第2話「婚約者・齋藤春香」①



第2話 「婚約者 齋藤春香」



【事情が変われば己も変わるような愛。相手が心を移せば己も心を移そうとする愛。そんな愛は愛ではない】

シェイクスピア(イギリス/劇作家・詩人)



 私は、生きる希望を失いました。

あんなに信じていた人だった。

人生で一番と言ってもいいくらいに。

私は、2日後に結婚をするはずだった。

なのに、私は結婚する相手に別れを告げられました。

愛していた人と一緒にいられないなんて。

もう死んでやる。


 外は、雨が降っていた。

そして私は、傘もささずにマンションの屋上にいた。

ここは、彼と生活を共にしたマンション。

私の果たせなかった思いをここに残す。怨念というものだろうか。

もうどうだってよく思えてきた。

愛していた人と生きていけないなんて、私は生きている価値がない。


東京の景色が良く見える。

と言っても生憎の雨。決して綺麗とは言えないものだった。


 私は屋上に立てられた柵を乗り越えた。

あと一歩、前に出れば地上まで真っ逆さま。

この高さなら、間違いなく死ぬ。

私は靴を脱ぎ、彼からもらった結婚指輪を外し、足元に置いた。

思い残すことなどない。

『さようなら、圭吾さん。さようなら、みんな』

私は、そうつぶやくと、一歩前へ踏み出した。

冷たい雨と共に、私はマンションの屋上から落ちた。

風がビュービューと音を立て、その中を切り裂くように落ちる。

ものすごい早さで、地面へと向かっているのがわかる。

私は目をつぶり、この世界に別れを告げた。


 『来世は、もっといい人に出会えるのかな…』

そんなことを頭の中で思い浮かべた。

私のことを裏切らない人。

私のそばに寄り添って、共に歩んでくれるパートナー。

私のことを幸せにしてくれる人…


『もう、私、死んじゃったのかな』

恐る恐る、目を開けてみた。

私は見知らぬ場所に横たわっていた。

目の前には、真っ白な空間が広がっていた。

『ここが、死後の世界?』

私は戸惑った。広大な空間に私一人だけがいる、この真っ白な空間に。

『多分、ここから天使が現れて、私を天国に連れて行ってくれるに違いない』

そんなことを想像していた。


 すると、後ろから「コツコツ」と音が聞こえた。

それは革靴のかかとが、地面に着く音だった。

『天使って、革靴を履いているんだ。もしかしてイケメン天使?』

その音は、どんどん近づいてきた。

そして、私のすぐ後ろで音が止まった。

私は『天使が迎えに来た』と喜びの気持ちで振り返った。

振り返ると、そこにはサングラスをかけ、黒服を着た3人の男が立っていた。

3人中2人は外国人だった。背は高く、見た目からはわからないが、脱いだら

鍛え上げられた筋肉がわかる。「脱いだらすごい」というような男性だった。

 そして、もう1人。

50代くらいの禿げたおじさんがいた。

なんだかオドオドしており、正直言って気持ち悪い。

できれば話しかけてほしくない。それ以外の言葉が見つからなかった。


 『私の想像していた天使とは違う』

正直な気持ちが、口から出てしまった。

 私が落胆しているなか、おじさんが銀色のアタッシュケースを出した。

そして、おじさんは私にアタッシュケースの中身が見えるように中身を開けた。

中には『黒色の腕時計』と『1枚の紙』が入っていた。

まず、私は1枚の紙を手に取った。

その紙には、こう書かれていた。

 『あなたは死にました。残された時間は、その腕時計に記された数字となります。この時間を有効活用してください。また、私たちセキュリティはあなたの行動に違反がないよう監視をします』


