飛んで火にいる夏の蝗
片平乃辻
第1話:曇天の空に鉄塊
右腕が腐臭と肉塊を穿ち吹き飛ばし、曇天の荒野に重苦しい音が響き渡った。
肉塊は曇った空を舞った後、ぬかるんだ泥へと仰向けの状態で叩きつけられた。
豪雨による湿気と真夏の四十度近い気温が混ざり、重く皮膚にまとわりついて不快感を与えてくる。
しかし、目の前の光景ほどに俺の気分を害するものは他になかった。
内紛の戦場だったこの場所には、古ぼけたカラシニコフや傷だらけの戦車が無造作に転がっているが、虐殺の痕跡を示す屍体は一つも見あたらない。
正確に言うのならば、人間だったタンパク質やカルシウムの塊は、新しい生命の依代になった為に屍体とは呼べなくなった。
全長十五メートル、足から頭まで腐りかけの筋繊維で覆われた巨人へと変貌している。
俺の初めて見た印象を言葉にするなら、歌川広重の人が折り重なって大きな顔を作る絵、それをむき出しの筋肉とそこから流れる血液でよりグロテスクにしたもの。といえばいいのだろうか。屍体の間はグチョグチョに溶け合い境界は曖昧になっている。
対峙するのは黒いボディと真紅の目を持つ無機物の巨人。
背中には四枚の細長い羽根と一対のコウモリの羽根があり、頭には二本の角。
俺はその巨人の中で、折れた右手を強引に接いでいる。
さっきの右ストレートはどうも撃ち方が悪かったらしい。中手骨がボッキリといってしまった。自分で殴るだけならこんなことはないのだが、身体能力が人間をやめかけているのと、融合の進行により出力のコントロールが難しいのでどうにも加減が分からない。
周囲の組織炎症による疼痛と熱感が強くなってくるのを感じる中、鉄の巨人が喋った。
「大和よ。あの神はまだ死んでいませんよ」
よく通るバリトンボイス。
全て信じてしまいそうなほどの説得力に満ちた声色だ。こいつは詐欺師や政治家に向いているのだろうといつも思う。
「分かっているアバドン。もう少し殴って弱らせたら決めに行く」
アバドン。聖書ヨハネの黙示録で言及される深淵の王。悪魔と呼ばれる奴らの一人なので、生粋の詐欺師と呼んで差し支えはないだろう。
俺は拳を胸の前で構え、右足を半歩だけ引く。すると、アバドンも同じように右足を引いた。俺の身体はアバドンとシンクロした状態だ。
身体より何倍も大きな鎧と表現すべきだろうか。中にいる俺の動きをトレースして動くロボとも言える。
俺の脳にまで伸びた奴の神経により運動と一部の感覚は巨人とリンクするが、精神は切り離してある。戦う力を得るうえで、体を明け渡すのはまだ我慢できるが、脳の中を全て見せるなど死んでもごめんだ。
「おいアバドン、右腕の骨を繋げることはできるか?」
「今やっています。あなたは敵に集中してください」
そんな些事など気にしている暇はないとでも思っているようだ。神様っていう奴らは善悪を問わず、人間の事が分かってない。
特に悪魔は人の心や感情を手玉にとり誘惑するものじゃないのかと頭の中で小言を垂れそうになりなるが、倒れこんでいる前方の神の動きからは目を離さない。
腐肉の巨人は仰向けのまま、体表を激しく蠢かせている。パンクしたタイヤから漏れるようなプスプスという音が聞こえるが、あれは神自体とは関係ないものだろう。
構成素材による独立した活動。餌をむさぼり食らう蛆と、タンパク質をガスに変える細菌。自然の掃除屋だ。
それなりに戦場と呼ばれる土地を見てきたが、地球の消化活動ともいえるこの光景は何度体験しても慣れない。
頭を撃ち抜かれ、脳漿が手持ちの銃に飛び散りこびりついた少年兵。
ため込んだ脂肪と一緒にぬるっとした内臓が溢れ出している武器商人。
