トカレフ、声優、モモンガ、デコトラ 1

 ブハーッ!

もし飲み物を口に含んでいたとしたら、フロントガラスにぶちまけていたであろう。藤木は喜劇的に驚愕してみせた。

萌え、と来たか。四十路アラフォーの女性が発するには幾分異質なその単語には、なんだかむず痒さを感じてしまう。

「萌えですか」

「萌えですよ」


 ウィンカーの音が耳に入った。カッチカッチカッチカッチ……

 あのね。

ふと思い立ったように、壱与子は息を吸った。

「私ね、五年前からずっと独身ひとりだったんだ。……武じゃないけど、昔一緒にいたヒトが家のお金持って消えちゃった」

右折。ウィンカーを止める。

藤木は窓を見ていた。言葉は挟まない。

「十年も一緒にいたのに、寝取られちゃったの」

あ。

藤木は窓越しに、イヤホンをしながら歩道を歩くサクラを見つけた。手を振るわけにもいかず、そっと目線を隣の壱与子へ移した。

「私ね、夫を盗った若い女のこと、殺してやろうと思ったの。ノコギリを持って、そいつの家に忍び込んだ。ベッドの下に潜り込んで、二人の会話をずっと聞いてたの。

 それでね。気付いた。その女、とっても可愛い声をしてた。ほんとなの。聞いてると、怒りとか憎しみとかが、スゥーッて失せていくの。嘘じゃないよ。私はそのまま帰っちゃった。隙を見て窓から抜け出したの。でも、ノコギリだけは置きっ放しにしてやった。ちょっとは怖いでしょ?

 それでね。夜中に家に帰ってきて、テレビをつけたの。そしたら、深夜枠のアニメがやってて。藤木くん、見たことある? 萌え美少女系ってやつ。私、それ見てハッとしたんだ。あの女の声だって。

だから私、思ったの。この声さえ使えれば、あのひとだって戻ってくるって」


 でさ。

黙って聞いていた藤木は肩をびくつかせた。彼女の声質が今、変わった。先程までよりずっと低く、重々しい。

「ここからがこの話のおもしろポイントなんだけどさ、『声』を手に入れるために、研究としてアニメを見まくったの。もう狂ったようにツタヤで借りて、四六時中ね。そしたら夫のことなんかどうでもよくなっちゃった。むしろ、アニメのほうにドハマりしちゃってさ。四十目前にして私決めたの。声優になるって」

「声優」

「藤木くんと話すとき、ずっと練習してたんだ。この声でしゃべる」

そうだったのか。

「完璧でしたよ。これが片付いたら、オーディションですね」

「なんか騙してたみたいで、ちょっと後ろめたいんだけどね」

年相応の彼女の地声も、悪くなかった。

「踊らされましたね、手のひらの上で」


 こぢんまりとした門だった。されど、そこに設置されたおびただしい数の監視カメラが、その建物の物々しさを演出している。

「武。着いたよ、下呂組事務所」

また、あの声に戻っていた。

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