ヤクザといっしょ 2

 「……スズメバチ」

藤木はなるべく唇を動かさずに発声した。顔面を幾度も殴打され、肌も口内も傷まみれだ。話すだけでも、瞬きをするだけでも鬱々とした痛みが襲ってくる。今後の食事や入浴のことを考えるだけで幻滅する。

「そうなの。わたし、あそこの茂みでね、刺されちゃったの」

「ははぁ」

アイシングバッグでその部分を冷やしている彼女は、控え目にキャミソールを捲ってくれた。へその周辺がぷっくりと腫れている。

「だからさぁ、俺が応急処置してやろうとしたわけよ。針を抜いて、水で洗って……」

その声に藤木は肩を震わせた。恐る恐る振り返る。鼻梁にあてがったガーゼを赤く滲ませつつ、タバコの煙を吐き出している。

「お前も吸えよ」

「あ、ありがとうございます……」

藤木は小刻みに震える指で差し出されたエコーのパッケージから一本抜き出した。

見よう見真似で咥え、男が投げて寄越したジッポーで点火する。

藤木には喫煙の経験がなかった。

始めは煙の匂いしか感じ取れなかったが、何度か吸ったり吐いたりしているうちに風味が分かってきた。甘いような、乾いたような……


「あの、恐縮ですが、あの、えーと……彼女……」

壱与子いよこ犬飼いぬかい壱与子いよこです! で、こっちはたけるね」

藤木が言葉に詰まると、彼女は微笑んで言った。わざとらしく敬礼じみたポーズで名乗ったあと、男の方へ指をさした。

「あー、すみません。失礼いたしました……そう。壱与子さんと……武さんは姉弟であったと、そういうことであったのですね」

「マジ笑えるな。どういう目してたらあれがレイプに見えんだよ。つーか、こんな女とやるくらいだったらまだ獣姦のほうがマシ」

「ちょっとー。それは言い過ぎ」

男、犬飼武の吊り上げた口角に藤木は萎縮した。いまだ朦朧とする意識の中で、出来事を整理する。ここは犬飼壱与子の住居らしい。ぶち切れた男に殴り倒されて伸びた俺を寝かせてくれていたようだ。

武という男は彼女の弟。彼が彼女のことをまさぐっていたのは、彼女に刺さったスズメバチの針を抜こうとしたためだそうだ。彼女が痛がっていたのは、そのためか。そしてあろうことか俺はそれを強姦の現場と見違え……


つくづく最低である。また裏目に出た。スリーバント失敗。ゲームセット。

慣れないタバコのせいか、喉が痛くなってきた。それでも吸うのをやめたいとは言い出せない。早く吸いきってしまおうと、藤木は大きく息を吸い込んだ。そしてむせた。

「だいじょうぶ?」

犬飼壱与子は上目遣いでささやく。聞くところによれば四十代に差し掛かっているそうだが、その口調は若さを伴った可愛らしさを含んでいた。若干舌足らずで濁りを感じる声質だ。それでいてヒヨコの鳴き声のような、初々しさを含んだ溌剌とした愛らしさを孕んでいるのだった。

ニワトリに成らないまま、ヒヨコのまま大きくなってしまったかのような――彼女にはそんな印象がある。ピヨピヨ。

「まったく問題ないです」

笑顔を作ろうとすると唇の傷が開く。表情を作ろうとすると、意図せずともしかめっ面になってしまう。タバコの煙と一緒に溜息を吐く。

「武さんは、その……極道の方であったのですね」

壱与子が言うところによると、彼は御厨みくりや組なる組に所属する下っ端らしかった。

藤木の言葉に武はぶっ、と吹き出した。短くなったエコーが口から溢れて畳に落ちる。彼はそれを拾い上げると、灰皿で先端を潰した。

「極道だとよ。ヤクザでいいよ、ヤクザで。なぁ?」

藤木は痛みに耐えつつ苦笑をつくる。武は愉快そうに、歯を見せて笑っては極道、極道と呟いている。しかし調子に乗ってはいけない。まだ許されてはいないのだ。相手はヤクザ、何をしてくるかわからない。藤木は自らを戒めた。生きて家に帰らなくては……

「この人なんてただのチンピラだもん。君のほうが強いよ」

壱与子が冗談交じりにそんなことを言うので、藤木は鼻白んだ。武はニヤリと笑う。

「あ、そういえば。藤木くん、名前なんていうの。下の」

すかさず答えた。

「鉄平かぁ。いいね。野球部っぽい」

彼女の言う野球部っぽさの基準が何だか知らないが、藤木は微笑ましく思った。

ヤクザは恐いが、彼女は素晴らしい。

美声という訳ではないが、耳あたりのいい声だった。羽毛だ。羽毛をかき集めて、そこに身を任せているような感覚。生温くてくすぐったい。

「壱与子さんも、刺されたところ大丈夫?」

「もぅ痛くて熱くてやんなっちゃうよ。明日病院に行くんだ」

「どこ病院ですか?」

「え……あそこのはた病院だけど……」

「そうなんですか……お大事に」

「うん。ありがと」

そもそも衣服に守られているはずの腹部を何故刺されるのか。疑問に思ったが、藤木はそれにはまったく気を止めなかった。それよりも、彼女の声を少しでも多く聞きたい。衝動だ。本能的に、聴覚がそれを求めている。


 「スズメバチもヤクザも、何もしてこねぇ奴に手ぇ出したりはしねぇんだよなぁ……」

唐突に武は言った。真顔である。藤木は我に返る。顔から血の気が失せた。

そうだった。俺は今、ヤクザと同じ部屋にいるのだ。

改めて思い、ぞっとした。

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