母の怪談
有本博親
《4階》
母は言った。
「学校にはおばけがいる」と。
スマホだのネットだのなんだといいながら、意外にも今時の高校生たちは怪異の存在を信じているそうだ。
高校で英語を教えて二〇年。その二〇年の間、教育委員会からの命令で府内の公立高校に三回ほど転勤したことがある。
その中でも、直接怪異に出会った人物に母が会ったのは、五年前だったという。
Y市の公立高校に勤める教頭先生。
母から見た印象だと、必要以上のことはあまり喋りたがらない、少し気難しい性格の男の人だと感じたらしい。同僚の教師曰く、酒を飲むと面白い人になるそうだが、生憎、大勢での飲み会には極力参加しないので、真意について確かめることはできなかったそうだ。
母と教頭が仕事以外の会話をしたのは、夏休みが終わった直後の夜の職員室でのことだった。
その日、母は小テストのプリントを作るため遅くまで残業をしていた。
戸締りをする教頭が、母に一言った。
「呼ばれても、四階には行かないでくださいね」
どういう意味かと母が訊ねたところ、教頭は一ヶ月前の出来事を話してくれた。
一ヶ月前。
母と同じように教頭が雑務で職員室に遅くまで居残っていた。
生徒も教師もいなくなった夜の一〇時頃。
職員室の戸締りと防犯センサーを起動させて帰宅しようと教頭は机から立ち上がった。
内線が鳴ったそうだ。
誰もいないはずの校内から内線が鳴ることなんてあり得ない。
その場から逃げようかと一瞬過ぎったそうだが、教頭は我に返り、冷静になった。
ひょっとしたら、誰か先生がいて、職員室に内線をかけたのか。幽霊の存在を信じるよりそっちの方がずっと現実的だと思った教頭は、内線を手に取った。
「すみません。片付けをしたら遅くなりまして」
電話をしたのは美術科のJ先生だった。校内の先生だったのを知り、ほっと一安心したのと同時に、早く美術室の鍵を職員室に戻すように促した。
J先生は返事をし、電話が切れた。
それから一時間経った。
J先生が職員室に姿を現さなかった。
痺れを切らした教頭は、美術室の内線を鳴らしてみた。五分以上鳴らしても出ることはなく、J先生の個人携帯電話にもかけてみたが留守番電話サービスに繋がるばかりで、本人が出ることはなかったという。
仕方がないな。
教頭は懐中電灯を照らし、四階の美術室に向かった。
教頭が美術室に到着した時には、扉は南京錠が掛けられていたそうだ。
その時は、入れ違いになったかな。と思った程度で、とくに違和感は感じなかった。
職員室に戻ろうとしたその時。
人の気配を教頭は感じた。
ちょうど背後。
四階の奥にあるプールの更衣室に、なにかがいることに気づいたそうだ。
目を凝らしてみると、人のように見えた。
最初、J先生かと思った。
が、J先生の割にはかなり小柄で、どことなく雰囲気も違う。
教頭に近づくにつれて、それがだんだん白いもやのようなものだとわかるようになった。
ぺたぺたぺた。
白いもやが近づくにつれ、素足で床を歩く音が廊下に響いた。
気がつけば、教頭は職員室に駆け下りていたそうだ。
「無我夢中といいますか。その日はセキュリティも掛けずに車に駆けこんで一目散でした」
翌日。美術のJ先生が教頭に留守番メッセージについて何だったのか訊ねてきた。
教頭が訊き返すと、その晩、J先生は地元の友達らと朝まで飲み明かしていたそうだ。
四階に出たあの白いもや。
あれが何だったのか、未だにわからない。
ただ、わからない方が良かったのかもしれない。
知ってしまったら後戻りができなくなるかもしれない。
そんな気がししてならない。
そう教頭は母に話したそうだ。
その日、母が仕事を家に持ち帰っていたのを私は覚えている。
終
母の怪談 有本博親 @rosetta1287
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