第四話 インガンノ
だが、十数分もすると、語り疲れたようで、口数がめっきり少なくなった。一、二分後には、ついに何も言わなくなってしまった。
それから、瞼を閉じたまま首を前に傾けていき、一定角度に達すると急いで上げ、左右に振って目を見開く、という動作を繰り返し始めた。数分経つととうとう、鼾をかいて居眠りし出した。
(今が、火炎放射器を使用するチャンスね)
檸檬はそう考え、左の靴を脱ごうとした。しかし、足首が拘束されているせいで、なかなかできない。梃子摺っていると、いつの間にか、メウがそばにまでやってきていた。
(あら──応援してくれるのかしら? ありがとう、メウちゃん)
メウは座席に乗り、檸檬の左隣に立った。そして、なんということか、ウイッグに跳びかかった。
(えっ、ちょっ──)
ぺり、という、小さな音とともにテープが外れ、ぽろり、と頭から取れた。
(はああああああああああっ?!)
悲鳴を上げそうになるのを、何とか堪える。今、佐藤に目覚められて、頭を見られたら、一巻の終わりだ。必死に上体を傾け、手を伸ばしてウイッグを掴む。背中と壁の間に挟み、隠した。
騒いでしまったせいか、佐藤が起きた。首を上げると、瞑った目を擦る。
(やばい見られる見られちゃう手錠のせいでウイッグつけられないしどうしようどうしよう──)
「何かあったのか?」佐藤は檸檬を見た。
「いいえ。別に何も」彼女は平静を装って、答えた。
「そうか。アジトに着くまで大人しくしてろよ。ま、拘束されていては、暴れようと思っても暴れられんだろうがな」
佐藤はそう言うと、檸檬から視線を外し、スマートホンを弄り出した。
彼女はそっと溜め息を吐いた。(ああ──助かった)
佐藤が檸檬に目を遣る直前、顔を左に向け、右側頭部しか見せないようにしたのだ。右のウイッグは外れずに残っているし、もしかしたら左のウイッグがないことに気づかれないかもしれない、そう考えた末の行動だった。
(いつ、彼がこちらを見るか分からないから、基本的には、常に顔を左に向けておかないといけないわ。……でもこれは……うぐ、なかなか、辛い姿勢ね……)
いつの間にか、膝の上にでんと蹲っていたメウを、まともに顔を向けるわけにもいかず、なんとか流し目で睨みつける。そうしていると、再び佐藤のスマートホンから、オープニングソングが流れ出した。
彼はそれを取り出すと、通話を開始した。「もしもし。あ? 現在地? ええと──」
佐藤は立ち上がると、後ろを向き、大窓から外を眺め始めた。そのまま、喋り続ける。
(今なら、顔を元の方向に戻しても、大丈夫でしょう。でも、念のため、いつでも、左に向けられるようにしておかなくちゃ)
檸檬は頭を動かした。体を思い切り前傾させ、首を回して関節を鳴らす。すると、メウが、彼女の背中と壁の間に入り込もうとしているのに気づいた。
(わ、ちょっと──)
嫌な予感がした。とっさに体を起こし、ウイッグをぎゅっと握り締めようとする。
しかし、一足遅かった。メウはウイッグを咥えると、床に下りた。そして、反対側の座席に跳び乗り、それにじゃれつき始めた。
一瞬、気が遠くなるかと思えるほどの目眩に襲われた。(うわあああっ! 何やってんのよあのクソ犬?!)
檸檬は、戻って来い、と言いそうになった。しかし、直前で堪えた。
(言ったところで、戻ってくるとは思えないわ……佐藤が振り向き、ウイッグを見つけてしまう可能性だってあるし──)
仮に、佐藤は気づかず、メウは戻ってきたとしても、ウイッグを咥えているかはわからない。
(──そうだわ! メウがじゃれついている場所は、ベストが吊るされているハンガーの真下じゃない!)
物を投げてベストにぶつけ、落下させてウイッグを覆い隠せばいい。そうすれば、佐藤にも見つからずに済む。しかし、いったい何を投げればいいのか。だいいち、仮に、投げるものがあったとしても、両手が拘束されていては。
(……そうよ、靴! 靴があるわ!)
