グラッド・デッド
助手席の収納には、いつも新品の果物ナイフを入れてある。しがないサラリーマン業の帰り道、夜の暗がりの中を滑り降りていくときに、ときたまぼうっと光っている星を見つけるからだ。
そんなとき、僕はゆっくりと車を路肩へと寄せて、ナイフの封を開けるのだ。
それから、ウインカーをちかちかと反射する鋭刃を手に携えて、僕の星を迎えに行く。
背後からそっと早歩きで近づいて、まず追い越しざまに腹を捌く。最初のうちは喉を狙っていたけれど、最近ではあまりやっていない。それはさすがに、狡い気がして。
だから、悲鳴を上げようとする声は、切り裂くのではなく、ナイフを持っていないほうの手で押さえつけることにしている。
口を塞いだ僕の手を、相手は必死に引き剥がそうとして、その一挙一動のたびに、僕の手のひらには湿っぽい息がかかってきて、僕の指はそれを漏らすまいと自然と力が籠っていく。
けれど今日の少女はそうならなかった。
地面に膝をついたあと、セーラー服の下、真っ白なシャツと肌と肉がぐちゃぐちゃにかき混ぜられた己の腹部をそっと撫でて、穏やかに僕と僕のナイフを見上げている。まるで猫の死体でも眺めるかのように、僅かに憐れみの気配すら滲ませて。
彼女がそんなだから、僕の指にもどうにも力が入っていかなくて、ついには口を押さえることそれ自体さえやめてしまった。
「わかってるの。君はこれから死ぬんだよ」
代わりに、出た言葉がそれだった。
だって本当に、彼女ときたら、まるで他人事みたいに青ざめていくものだから。
「驚くべきことに、この世界には、これから死ぬ人間しかいないんですよ」
横たわる星の胸元に馬乗りになったまま、僕は血まみれのナイフを逆手に持ち変える。素直に気持ちが悪いので、右の二の腕をナイフで抉った。ぴしゃりと血が弾け飛んで、女の子はほんの少しだけ顔を歪めた。
けれどもそれもあっという間に元通り、薄い笑みが浮かび上がってくる。
「手慣れてますね。こういうこと、何度もやっていらっしゃるんですか?」
「……まあね。君みたいなのは、はじめてだけど」
ぐじゅぐじゅと、切っ先で筋肉をほじくり返す。
吹き出す血はいつも通りなのに、生きている感じは全然しなかった。まるで医療用のマネキンを相手にしているみたいだ。外科的手術の練習に使うやつ。
「どうして人殺しなんかやってるんですか?」
「……特別な理由はないよ。君が僕に殺されたがっているように見えたから」
「なるほど。ご慧眼恐れ入ります」
「は?」
すると少女はここではじめて不満げな顔を見せた。
「あなたの言う通りです。近頃、あなたの殺人が報道されるたび、どうして私じゃなかったんだろうと嫉妬すらしていました。私はあなたに殺されたくて、ここまで歩いてきたのです。ありがとうございます。私を、見つけてくれて」
ため息が出た。本当に、つまらない殺人だ。
「僕は、後悔している。お前なんて見つけなければよかった。こんなに殺しがいのない星は、きっと空前絶後だよ」
「……そうですか? それは、残念です」
「どうしてそんなに殺されたかったの?」
問いかけながら、ざくん、と上腕骨に張り付いた赤桃色の肉を剥いで、それで、それから。彼女の唇は、もう動かなくなっていた。最後まで、現実味のない、作り物のような少女だった。
例えば。
少女は実は吸血鬼か何かで、ここから何事もなく起き上がってくるとか、そういう秘密があってもよさそうなくらい、死を穏やかに抱き締めた少女は、少なくとも、いまこの場で甦ることはなさそうだった。
「……意味なんて、ないか」
僕だって、何かのために生きているわけでも、何かのために殺しているわけでもない。ただの気分だ。
それなら、死にたい気分の人間だっているだろう。
それだけの話。
たぶん、きっと。
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