第二次性徴に入りふくらみかけた乳房が切り取られて、さらに目を抉られた小さな売春婦。
神はだいたい理不尽なものだが、死神という奴はいつの時代も、どんな場所でも平等だ。
老若男女、士官兵卒、娼婦男娼。どんな立場の人間であろうと、誰もが死ねば腐って消える。太古から存在している地球のプロトコルを見ている時に湧き出てくる喉を掻き毟りたくなるような苛立ちと嫌悪感。自分にも確実に死神が向かっているという事実を突きつけられているような虚無感。
それらが腐臭に溶けて身体へと入ってこようとするのを防ぐために、俺は嗅覚を意識的に遮断する。
「何を呆けているのですか」
アバドンの声が届くと同時に、腐肉の巨人は起き上がりこちらに向かい走り出した。残りの距離は百五十メートル。
俺は両手を二回軽く擦り合わせ、右手でスナップをする。
そして指を揃えて伸ばし貫手を作る。巨人アバドンも動きを追従する。
次の瞬間、右手は黒い渦を放ちながら、無数の飛蝗に変わり霧散した。肘から下は全て飛蝗に分解される。
感覚をある程度共有しているので、目を瞑り肘関節を屈曲させても、アバドンの右腕は消えているから何も感じられない。
しかし、俺の腕自体は存在している。目を開けば自分の網膜にいつもと変わることなく腕は投射されている。
あるのにない、俺にくっついている腕が自分のものでないような気がしてくる。俺と同じDNA情報から作られた精巧な義手めいた何かだ。感覚情報の矛盾に酔わないよう、自分の認識がおかしくなる前に腕から目を離す。
飛蝗は黒い渦と共にアバドンの周囲をぐるぐると飛び交っている。
「いつも通りでよろしいですか?」
ホテルのフロントマンが支払いの方法を聞くような業務的な口調で答えるアバドンに、俺は「ああ」とだけ言い巨人の右腕を見る。
周囲を飛んでいた飛蝗は、再び腕に収束していく。
だが、先ほどのような手の形には戻らない。
前腕の真ん中から先は、ランスの穂先のように長い円錐へ変わっていた。
「精神もこちらに譲渡していただけるのなら、あなたの意思にあわせて自由に形状も変えることができるのですが。契約更改いたしませんか?」
上品に笑いながら提案してくるアバドン。
「そんな契約を結ぶか、この悪魔」
俺はアバドンの馬鹿らしいセールスを一蹴すると、走ってくる敵を見据えた。
「残念です。あと私に対して悪魔と言うのは褒め言葉ですよ。だって私、悪魔ですから」
「じゃあ神って言えばそれは罵倒になるのか?」
「微妙なところですね、おっと、来ますよ。前をご覧になってくださいね」
アバドンは喋るのに飽きたのか、向かってくる敵にやっと集中する。
死の臭いが近づいてくる。体表に這っている蛆は、腐肉の巨人が走って発生した風圧で吹き飛ばされていく。あの敵にはもう生の気配は残っていない。向かってくるのは屍肉腐肉に内包された薄暗い世界と、俺たちに対する殺意だけだ。
俺たちは膝をぐっと屈め、脚に力をいれる。
そして距離が残り二十五メートルで、真上に跳躍した。
走りながら曇天をゆっくりと見上げる腐肉。だが、こちらを見たところであの巨体が前方に走る運動を停止することは不可能だ。
落下地点は奴の上半身になるだろう。
腐肉の巨人は、まるで何かに縋るかのように、両腕を空に伸ばし上から墜落してくる物体を防ごうとする。
俺たちは落下しながら、両腕を蹴り飛ばし、顔面へのガードを無効化。
そして顔と左肩に着地した。
上前方から急激にかかってきた力に押し負け、腐肉の巨人はまたもや仰向けに倒れこむ。
