屋上の車椅子
子どものときの話である。
私は生まれつき体が弱く、幼少期から入退院を繰り返していた。おかげで入院生活も慣れたものだ。
病院のことなので……特に今では稀有になってしまった小児病院のことなので、就寝時間はことのほか早い。午後9時には病室の明かりが消されてしまう。もっとも幼児の頃なので、別段不具合はない。よく遊びよく眠る入院児であった。
そんなある夜のことである。
珍しく目を覚ましてしまった。
寝る前にトイレに行ったはずなのだが、どうしても我慢できない。
私はナースコールを押して、看護師さん(当時は女性なら看護婦さんといった)を呼んだ。
その病院では幼児は、高い柵のある、一見すると檻のようなベッドに入ることとなっており、脱走等できないようになっている。したがって、ベッドから出てトイレに行くには、大人に柵を下ろしてもらわなければならない。
私はやってきた看護師さんに、トイレへ行きたい旨を伝え、檻状ベッドから出してもらった。
用を足したあと、さて病室に戻ろうとしたとき、窓の外の景色が目に飛び込んできた。
都会の病院とはいえ緑が多く、建物の周りを黒い木々が覆っている。まるで外界から隔離するように。
そうかといって真っ暗ではない。そこかしこに建てられた街灯が、病院全体を煌々と照らしている。
その光景は我々入院児を見張る、爛々とした監視の目のようにも見えた。とは言い過ぎだが、ともかく幼心に、病院の夜景というものは、あまり好ましいものではなかった。
だが、私はふと違和感を感じて足を止めた。違和感に対する正体はすぐに分かった。
視界に何か動くものが映ったからだ。
それは向かい側の別棟、低い病棟の屋上だった。大きなファンやら排気口やら、まるで工場のようにごたごたしている屋上。その端に作られた広いスペースに、それは動いていた。
ジグザグ、ではない。往復、でもない。不規則な動きをしていた。
恐る恐る正体を見極める。院内の街灯がそこまで届いたのか、はたまた夜勤の光が届いたのか、うっすらと見えたそれは、車椅子であった。
屋上で車椅子が走っている。
それ自体はありえないことではないことは、幼いながらも分かっていた。屋上に続く階段はあるし、自分も一度だけ連れて行ってもらったことがある。何の用だったかは忘れたが。
だが、階段? 車椅子が昇れるだろうか? いや、そんなことより、こんな真夜中に何をしているんだ?
私の頭には、立て続けに疑問符が浮かんできた。時間は深夜0時を回っている。さすがに大の大人でも眠っている時間だ。そうでなくても外出許可なんて、特に屋上への許可なんておりるわけがない。
私の体に、徐々に悪寒が走りはじめた。しかし幼い子どもの好奇心は何よりも強い。窓に近づき、さらに目をこらした。
車椅子ということは分かるのだが、誰が乗っているのかわからない。
いや、乗っているのだろうか?
分からない。深更の闇がそれを覆い隠している。
押している人はいないようだが、では、そんな機敏な動きができるのだろうか。高速とまではいかないが、普通よりやや早い速度で、車椅子は動いていた。しかも時々直角に曲がったり、180度ターンをしたり、自在な動きを見せる。
ここへ来て、私を取り巻く悪寒は、さらに冷たいものとなった。
あれは、もしかしたら誰も乗っていたのではないか?
無人の車椅子が何かを探し求めるかのように動いている。あれは、そういうモノではないか……
そう感じた直後、キィと音がした気がして振り向いた。
もちろん何もない。年上の子の病室があるだけだ。決して車椅子なんてない。
もう一度窓の外を見る。車椅子は相変わらず不規則な動きを見せている。
私はもう、恐ろしくて仕方がなかった。
ただ動いているだけだ。何も悪さをしてこない。襲ってくるわけでもない。そもそも遠くにあるのだ。自分に害が及ぶことはない。
だが、恐ろしかった。何か、私の分からない何かが、動いている。
まるでそれが当然とでもいうように、動くのをやめない。
夢であることすら否定する。
不可解なものがただあるだけということが、幼い私に恐怖を植えつけた。
私は走って病室に向かい、ベッドに這い登り、とにかく眠ることに専念した。幸いあっさりと眠りにつき、夢も見なかった。
翌日、そのことを看護師さんに言ったが、当然のごとく笑われるだけであった。明るいときに見る、向かいの棟の屋上は、ひどく汚れていた。
あれ以降、夜中に起きても窓の外を見ることはしなかった。
そうこうしているうちに、多感な幼少期を過ぎ、大人になり、すべてのことは見間違いか科学的何とやらで解決できると知った。
いや、知ったようにに努めたというべきか。あのようなものが、ありえないものが、実在してしまう恐怖を拭いたくて、自然と知識で武装しようとしてきたのだろう。我ながら小心者だ。
ただ、今も、こういった機会にふと考える。あれは、あの車椅子は、まだ何かを探し求めて動き回っているのではないか、と。
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