 私が死んだのは間違いないらしい。

気になったのは「記された時間を有効活用してほしい」という文。

私は、腕時計を手に取った。

そこには「30」と書かれていた。

『30時間…?』

私はわからないことを、黒服3人集に聞くことにした。

『あの、この30っていうのは、30時間で間違いないでしょうか?』

黒服3人集は「そうだ」と言いたげに、3人同時に頷いた。

そして腕時計をつけるよう、黒服の男たちは指示をした。

私は、その指示の通り、とりあえず腕時計をつけることにした。


 私は考えた。

30時間という長い時間を、どのように過ごすか。

『私がやり残したこと…』

考え込んでいる私に、黒服3人集は私に「早くここから出よう!」と

ジェスチャーをして急かした。

私は、その行動にイラっとしてしまった。

『私の気持ちも知らないくせに、勝手なことしないでください!』

しょぼんとなる黒服3人集。


 少しして、もう1度、私をこの空間から出るようにジェスチャーをした。

『わかりました。出ますよ。ここから出ればいいんでしょ』

私は、ふてくされながら言った。

『じゃあ、どこへ向かえばいいんですか?』

私は黒服3人集に聞いた。

黒服を着たおじさんが、ある場所を指差した。

真っ白な空間に、ドアがあった。

ドアの上には非常口のマークの、緑の電光掲示板が付いていた。


 私は、そのドアがある方へ歩いた。

そして、私はそのドアに手をかけた。

『ここを出たら、すぐにまた死んでやる…』

そう心の中でつぶやいた。

私はドアを開けた。この希望も何もない世界に、もう1度戻ったのだった。


 時刻は17時。腕時計は動き始めていた。

残す時間は29時間59分。

明日の24時に、私は死ぬこととなる。

ドアの向こうは、私が落ちた場所につながっていた。

地面には私が落ちた時の格好で、白線が引かれていた。

相変わらずの雨。

私のどんよりとした気持ちを表すかのように、天気も暗かった。


 後ろを振り向くと、傘をさした黒服3人集がいた。

そして、外国人の1人が、私に黒の傘を渡し、傘をさすように促した。

私は傘を受け取り、傘をさした。

『あっ、私やり残したことありました』と、

黒服3人集に聞こえるように嘘をついた。

黒服3人集に怪しまれないよう、この後どうするのか考えるふりをしながら、

車道へと歩き出した。


 そのまま、車に轢かれて死ぬ。

運転手には悪いけど、私は早く死にたいのだ。

後ろの黒服3人集は、すっかり安心している様子だった。

油断したところを狙って、車道に飛び出す。そう決意した。

車道までもう少し。

『ここまで来れば…』

もう1度後ろを振り向き、黒服3人集の様子を伺った。

『大丈夫だ。これならいける』


私は隙を見て、車道へと一直線に向かって走り出した。

それに気づいた黒服3人集も、後ろから追いかけてきた。

私は必死になって走った。

『もう少しで死ねる』

私は車道に飛び出した。

右を向くと、こちらへ一台の車が向かってくる。

車のフラッシュライトが眩しい。私は目をつぶった。

『今度こそ死ねる』


 その時だった。

私は腕を引っ張られ、歩道へ戻された。

車はクラクションを鳴らし、その場を去っていった。

私が振り返ると、黒服3人集がいた。

サングラスをかけていて、表情は分かりづらかったが、

怒っていることはなんとなく読み取れた。

私は、声を荒げて言った。


『どうして、私を死なせてくれないの!』


 私の悲痛な叫びは、黒服3人集には届かなかった。

そして、私はその場に座り込み泣いた。

今の自分に、生きてる価値が見出せなかった。絶望だった。

しばらくして、私はうつむきながら立ち上がった。

私は、あてもなく歩き始めた。

黒服3人たちは私に傘をさすよう何度も傘を手渡してきたが、私は無視した。


 私は、最寄りの駅まで来ていた。

時刻は17時半。

駅からは、仕事帰りの大人たちがぞろぞろと降りてきていた。

私は、駅の近くの公園へと向かった。

その公園にあるベンチに腰かけた。

私は、うつむいたまま座り込んだ。

雨脚は速くなる一方だった。

今の私の気持ちは誰にもわからない。

『でも…』

『でも、こんな時、私のことを心配してくれる誰かがいたら…』

私の弱った心を、誰かに癒してほしかった。

私が思う「本当に好きな人」に。



 雨が止んだ。

いや、正確には、自分のところだけ雨が止んだ。

誰かが傘をさして、私のことを濡れないようにしたのだ。

私は、それが黒服3人集のことだと思い、話しかけた。

『だから、もう私には関わらないでください』

私は差し出された傘を払いのけようと、顔を上げた。

すると、そこには見覚えのある男性が立っていた。


「齋藤か?どうしたこんなところで」

心配そうな声で、私に話しかける。

『坂本君…?』

私は、そう聞き返した。

「こんな大雨なのに、傘もささないで。大丈夫か?」

私は、目の前にいる坂本が、唯一の救いだと思った。


同級生の坂本省吾さかもとしょうご

私の初恋の相手だった。



 『どうして、こんなところに?』

私は坂本に聞いた。

「いや、ここ俺の家からの最寄り駅でさ。いつもこの公園を通って通勤してるんだけど。そしたら、たまたま齋藤が座っていて。合ってるか自信なかったけど、齋藤で良かったよ」

