死せる愛の復活

 死別。たった二文字で表せるほどには、これはありふれた出来事であった。

 そも死に枕するときを同じくできる夫婦めおとがいくらいるという話。人間二人、どちらかが先に死に、どちらかが残されるのが、契りを結ぶときより定められた運命だろう。しかしながら、その中にもやはり多くに悲しまれるべき別れというものがある。

 扶桑美咲は、その名字を改めてからわずか二年にして、愛する夫に先立たれた若き娘である。連れ合う以前から夫と共に生命工学に携わり、稀代の才女として知られてきた。そのうえ美貌も類まれとあれば、この心を射止めた男には賛美羨望嫌悪に憎悪、そのどれもが大変に注がれてきたのも自明であろう。

 かつての知人が千円の包丁を手にしたのも、やはりそのような理由であった。


 当然ながら夫を殺されたところでその目が別な男、まして殺人者に向けられるわけもなかったが、しかしその目線はどこか奇妙であった。悲しみも嘆きも深いのは確かだが、それがややおかしな方向に向かっている感が否めない。日夜研究に没頭する美咲に、それを不審がった同僚が声をかけた。

「その、美咲さん。少し休んだらどう」

「いえ。やらなければならないことがあるので」

「仕事なら、理由が理由なんだから、休めないはずないでしょう。これで休めないなら、わたしたち皆で抗議するわよ」

「いえ、仕事のほうはお休みをいただいていますよ。研究室を借りているのです」

「は? えっと、それはどうして?」

「死者の復活」

 顕微鏡を覗いたまま、ぼそりと呟いた一言が、いまや彼女の全てである。

 寝ても覚めてもただそれのみ、いいや本当に寝ているのかさえ曖昧だ。美しかった髪は乱れ、顔はこけて病人のていとなり、しかしその瞳だけがぎらぎらとした意志力を持って輝いている。最初のうちは、そんな彼女を心配する声も多かったが、いつしか関わる人も少なくなった。彼女は狂ってしまったのだと。ただその不可逆の運命を憐れむ声だけが時折届いたが、それこそ最大の侮蔑であった。

 不可逆の運命を覆す。女はそのために狂ったのだから。

 そんな日々が五年と少し続いた。さすがに二か月ばかりで会社は退職を余儀なくされたが、かつての恩師を頼って、大学の研究室に寝泊まりして、それが五年。

 ひとつの研究、まして前人未到の死の超克をとなれば、たかだか五年。実を結ぶはずもない樹はしかし、あり得ざる狂気によって、その結実をみることになる。


「……ああ。完成だ。完成です、あなた。ようやく、わたしたちはあの日に帰る」

 冷凍保存の揺り籠コフィンの蓋が開かれる。その口から冷気が放たれていくさまは、さながら地獄の門が開くかのようであった。

 この五年、もはやかつて修めた学とは比べようもなく広い範囲に手を伸ばし、その先々で先人から受け継がれてきた大命題をいくつも解決に導いた。なぜなら愛する彼を取り戻すためにはそれが必要だったのだから。

 ヒトの脳の完全解明もまたそのひとつである。

 いくら冷凍し見かけを保っているといえ、一度血の気を失して壊死した細胞はもう使い物にならない。なのでそのすべてを新しく作り直した。オリジナルとまったく同様に、まったく同様の働きをして、まったく同様の情報を持っているように。

 それは原本の復活ではなく、複製レプリカントではないかという声は、あった。そんなはずはない。たとえ複製だとして、それが原本とまったく同じならば、それはもはやオリジナルだろう。……その言葉の裏で、言い知れぬ悪寒が日々増していったのも、また事実である。しかし。

 全ての作業は、あとひとつを残すのみ。手に握る注射器の中身、エリクサーを投与すれば、かつて死した愛はきっと必ず復活する。そのはずだ。複製などでは、偽物などではない。本物の愛がよみがえる。

 自分に言い聞かせるように、心中で何度もそう呟いて、美咲は注射器の先を肌の奥に押し込んだ。そして、

「……おはよう、美咲。俺は、ずいぶんと長く眠っていたみたいだね」

 そう、柔らかく笑いかけるさまは、五年前と何も変わらない。

「ああ──」

 ああ。嗚呼。

 なんてことはない、成功だ。死せる愛の復活はここに成ったのだ。


 このことは、世間を大いに賑わせることとなった。それも当然だろう。死者の復活という夢物語が、現実に確かな技術として確立されたのである。賛美も非難も何もかもが怒涛のように押し寄せたが、それはもはや美咲にとって些事であった。