膝から下は、何とか動かせる。足を振って飛ばし、ぶつければいい。火炎放射器は、ベストを落とした後、踏んで隠せる。
「──わかったよ。ああ。それじゃ」
佐藤はそう言って、電話を切ると、こちらを振り向こうとした。
「あっ、あそこに、スカチルの看板があるわ!」檸檬は早口で捲し立てた。
「何だと!」佐藤は再び大窓のほうを向いた。「どこだ! どこにあるんだ!」
檸檬は左の靴を脱ぐと、ベストめがけて飛ばした。しかし、当たらなかった。
「おいおい、そんな看板、どこにもないじゃないか」佐藤はまたこちらを振り向こうとした。
「もっと上上上! 奥奥奥っ!」檸檬は怒鳴るようにして言った。
「だからどこだ! どこにあるんだ!」佐藤は三度大窓のほうを向いた。
右の靴を脱ぎ、飛ばす。今度は、命中した。
ベストは落下して、ウイッグと、佐藤が同じところに落としていたライターを覆い隠した。メウはひどく驚いたらしく、飛び跳ねるようにしてその場から離れた。檸檬は、心の中でガッツポーズをすると、火炎放射器を踏み、隠した。
「やっぱり見つからんな。もしかしてからかってんのか?」
今度こそこちらを向いた佐藤は、明らかにいらついていた。「おい」と言ってメウの首を掴み、檸檬のほうに差し出す。
「この犬、お前さんのところで飼っているんだろ? 俺をからかった罰として、殺してやってもいいんだぞ」
檸檬は右側頭部を彼に向けたまま言った。「ぜひお願いするわ」
脅迫したと思っていたであろう佐藤は、しばらく、呆気にとられたような表情になった。それから、舌打ちしてメウを下ろした。
彼は、辺りを見回して、言った。「なんで、お前さんの靴が、散乱しているんだ?」
「ああ……えっと」なんとか、上手い言い訳を話さなければならない。「暑くてね。脱いじゃったのよ」
佐藤は両手を広げた。「クーラーがガンガンに効いていて、むしろ寒いくらいだと思うんだが」
「……暑がりなのよ」
「っていうか、確か、お前さん自身、寒いって言ってなかったか?」
「………………慣れてくると、暑くなってきたのよ」
「……そうなのか」
そう言って佐藤は、元いた場所に座り、首を回し始めた。メウは、檸檬が座っている側の席の、運転席に近いほうの端に移動すると、そこに蹲った。
(やったわ──なんとか、ごまかしきったみたいね……)
その後、佐藤は、監視に対する集中力が切れてしまったのか、明らかさまに気の抜けた様子を見せ始めた。ときどき、スマートホンを弄ったり、サブマシンガンの手入れをしたりしている。
幸いにも、落ちたベストをハンガーにかけ直そうとする気配はなかった。檸檬は心の中で、大きく、長い安堵の溜め息を吐いた。
数分後、佐藤はサブマシンガンをそばに置くと、懐から煙草の箱を取り出した。そしてそこから一本摘み出し、口に咥えた。その直後、慌しく自分の体を触り始めた。
(ライターでも、探しているのかしら?)
そう思った次の瞬間、檸檬は少しだけだが、声を上げてしまった。佐藤のライターは、ベストが、ウイッグと一緒に覆い隠しているのだ。つまり、ライターが見つかると、同時にウイッグもばれてしまう。
(そうなったら、ゲームオーバー──撃ち殺される。何とかしないと……)
こちらが必死に思案している間にも、佐藤はライターを捜していた。全身調べ終えたようで、今度は立ち上がり、周囲をきょろきょろと見ながら歩き回り始めた。
(まずい──ベストを捲るのも時間の問題だわ……)
それは、何としてでも阻止しなければならない。
(ライターを持っていたら、貸すのだけれど……でも、そんなものはどこにも──あっ)
佐藤はついに、ベストを掴んだ。檸檬は絶叫するように言った。
「貸してあげようかっ!」
全身を、びくり、と大きく震わせてから、佐藤は怪訝そうにこちらを振り向いた。「何だって?」
佐藤が檸檬に目を遣る前に、慌てて顔を左に向け、右側頭部を見せた。
「いや、だから、貸してあげようか? ライター」
佐藤はますます怪訝そうな表情になった。「持ってないだろ。いちおう、車に乗せる時に身体検査したんだから」
そう言って、ベストを握った手を、上に数センチ動かした。
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