退廃と乾杯

 ニュースのご意見番が路上飲みに物申すようになってから幾分経つが、オレの場合、それは店が夜閉まるようになるよりずっと前、五年前酒を飲めるようになってからやっている、つまりは、日常だった。

 枝豆でも砂肝でもスナック菓子でも、良かったこと悪かったことでもなく、人の行き交う雑踏を肴に飲むのが、好きだった。

 時折向けられる奇特の目と、その他大多数の僕が見えているのかもわからない無機質な雑音。それに心を向けていると、自分が社会の外側に逃げ出せた気分になる。あるいは、透明人間になれた気分になるといえばいいか。

 最近でも酒を飲むときはそうしたのだが、そこで待っていたのは『こちら側』でやんややんやと騒ぐ喧騒と、社会の象徴ともいえる警官たちの注意だった。

 迎合している。補足されている。全然、透明になんかなれやしない。

 だから新しい酒盛りの場所、逃げ場所が必要になって、オレは、それでも、二時間は歩いた、でも見つからなくて。すっかりぬるくなってしまった缶ビールをレジ袋の中に揺らしながら、自分のマンションにとぼとぼと足を向ける。

 オレは、ああ、いや、ええと。何だ?

 ふと気がつくと道端にあったごみ捨て場のネットの上に人が倒れている。女だ。やや遠い街灯の明かりに照らされて、Tシャツから伸びる茶褐色の四肢があでやかに生きていた。

 滑らかなその黒髪も、揺らぐ唇も、整った目元も、何もかも、こんなところに棄てられている不要品とはとても思えない。

「あー……警察──じゃなくて、救急?」

 自分に確かめさせるように呟いて、そして拒否した。それでも最後の良心がオレの腕を伸ばさせて、女の肩を軽く叩いた。

 すると、目蓋を二度三度と上下させながら、女は聞き覚えのない言語で何事かを呟いた。それから目前の男、すなわちオレを認めてぱっちりと目を見開き、それから猫のように伸びをする。

 そしてまた口元が動き、謎の言語が蠢く。何かを言われているようだが、一切が不明だ。ただ、表情からは好意的な態度が読み取れる。

「……日本語、わかる?」

 わかるのかわからないのかもわからない。

「English?」

 首を振られた。はじめて明確に意味のあるコミュニケーションがこれである。ため息をつく。

 本気でいかに対応したものか惑っていると、女はオレが手に持つレジ袋を指差して何か言っている。

「酒しかない。しかもぬるい」

 缶ビールが三本。女はそれを見るとぱあっと顔を輝かせて、しきりに自分と缶ビールの一本を指差してみせた。

「欲しいのか? まあ、いいけど……」

 一応プルタブを起こしてから渡してやると、女はぐいっと勢いよく缶を傾け、口元を濡らしながら泡沫の夢を喉で味わう。幾筋かの線が顎から首へと伝っていく。

 こんなに旨そうに酒を飲む人間を見たのは、いつぶりだろう。いいや、考えてみれば、これが初めてなのかもしれない。

 女の隣、カラス避けのネットに背を預け、オレももう一本の缶を開けてみる。ぬるくなったビールはやはり旨いとはとても言い難く、かなり呑みづらいものだった。

 すっかり缶を軽くしているらしい女をもう一度横目に見て、またため息をついて、最後の一本を女の手に握らせた。

 女はやや不慣れそうにプルタブを引き上げ、再び神の恵みを豪快に嚥下していく。

 ようやくオレが自分の缶を干したとき、女は空になった缶ふたつを地面に並べて、満足そうに微笑んでいた。

 そして、女が口を開く。

 相変わらず何を言っているのかはわからない。しかし不思議とオレは笑顔を返し、みっつの缶をまとめてレジ袋に叩き込んだ。口に残る残り香は甘く芳しい。

 ガラン、と缶を鳴らしながら立ち上がる。振り返ると、少しだけ目を赤くした女が、座ったままでオレに手を伸ばしている。何を求められているのかわからないでいると、女は宛てなくさまようオレの手を奪い、それを支えに腰を上げた。

「  」

 そして弾けんばかりの笑顔で何かを宣い、そのまま、あっという間に、明かりの届かぬ夜の闇へと融けていった。

 消えていった後ろ姿は酒の入った頭がすぐに忘れてしまい、ただ、家路へと踵を返した身体の横で揺れる空き缶だけが、その時間の証明だった。

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