夏の海にアイス
古坐ユースホステルは、海を一望できる小さな山の中腹にある。
五分ほどまっすぐ海に向かい歩けば、観光客と地元の漁業者がごった返し、賑やかな漁港が広がっている。夜もイカ釣り船などの灯りが燦爛と輝き、街が眠る事はない。
裏手の山を登ると最低限の整備がされているだけの小さな神社が置かれている。不思議なことに、ここには動物が一切近づかない。
一部では穴場のパワースポットとして有名らしいが、それでも一日に片手で数えられる人数がくればいいほうだろう。
一人で行けば、自分だけが世界に取り残されたように感じる。生い茂った針葉樹のおかげなのか、風すら侵入してこない静謐の空間だ。
観光客はわざわざ山や神社を見に出向いて来ることはなく、神社からは少し離れているため、耳をすませば虫の声が聞こえる程度には生命がいる。その不思議なグラデーションの真ん中に「古坐ユースホステル」はある。
寄せては返す細波に、太陽が反射して煌いている。穏やかな晴れの日。
この夏で気温が一番高いうえに湿度が百パーセント近くなければ最高だったのだが。
自室のベランダに置いた安楽椅子でぼーっとしていたが、座っているだけでも外だと汗がにじんでくる。
先ほど部屋にある冷凍庫から取り出したストロベリー味のアイスを食べて、身体の中から冷やしているが、これでもまだ暑い。
景色を眺めるのはもうやめて、そろそろ部屋に戻ろうかと思っていたその時に、ズボンのポケットに入れてある電子端末から声がした。
「大和、少しはホステルを手伝うべきでは?」
アバドンだ。
「どうして?」
「どうしてと言われましても…… 仕事をサボって海を眺めている男がいたら、当然叱咤しますよ」
悪魔に似つかわしくないほどの常識的な反応だ。
「これはサボっているんじゃないアバドン。右手が大して使えないから、休養しているんだ。分かるか? 休養だ。ネットでも使ってよく意味を調べておけ」
この前の戦いで折れた右腕が、まだ完治していない。アバドンとの契約で、俺の運動能力は半分ほど人間をやめたが、それでも暑ければ汗はかくし、瞬時にダメージが修復できるほど化け物じみてもいないのだ。
アバドンの今持っている力の範囲では、融合中の応急治療程度で、受けたダメージがその瞬間から回復していく便利な機能はない。
事件が起こるようなら、今すぐにだって戦うつもりだが、何も現れないならゆっくりと治療に努める。これが戦いに身を投じるうえで大切なことだと思う。
俺はワンマンアーミーではないし、誰かから狙われる立場でもないのだから、気を抜けるときはできるかぎりだらっとしているのに限る。
「本当に…… ポンコツここに極まるといった感じだ……」
アバドンは、大仰に呆れてみせる。まあこいつは大仰がデフォルトみたいなものだ、気にするだけ無駄だろう。
巨人になった時のアバドンは、あの尊大な口調がちょっとした安心感を発生させる。だが、俺の電子端末に入っている時は、ただ口うるさいだけである。
アバドン。キリスト教に伝わる悪魔。
悪魔が自分の持っている電子端末の中から、こちらに向けて喋りかけてくる。
よくよく考えてみれば不思議なものだろうし、神究学者がこの光景を見たのならどのくらい金を積んで、「こちらに引き渡してくれ」と言われるのだろうか。戦闘能力だけ置いていってくれるなら喜んで差し出すのだが。
神の出現以降、従来の「神学」や「神智学」という単語が持つ意味は変化していった。後者を提唱したブラヴァツキー婦人からしたら、たまったものではないのだろうが。神智学は、「神の叡智」という意味でオカルト的な意味で用いられていた。だが、「シークレット・ドクトリン」というブラヴァツキー婦人の著書から現れた神との共通性が見いだされて以降、この語句には神の研究を行うという科学寄りの意味が付与され、アカデミックな学問へと変化してしまった。
一神教の神学では、現代に降臨する神については偽創造主(デミウルゴス)の作り出した愚劣なる存在である、という見解がガチガチの教徒では主流であるようだが、一部の学者は神智学の記述と現れた神についての探求をおこなう為に、アカデミック的な意味での神智学へと合流していった。
これにより、神智学(Theosophia)は神学(Theology)に流れを注ぎ、最近では神究学(Theosophiolgy)なんていう造語が世間では神について研究する学問の名称として使われている。
