プライス・デス

 病室には春のうららかな陽気がカーテンを巻き込んでむやみやたらに吹き込んでいた。彼女はそうしてばたばたはためくカーテンを時折うっとうしそうに睨みながら、ベッドで文庫本を開いている。『余命一ヶ月の彼女』というタイトルの本を余命一ヶ月の彼女が読んでいるのは、まるでオリオンがオリオン座を探しているみたいで面白かった。

「それ、面白い?」

「あんまり」

 表情にはありありと退屈さが浮かんでいるけれど、彼女はどんな本でも一度通して読む宗教の教主なので、ページをめくる手を止めることはなかった。ついでに舌も止まらなかった。 

「余命宣告を受けました、から始まる物語って、ある程度決まってるんですよ。死ぬ前に何かひとつとんでもない思い出を作って、笑顔で逝くんです。そこで終わり。僕は彼女との思い出を抱いて、今日を生きていく。めでたしめでたし。おいおいそれでいいのかよって感じですよね。乗り越えるなら乗り越える。違うなら違う。どっちつかずのまま終わる終わりだなんて、物語である意味がありますか?」

 彼女はいつもひとりぼっちなので、僕のような話し相手が来ると文字通り堰を切ったみたいに話をした。幸薄い美少女が僕でカタルシスを得ていると考えると少し興奮するかもしれない。どうでもいいけど。

 そこでちょうど彼女はぱたんと本を閉じた。

「ほらやっぱり、予想通りの結末です」


 僕は端に寄せられていた丸椅子を持ってきて彼女の枕元に座って、思いついたことをそのまま口に出してみた。

「毎度思うけど、君の宗教は難儀だよね」

「どれだけ見えている終わりだとしても、実際に終わるまではわかりませんから」

「それは、人生観?」

「ええまあ。……余命宣告……本当の余命宣告は、なんだか自分は他人ひとよりずいぶん早く死ぬらしいということがわかるだけで、実際一か月後に死ぬのか、一年後死ぬのか、明日死ぬのか。いつ本当に余命が来るのかはほとんどわからないんです」


 まあ余命きっかりで死ぬフィクションに難癖をつけたいわけじゃないですけど、と言いながら、彼女はベッドの隣に置かれた金網のラックに本を置いた。


「だから……物語がいつどうやって終わるのか、なんて、結局わからないし、それでいいんですよ。あなたは自分がいつ死ぬかわかりますか?」

「わからないね。明日交通事故するかもしれないし、三十年後に交通事故するかもしれない」

「交通事故に対する情熱がすごいですね。でも、つまりそういうことですよ。終わるまで誰にも終わりなんてわからないんです。どれだけ見えている終わりだとしても、ね」

「……君だったら、余命宣告劇はどんな話になるのがいいと思う?」

「……そうですねぇ。まず、そもそも、人が死んで終わる物語って嫌いなんですよね。死に意味なんてあるわけないじゃないですか。ただ力尽きただけですよ。あるのは死んだという結果で、それを受けた人間のところではじめて意味が生まれるんです。だって、見ず知らずの猫が死んだのにはそれほど心は痛まなくても、自分のペットなら違うでしょう? 死の価値は生者が定義するものなんですよ。死ぬ人間に向かって死ぬことに意味を持たせようとするなんて、なんと残酷で無意味な定義でしょう。言い換えるなら、死は生きる者のためにあるんです。だから死は終点じゃなく起点なんですよ。死んだ人間はそこで終わりですよ、でも生ける人の人生はそこから続くんですから。いつかふと終わりが訪れるその日まで」


 死に価値があるのなら、それは閉ざされた棺の前に流された涙の数だ。彼女と最後に見た映画にそんなセリフが流れていた。


「その上で、私的に最高のエンディングはですね、まあ思い出でもなんでも作ったあと、最高だったって泣きながらヒロインが死んで、五年後でも何年後でもいいんですけど、引っ越しの準備をしているときにふと彼女と撮った写真を見つけるんです。ああこんなこともあった。あの子は天国で幸せだろうか。……僕は、幸せに生きてるよ。それで結婚したばかりの奥さんと車に乗り込んで青空をバックに走り去っていくんです。それが本当に死を乗り越えて生きていく人間で、死に別れる主人公とヒロイン双方にとっての、最高のハッピーエンドだと思うんですよね」

「ふうん」

「ちょっと。聞いといてなんですかその生返事」


 僕はスマホの写真を整理しながら、そんな春の一日があったのを思い出していた。

 いまはその春から夏と秋が過ぎて、冬の真ん中、もうすぐ年の末が来るころだ。

 こうして夜になるとコートを着ていてもなお寒々しい。河川橋の真ん中につっ立っているので、なおさら上流から吹いてくる風が冷たかった。

 夏ごろから発作と危篤と復活を三サイクル繰り返した彼女は、十二月二十四日の未明、静かに息を引き取った。最高だった、たった一言の爽やかな遺言を残して。

 彼女の棺の前に泣いたのは、人数で言えば五人。ご両親とお祖母さん、そして看護師のひとりと、僕だ。涙の数は数えていない。彼女の死にはいったいどれだけの価値があったのだろう?

 笑いあった日の残影をホーム画面に設定して、僕はスマホをポケットに放った。

「……物語みたいに、うまくは終わらないんだよ」

 どうやったら、あんなに綺麗に終われるんだ。

 二本の足で歩くのに、思い出は少し重すぎる。

 緑と赤の包装が為された小さな立方体を、少し迷ってから、橋の下に広がる川に投げ捨てた。夜の水音はあっという間に過去を覆い隠して見えなくした。

 僕はゆっくりと橋を渡り、その先の交差点で赤信号を渡った。

 タイヤとアスファルトが上げるけたたましい悲鳴と、激しい逆光で黒く染まった運転席の人影をよく覚えている。


 そして、僕は白い、白い世界で目を覚ました。

 ……なんてことはない、ただの病室だ。身体を起こそうとすると点滴が外れてちくりとした痛みと心電図のビープ音が鳴り響く。

 そこで僕はベッドの隣、丸椅子に腰かけたまま舟をこいでいる女の子を見つけた。見覚えのある顔だ。確か彼女は……そう、サークルの後輩だった。この一年ほとんど顔を出していなかったせいで思い出すのに時間がかかった。

 さすがに騒がしかったのか、名前もおぼろげな後輩はゆっくりと目蓋を上げて、僕を瞳の中に捉えたとたん、がばっと勢いよく起き上がる。


「──」


 ああ。

 この世界はきっと生者のためにできている。数えきれない涙を目にして、それを本当の意味で思い出した。人の死は数あるイベントのひとつでしかない世界。あまりにも残酷で、非情で、その漆黒の上に輝く星々がサソリに追われたオリオンを描く、そんな世界に、人間は生きている。生きている人間は生きている。

 どうやったら君を綺麗な星座にしてしまえるのだろう。それを眺めて綺麗だねって笑えるのだろう。終わるまでは終わらない。けれど黎明は東からやってきて、見上げた星空を独りぼっちにする。

 そういう物語が見たかったんです、と、幸せな批評家の嗚咽が遠くに聞こえた。

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