私は、嬉しさのあまり泣いてしまった。

「おい、どうしたんだよ」と驚く坂本に、私は抱きついた。

わんわんと泣く私。坂本は、戸惑ったままだった。


「とりあえず家に行こう」

「齋藤、家この近くなのか?そこまで送ってあげるけど」

今まで私が住んでいたのは、別れた彼の家。

もうそんなところに行きたくもなかった。

『坂本君の家に行きたい』

私は、無理も承知で頼んだ。

「いいけど、いいのか自分の家に帰らなくて。心配とかするんじゃ…」

『いいの!今は坂本君の家に行きたいの』

「わかった。じゃあ、ついてきて」

私の強い願いに、坂本は応えてくれた。

『ありがとう』

私は心の底から感謝した。



 私の状況について、いろいろ聞きたい坂本だったが、

黙って家まで案内をしてくれた。


 10分後

「着いた」

坂本がそう言うと、一棟のマンションに着いた。

傘を折りたたみ、マンションの入り口に入った。

少し歩いて、エレベーターのボタンを押す坂本。

私たちはエレベーターを来るのを待った。

エレベーターが到着。坂本は5階のボタンを押した。


「ピンポン」と音でアナウンスで。5階に着いたことがわかった。

エレベーターを降り、坂本の自宅へと向かった。

「ここだ」と言うと、坂本は鞄から鍵を取り出し、ドアを開けた。



 『お邪魔します』

私は坂本の家に入った。

「ちょっと待った!そこでストップ」

「齋藤、ビショビショだから、タオル取ってくるわ」

そう言うと、坂本はリビングへ向かい、バスタオルを取ってきてくれた。

『ありがとう』

私はバスタオルを受け取り、髪や体を拭いた。

「先、お風呂入っちゃって。寒いだろ。お風呂場は入って右手にドアがあるから。そこがお風呂場」

『うん、ありがとう。でも私、着替えとかないけど…』

「服は最悪、俺の部屋着でもいいか?下着は、うーん…まあ適当に買ってくる」

『買いに行ってくれるのは嬉しいけど、坂本君、大丈夫…?』

「買いに行くの恥ずかしいけど、まぁ一瞬、我慢すれば平気平気!」

どこまでも優しい坂本に、私は申し訳なくなった。

『ごめんね』

私は、お風呂場へと向かった。

「服は洗濯機に入れといて。あとで洗濯するからー」

私は言われたまま、服を洗濯機へと入れ、シャワーを浴びた。


 15分後。

私がお風呂から上がると洗濯機の上にタオルと坂本の部屋着。

そして、下着が何着か置かれていた。

私はタオルで体を拭き、置かれていた服を着た。


 お風呂場へ出て、私はリビングへ向かった。

「ごめん齋藤。下着どれがいいかわからなくて、何着か買ってきちゃった」

『ううん、ありがとう』

「とりあえず、ご飯作るけど。何か嫌いな食べ物とかある?」

『ないから大丈夫。そうだ、私がご飯作ってあげよっか?お世話になりっぱなしだと申し訳ないし』

私は、少しでもお礼がしたかった。

「じゃあ、お言葉に甘えて」と答える坂本。

私は台所の前に立ち、晩ご飯を作り始めた。


 料理は何品か完成した。

簡単なものではあったが、肉じゃが、野菜の炒め物に味噌汁。

『ご飯、出来たよ』

「おお、美味しそう!やっぱ料理ができる女の子はいいね」

坂本は嬉しそうに言った。

私は、炊飯器から炊いておいたご飯を茶碗に盛り、テーブルに置いた。

料理を並べ、一通り準備ができた。

『じゃあ、いただきます』

「いただきまーす!」


「齋藤、料理上手いな。美味しいよ!」

『ほんとに?良かった』と私は笑顔で答えた。

「あっ、ようやく笑顔になった」

坂本は、私の顔を見てそう言った。


 ご飯を食べ進める2人。

私は、坂本に本当のことを話さなければならないような気がした。

隠し事は良くない。

私は意を決して、口を開けた。


『あのね』

「あのさ」


 坂本とタイミングが被った。

『ごめん、何か話しでもある?』

私は坂本に質問した。

「いや、たいしたことじゃないんだけど…」と言葉を濁す坂本。

「齋藤こそなんだよ。話したいことでもあるんじゃないのか」

『私は、その…』

いざ本当のことを話そうと思うと、躊躇してしまった。


「齋藤、一ついいか」

「なんでさっき、公園のベンチで傘もささずにいたんだ?」

坂本の質問に、私は言い逃れできないと思った。

坂本なら話してもいい。今、信用できる唯一の人だ。

『ちゃんと聞いてくれる?』

私は質問した。

「もちろん」

坂本の眼差しは真剣だった。


『実は私ね…』

私は覚悟を決め、ゆっくりと話し始めた。

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