第10話 ■喪服のイブ■

その日の帰り、俺は田岡先生に会うため、塾に行った。

俺たちの頃と変わらなければ、月水金はオレンジ教室のはずだ。

高校の合格発表の時でも、こんなにドキドキしなかった。雄々しくビーフの心で、田岡先生と対決するつもりで校門を出たが、歩いて行くうちに、足が地面にめり込んで行く様な気がする。ビーフと言うより、ドナドナの仔牛だ…。田岡先生は、もの凄く率直で嘘の無い物言いが、俺たちの信頼を得ていた。それだけに、いつもの様に淡々と語られたら、もう立ち直れない。

「お付き合いはしていないのですが…。彼女が是非と言うので、性交渉を持った事があります。ええ、初めてだった様ですね」

とか…(こういう時は、どんどん悪い想像が沸いて来る)。

何度そのまま家に帰ろうかと思ったか知れないが、ここで逃げたら二度とマイカを真っ直ぐ見られない気がして、底なし沼に沈む足を前に進めた。例えではなく、塾近くのバス停に降りてからは、自分の手で足を持ち上げて、一歩一歩進んでいた気がする。


塾に着くと、塾長が玄関の鏡の前でネクタイを締めている所だった。

「先生お久しぶりです。どうしたんですか?背広なんて着て」

「おおミナミ君か。久しぶりだな。君も来なさい。これから田岡君の通夜だ」

神様…。それはないんじゃないですか?

合宿のあった寺への道すがら、塾長は運転しながら話してくれた。博士論文の仕上げで過労がたたり、あの車でガードレールに激突した事。警察はいねむり運転と見ている事。

さりげなくマイカの事を聞いたら、彼女は田岡先生が連れて来たというのは本当らしい。大学の実験室で何かの手伝いをしていた。とも。

中学生が?

割り切れない顔をしていると、

「そうかミナミ君はマイカちゃんが気になるんだな。田岡君とマイカちゃんは、つきあってはなかったと思うよ、兄と妹みたいではあったが」

この人の勘は、時々鋭いから困る。


寺に着き、塾長が友人の住職に挨拶した。

急だったのと、町から少し距離のある寺なので、あまり人は多くなかったが、オレンジとグリーンからは、現役がかなり来ていた。みんな泣いていた。この塾では見た事のない、

「喧嘩上等」

みたいなつっぱった奴らが、人前で声を上げて泣いていた。どこで田岡先生と出会い、大泣きする程の恩を受けたのだろう?先生ならありそうな話だが…。

祭壇の田岡先生の写真は、いつもの照れた様な笑顔を浮かべていた。塾でバーベキューパーティーをした時の写真だ。

ヨッコがいた。

「あ、メグ。驚いたよ」

俺は突っ込むのも忘れて、ヨッコの横に立った。

「マイカは?」

黙ってヨッコは指差した。田岡先生は親も居らず、身寄りは殆どいないと、塾長から聞いていたが、下宿の大家さん夫妻に並んで、小さなマイカが黒いワンピースを着て参列者にお辞儀をしていた。

親戚なのか?


焼香の時、マイカに話しかけようと思ったが、目に涙を浮かべながら、気丈に挨拶しているマイカが、少しでも話しかけると壊れてしまいそうだったので、目で挨拶だけしてヨッコのところへ戻った。

「マイカと田岡先生って」

「マイカの隣に立ってた女の人さ、田岡先生の婚約者でみそのさんって言うんだけど、マイカの従姉妹なんだよ」

確かに喪服を着た、きりっとした感じの美人が挨拶していた。あの人がビートルズの従姉妹かな?田岡先生とは大学院の同級生だったとか。研究の為とは言え、先生の無茶を止められなかった事を悔やんで、後を追おうとしたらしい。マイカが偶然下宿に行って、彼女を止めたとか。事故は昨日の夜明け頃で、マイカは今日学校を休んだらしい。


従姉妹のお姉さんの彼氏か…。


どうしていい人は早く逝ってしまうのだろう。

俺と付き合う前に、マイカが誰を好きでも仕方が無い。噂の真相は解らないが、田岡先生はもう永遠に勝てないライバルになってしまった。みそのさんという婚約者にとっても、これはきっと簡単な三角関係では無い気がする。

マイカは従姉妹の為に身を引いたのかな?

俺にとってもかけがえのない存在を失った悲しい葬式なのに、俺はそんな事ばっか考えていた。

いつもは頼もしいヨッコだが、前にも言ったけど、子供の頃のトラウマで、こんな時はとても動揺してしまう。流石に憔悴している様で心配なので、俺はヨッコとタクシーに乗って寺を後にした。

「マイカがんばってたね」

「うん」

「マイカ、田岡先生もみそのお姉ちゃんも、大好きっていってたからなあ…」

男としてだったのかな?とは怖くて聞けなかった。

「マイカを支えてあげてね。高畑君」

タクシーの中で、ずっと俺の手を痛い程握りしめていたヨッコを家に送ってから、歩いて家に帰った。


田岡先生の訃報を、ヨッコからの電話で知った母は、俺に連絡がとれないまま、帰りの遅いのを心配していたそうだ。学校に行けなくなってしまった息子が、立派に高校進学出来た事を母は大変感謝しており、高校進学後も、塾には中元・歳暮を欠かしていなかった。

「メグル。塾の…」

と、言いかけた母は、俺の真っ赤な目を見て全てを察した。俺は黙って、通夜の礼状を渡す。母は、塩を取り出し、俺の肩に振りかけた。俺は塩を肩から払いながら、

「塩かけなくて、先生の幽霊が来ちゃうんだったら、それもいいけど」

と考えていた。今はいっそ本当の事を聞きたい。


次の日からマイカは学校に来なかった。

何とか力づけたいと思いながら、彼女が落ち込んで学校に出て来ないのは、愛する田岡先生を失った事が原因と思いたくなくて、何も出来ずに、学校から帰ると部屋に閉じこもっていた。

こんな時こそ、恋人を支えられずにどうする!と思いながら、わき起こる黒い妄想と戦う数日間だった。

ようやく俺の心の中で高畑が勝利して、マイカの家に電話したのは4日後だった。しかし本人は家にいないと言う。従姉妹の事が心配で、ずっと一緒に行動していると、母親は言っていた。俺の事は、マイカから聞いていたとの事で、マイカは俺の事を母親に、

「田岡先生みたいな人」

と言っているという。褒め言葉だろうが、複雑だ。ここでも

「あの子をよろしくね」

と頼まれてしまった。

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