクリートを練り、基礎コンクリートを打ち、石を据え付けてはコンクリートを流し入れ、砕石を一輪車で運び入れ、材料を運び入れ、細心の注意を払いながら石を据え付けていく。
朝は7時から、夜は納期次第で、深夜まで投光器を使って、その日のノルマが終わるまで続ける。
途中何度も目の前がボヤけて、倒れそうになる。
若く、慣れてないコたちは熱中症でバタバタ倒れる。
白目を剥いて、泡を噴いても慣れたもの。
服を脱がせて、バケツで何杯か水をかけて、回復するまで木陰に放置。
回復しないなら、救急車。
それでも納期を守るために、みんな手は止められない。
翌日もまた翌日も同じ事。
納期との戦い。
真冬も同じ事。
どんなに雪が深かろうと、バケツの水が凍ろうと、墓石を拭いたそばからどんどん凍りついていこうと、関係ない。
施主様が決めた納期は絶対だから。
今までいろんな仕事をしてきたけれど、
石職人ほど過酷な土木作業は無かった。
機械が使えない完全に人力。
だから、石職人と聞いたら、無条件で根性が座ったヤツだと思っていいです。
あれほど、力と技と持久力が要求される職業はこの世には無いです。
その石職人時代、
やっぱり深夜までずっと墓地に居れば、そりゃぁもう数々のエピソードがあるわけなんだけど、その中のひとつをお話しますね。
*************
兵庫県も真ん中のほう。
丹波地方と呼ばれる地域に、
猪と丹波黒豆と松茸で有名な、篠山市ってとこがある。
ここはけっこう未開発で、田園と山々が広がる、昔ながらの城下町。
たしか、織田信長の城下町じゃなかったかなぁ。
市と名乗るギリギリの人口数しか居らず、電車も一時間に6本くらい。
土地もすっごい安く、なんせ涼しい。
冬も雪は数度積もるくらいで、積もっても膝上くらいかな。
そんな田舎の都市なので、お墓事情もかなりの未開発だった。
今田町って町は、最近まで土葬もあったくらいだからね。
その今田町の、とある村墓地に施工に行った時のお話。
だいたいが、3トンユニック車と2トンダンプに3人で1チーム。
俺のチームは、福建省の中国人研修生ひとりと、ブラジル人ひとりの、外人部隊。
仕事の正確さと速さはマジに兵庫県一番だと自負していた、最強のチームだった。
その現場は、見墓と呼ばれる新しいお墓と、埋墓と呼ばれる土葬のお墓があって、見墓のほうは本当に形だけのお墓。埋墓のほうに実際の遺体を埋めてあるという、この町ならではのスタイルの墓地だった。
だから、村のひと曰く。
「夜中になるとよく人魂がふわふわ浮いてんですよ。」
なんてことは日常茶飯事だったみたい。
土葬から出てくるリンに発火して、青白い人魂がよく飛んでたんだろうなぁ。
まぁ納期は3日。
けっこうな豪華なお墓だったので、みんな黙々と作業をしていった。
八月真夏真っ盛り。
朝からもう死ぬほど暑くて、何度も水汲み場に行ってバケツで水をかぶりながら仕事してた。
水汲み場の横には
屋根と簡単なベンチが置いてある休憩所があって、そこに近所のひとであろうおばぁちゃんが座っていて、にこにこと挨拶してくれた。
昼間には中国人が、「おばぁちゃんに貰ったー♪」っと、スイカを貰って来て、有り難くいただいたりした。
あの時の、炎天下の渇いた身体に染み渡るスイカの美味さは忘れられない。
こういう細かな配慮があるのが、村墓地の仕事の楽しさだ。
夕方も過ぎると、今度はヤブ蚊との戦い。
蚊取り線香を一度に8巻きほど燃やして、まず結界を張り、普通に6巻きを四方に置く。
これで大抵のヤブ蚊は逃げ出す。
俺らも安心して作業を続けていた。
夜も更けると、投光器を焚いて、夜間の仕事に切り換える。
発電機の音と、施工してる現場を照らす投光器が照らす場所だけが、俺らのすべて。
今日のノルマをあげて早く帰って寝よう。
それしか頭に無くなる。
そんな時、水汲みに行ったブラジル人が、両手に一杯の桃を抱えて来た。
ポルトガル語混じりの日本語で、「おばぁちゃんがくれたんだよ♪」って嬉しそう。
「あぁまたおばぁちゃんかぁ。わりーなー。明日施主に言ってお礼しなきゃねー」
ちょうどお腹もぐぅぐぅ言っていたので、みんなで手を止めて、美味しくいただいた。
初日は深夜2時までで終了。
早々と帰って、2日目は朝6時から仕事。
やっぱりその日もおばぁちゃんが休憩所ににこにことしていて、昨日のお礼を伝えると、首を横に振ってにこにこと。
どうやら言葉が不自由な方みたいだったので、深くお礼をして、作業を進めた。
日中もスイカを貰ったり、キュウリのキンキンに冷えたのを貰ったり、本当に助かった。
おかげで効率もやる気も上がり、3日の納期だったのに、夜の22時頃にはもう、石碑にサラシを巻いて最後の仕上げまで出来た。
みんなで、すっげぇな俺らって言いながら、トラックにあれこれ道具を片づけて、現場の掃除を綺麗にして、帰路についた。
翌日は施主に呼ばれて、3人で焼肉をご馳走になった。
今回のお墓に入る仏さんの娘さんで、40代くらいの美人さん。
笑顔がすっごいやわらかで、本当に愛情たっぷりに育ったいいひとって感じのひとだった。
ずっと気になっていたので、あのおばぁちゃんにお礼をしたくて、施主さんに聞いてみた。
しかし、施主さんには心当たりが無いと。
「いやいや。言葉が不自由で、杖をついて、丸顔の優しそうなおばぁちゃんでしたよ?」
と言うと、施主は大きくため息をついて、にこやかに言った。
「そうですか。それ、たぶん、ウチの亡くなったお母さんです。そうかぁ。お母さん、自分が入るお墓を作って下さってる人たちに感謝してたんだろうなぁ。あの人ね?すごい義理堅くて、世話焼きだったんです。たぶんそのスイカや桃やキュウリは、お母さんが大事に育ててたものですよ。美味しかったでしょ?」
ってウィンクして笑ったその笑顔は、言われてみれば、あのおばぁちゃんそっくり。
俺たち3人はそのあとまた現場に行き、お墓に手を合わせて、深々と頭を下げて帰った。
あれから15年は経つけど、あの時食べた桃とスイカとキュウリの味を超えるものには、まだ出会えてない。
毎年今でもこの時期になると、篠山を訪れて、おばぁちゃんに手を合わせて、お経を供えるようにしている。
おばぁちゃん。
安らかに。
Love finfen♪
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