神の叡智を知り探求する学問で神究学だ。
ちなみに今国連に協力している学者は「神究学」をやっている連中になるので、売ろうと思えばつてがないことはない。
無意味で無価値な皮算用を頭のなかでころがしながら、安楽椅子から立ち上がって部屋の中へと戻る。
ベランダへと通じる窓を部屋の内側から鍵をかけて、冷蔵庫からストロベリーアイスを取り出す。
口の中でじわじわと溶かすように貧乏くさい食べ方をしながら、休憩するのは最高だな。後に仕事があるが、そんなものは知らない。
「まあアバドン、時にはちゃんと休むことだって大事だぞ。常に気を張る環境にいると、人間っていうのはどこか壊れていく」
こいつに何か言っても無駄だろうとは思う。アバドンに心があれば、俺のありがたい休息についての考えも届くのだろうが、悪魔にそんなものがあるのかは知らない。
九割方、自分への確認の意味で呟いた。
すると俺の後ろ側にあるドアから、「なるほどねぇ。休むこと、とーっても大切ね。よくわかるわ」と女の冷たい声と、背中が焼かれるような感覚がする。
不味いぞ……。
「なんの事だエリン。俺は休憩中だ。見てわかるだろう?」
ホテルの制服に身を包んだ女のほうに振り向き、右手のスプーンで、左手に持ったストロベリーアイスを指し示しながら答える。
エリンはポニーテールでまとめた赤みがかった長髪を、さらに赤く発光させながら、笑顔で仁王立ちをしている。
地獄にいるという鬼はきっとこいつのような奴らだと俺は思う。
まったくもって原理が分からないが、赤髪はまるで炎のようにゆらゆらと上向きに揺れている。怒髪天を衝く、という言葉はこの女のために存在しているのだろう。
そして、どうしてこう切れ長の目をした人間の笑顔というのは怖いのだろうか。
いや、この女が怖いだけか。この世にいる切れ長の目をした人達に失礼だな。
左目の下にある黒子は、表情筋がピクピクとするたびにせわしなく位置を変えている。ドアの木が若干焦げ付いているのか、炭化した木材の臭いがこちらまで漂ってきた。
「休憩するのはいいの。ただ、今日の業務が始まってからずーっと休憩しているクズがいるらしいの。誰か知っている? 今から一緒に焼きに行こうか」
ヤーヤーヤーとはとてもじゃないが言える雰囲気ではない。
「……分かった、アイスを食べ次第働く。いつも通り厨房だな?」
「ありがとう大和。ええ、いつも通り。夜に必要な食材は私が揃えたから、さっさと作ってくれると嬉しいわ」
それだけ言うとエリンは長い脚を、いつもより大きな歩幅で、パンプスの音を響かせながら、部屋から出て行った。
「あの女…… こっちは一般人なのに、能力行使で脅してくるからこっちがしんどいな……」
俺は安楽椅子に座り直し、こめかみをマッサージする。
「私が言うより、五百倍は効果ありますね。呼んで正解だ」
「せっかく人が休んでいるところに、赤鬼を召喚したのはお前か。この悪魔」
「ですから、私に悪魔と言うのは褒め言葉ですよ」
笑うアバドン。やはりこいつは俺と、そして人間と相容れない存在だと改めて思いながら、海を眺める。
「まあいい、アイスを一時間、いや二時間はかけて食べてから行こう」
「……またエリン様に怒られますよ」
「俺はアイスを食べ終わり次第働くといった。今すぐ、五分後には働き始めますとは言っていない」
「うわ、最低ですねあなた」
アバドンは感情をこめずに言う。ネットで演技指導のサイトでも閲覧してくることをオススメしたい。
「人間ちゃんと休まなきゃだめなんだ。わかるか悪魔」
そう言い、アイスを掬おうとスプーンを伸ばすが、手ごたえがない。「おかしいな?」と思いながらアイスを見ると、既に全部溶けて、液体へと変わっていた。
「あの女……。出ていく前に俺のアイスを溶かしていきやがった……」
「器用なものですねー」とアバドンは笑っている。こいつ……。気が付いてい
たな……。
仕方がないので、俺はアイスというかストロベリー味の液体を飲み干す。
「……これはこれでアリだな。今度はレンジあたりで溶かして飲むか」
「神との戦いの前に、糖尿病で死にますよ」
アバドンは、これ以上の会話が無駄と思ったのか、端末からネットにアクセスして消えてしまった。
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