 別に、死者を復活させたかったわけではない。単に、愛を取り戻したかっただけなのだから。

 美咲は復活した夫と共に表舞台を去り、ありふれた夫婦としての日々を送った。

 かつてあるべきだった幸福を、五年間の空白を取り戻すように、二人は毎日を重ねて生きていく。

 そのはずだった。


「──

「え?」

「それは彼じゃない。彼は牛肉が苦手なのに」

 愕然とした表情で、牛丼を頬張る隣の誰かを美咲は見ていた。

 決して拭いきれなかったあの不安が、急速に肥大して脳内を覆い尽くしていく。

 オリジナルとまったく同じ複製なら、それはもはやオリジナルだ。その結論は変わらない。しかし、だからこそ、オリジナルと差異が生まれているならば、それは、

「苦手だけど。美咲と食べるなら──」

「違う!!」

 偽物だ。

「ちょっと、みさ──」

 がたん、と、糸を切られた人形のように、彼がその場に崩れ落ちた。その腕には小さな注射器が突き立てられ、僅かに残った紫色の液体がゆっくりと沈んでいく。

 アンチエリクサー。エリクサーの効力を打ち消す薬剤である。

 焚火に水を用意するのとまったく同じだ。何かをするのなら、意に反した結果が生まれてしまったとき、その対抗策を用意しておかねばならない。

 決して使うような事態になってほしくはなかった、が、仕方ない。

 だってこれは彼じゃない。失敗作なのだから。

 にわかに慌ただしくなる店員たちを残して、美咲は日常を去った。


「違う。彼はそんなことをしない」

 失敗。解剖しデータを収集後、速やかに処分。

「彼はそんなことを言わない」

 失敗。分析後処分。

「彼はそんなことを思わないッ」

 失敗、失敗、失敗、失敗、失敗、ああ、駄目だ。彼にはとても届かない。

 でも今度こそ。たった一回成功すればそれでいいのだ。どんな地獄を歩んだ後だとしても、愛する彼とならば笑い合って生きていける。

 エリクサーを投与する。反エリクサー処置。

 エリクサーを投与。反エリクサー処置。

 エリクサー、反エリクサー。

 エリクサーを、


「違う」

 冷たい声が、冷たい実験室に木霊した。

 リノリウムの床には失敗作たちの肉の塊が敷き詰められている。何度も何度も踏み固められたそれらはもはやひとつなぎのじゅうたんと化しており、美咲もそれを気に留めることもなくなっていた。

 処置用のコフィンに腰かけていた新たな試験体。これから反エリクサーを注入され、部屋の隅に放られる定めの彼は、処置を行おうとする美咲の手を荒々しく払いのけた。

「違うんだ」

「……彼はそんなことを──」

「美咲はこんなことをしない。こんなこと……美咲は、俺が愛したひとは、絶対にしないんだよ。君はいったい誰なんだ? 頼むから、俺の愛するひとを返してくれ。それが叶わないというなら、せめて、その顔で喋るのをやめろ。俺の愛をもうこれ以上汚さないでくれ」

 最後の言葉は聞き届けられない。だってそうだろう、愛する彼の言葉ならまだしも、目の前にいるのは彼の出来損ないとなった肉の集合だ。聞き届ける意味が無い。すべては愛を取り戻すため、美咲はアンプルを手に取った。

「……そうか」

 短いその一言には、本当に様々な感情が込められていた。

 かつて色男に向けられたものと、かつて狂気の天才に向けられたものとは違う。

 本当に。

 彼女が男に向けるものとも違う。


 停止薬が投与されるその刹那、一瞬の虚を突いて、試験体が注射器を奪い取り、逆に美咲の手首に挿し入れた。

「あ──う──」

 速やかに反エリクサーが血流に乗ってその総身を巡り、あらゆる細胞を破壊せしめる。薄れゆく意識の中、記憶の中の彼が穏やかに語りかけた。


「おやすみ」


 たとえ死せる者が何度甦ろうと、死せる愛の復活はない。

 ならば死んでいたのは、きっと、

 そして死はゆっくりと眠りについた。今度こそ永遠に。

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