左足で腐肉の左腕を踏みつけながら、円錐状に変化した反対の腕を使い、右の掌と地面を縫い付けて動きを封じる。
右足で顔を踏みつけるように、何回も蹴りを食らわせる。プレス機のよう丹念に、真下へと蹴り続ける。
最初はもがいて腕への拘束と解こうとしていたが、顔面へのプレスが二十回を超えたあたりから抵抗が弱くなり、ちょうど五十回目の蹴りが入ったところで、完全に沈黙した。
「いつもいつも、私は思うのです。あなたの戦い方は本当に何と言いましょうか…… 遊びがなさすぎでは?」
本当につまらない、とでも言いたげなトーンでアバドンは話しかけてくる。
「害虫の駆除に、遊びを入れる意味はないだろう」
槍状の右腕を腐肉の肩から引き抜く。
「一応こいつは神なのですがね。それを害虫呼ばわりとは、罰が当たりますよ」
アバドンの言葉を聞きながら、引き抜いた右腕を、腐肉の頭部へ突き刺す。
「こんな腐った神様なんて拝める気も起きないな。そもそも殺している時点で、害虫呼ばわりよりよっぽど罰当たりだとは思うが」
神様なんて存在していても、人間の数を減らす敵にしかなりえない。実際俺はそう思っているし、今までの戦いではほとんどの神が害虫みたいな不利益な存在だった。
「はぁ…… 敵性反応、完全に消えました。また神殺し成功ですよ。おめでとうございます、罰当たり暴力人間様」
俺に対してイヤミを言いながらも、何処か楽しそうなアバドン。
「まあこれで、私はまた少し力を取り戻すので、この腐った神様の生死なんてどうでもいいのですがね。実を申しますと」
足元の腐った神様は、白い光を放出しながら崩れ、ただの肉塊へと戻っていく。アバドンは右腕を頭部に突き刺したまま、その眩い光を吸収していく。
アバドンの身体からは黒い霧が出ており、巨大なその身を包んでいる。よく見てみると、ときどき不規則に揺らめいている。
「力の質は悪くないのですが、どうにも味が…… 今までで最悪の味ですね……」
嘔吐反射を起こしているかのように、オエッとなっているが、強くなるのだから、多少味が悪かろうと、全て吸収してもらわないとこっちが困る。だいたい悪魔にも嘔吐反射があるのかは怪しいところだが。
「まあこれで多少は楽に戦えましょう……。そう思わないと悲しくなる味でしたね……」
数分後、全てのエネルギーを吸収しきったのか、グロッキーぎみのアバドンは弱弱しく言った。
「本当に強くなったんだろうな? 神のエネルギーで食中毒なんて、聞いたことないし笑えないぞ」
俺たちは腐肉の塊の上から飛び降り、何も転がっていない平地へと歩く。
「大丈夫です。今日は消耗があるので、あまり感じられませんが、次の戦闘ではきっと強さを体感できますよ。では、お疲れさまでした」
そう言うと、巨人は体全体から黒い渦を発生させる。そして人型が崩れて、徐々に別の形へと変わっていく。
俺は巨人の中に現れたイスに座り、この変形が終わるのを待つ。
五秒のち、巨人は垂直離陸型のF-31へと変貌する。
「では帰りましょう。この国、なかなかに自然が豊かで良いところでした。内紛、終わるといいですね」
思ってもないことを言うなと思うが口にはしない。俺も流石に疲れた。エンジンをかけ、離陸の準備をする。
高度を上げると、また黒い渦をまき散らしながら変形し、一番速度がでる○○になる。
操縦はアバドンが勝手に行う。
帰ったら待っているであろう書類作成に思いを馳せながら空を見上げると、重苦しく圧し掛かっていた雲が少し開けて、天使の梯子を作っているのが見えた。
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