10

 落下の衝撃は思ったほど痛くはなかった。彼女は震える腕で身を起こす。車両内の状況を目に映し、絶句した。

 テイルは呻きながら身体を起こす。たまたま姿勢を低くしたからか、そこまで飛ばされずにすんだものの、襲った衝撃のせいで床には思い切り叩きつけられた。あちこち痛むので身体は青あざだらけになっていそうだ。

 男の行方を先に確認する。あちらは壁にでも叩きつけられたのか、後部車両との扉部分辺りに動かない姿が見えた。痛む所を無意識に手で抑えながら、彼は立ち上がってレイラの所まで移動した。

「レイラさん、大丈夫?」

「……」

 彼女は呆然と目の前の光景を見つめたまま返事をしなかった。テイルもその光景をもう一度見る。

 先程も見たが、後部車両の扉前にはスーツ姿の男が数人折り重なるようにして横たわっている。テイル達と男達の間には真ん中に通路を通して左右対象にボックス席が設置されているが、その肘掛けの木枠や背もたれのクッションは所々裂けたり欠けたりした後があった。ヒドイものでは中の綿が見え、飛び出している。窓ガラスには無傷のものもあれば、ヒビ入っているものもあり、割れ砕けているものもあった。

 テイルはもう一度レイラに声をかける。

「レイラさん。オレは無事だよ。ありがとう、助かった」

 ようやくレイラがのろのろとテイルの方を見た。

「……テイル、私……」

「あいつらが気づく前に行こう」

 テイルが手を差し伸べる。レイラはその手を取るのを戸惑った。その車両内の光景を気にしてか目線が彼の手と別の場所へと行ったり来たりしている。

「こうなったのはレイラさんのせいじゃない。あいつらが悪い。だから、レイラさんが気にする必要はないよ」

「でも……」

 それでも戸惑うレイラの手を、テイルは問答無用で掴んで立ち上がらせる。

「わけわかんないのはオレも同じだ。わかんないことを今考えたって仕方ないだろ。今はあいつらから逃げないと、連れて行かれたら何されるかわからないんだから。さあ、行こう」

 テイルは繋いだままの手を引っ張って前の車両に移動しようとする。レイラはされるがままに歩き出すが、表情は晴れない。

「わかった。考えるのは後にするわ。でも、行くって、どこへ?」

 同じ汽車に乗っていれば、逃げ切るのは不可能なはずだ。しかし、彼がただ闇雲に前の車両へと逃げようとしているとは思えなかった。言葉に、何か意思があるように感じたからだ。

「とにかく、早く移動するよ」

 テイルは扉を開けて車両と車両の接続部に出る。特に通路に外とを隔てる壁はなく、風を切る音が大きくなる。テイルはそのまま前の車両に入らずに足を止め、車両の外壁を確かめている。

「テイル……?」

「レイラさん、上に上がるぞ」

「は?」

 テイルは扉横から少し遠めに備え付けられている梯子を指さした。

「ちょ、ちょっと。正気!?」

 言っている間にもテイルは腕を伸ばして軽くジャンプした。簡単に梯子に移動してしまう。梯子で態勢を整えると、レイラの方に片腕を伸ばす。

 躊躇したくなるが、しても意味がない。ここで足を止めていても事態が好転しないのはわかりきっている事だ。車両の屋根に上ることがいい事とは決して思っていないが。レイラは諦めてテイルに従うことにする。先程の彼と同じように軽くジャンプして、彼の手を掴む。そのまま梯子に飛び移った。

 テイルが先に屋根の上を確かめる。そのまま登ってしまうと、レイラもそれに続いて屋根に上がった。

 当たり前だが、屋根の上は向かい風が強かった。姿勢を低くして、飛ばされないように足を踏ん張る。

「それで、どうするの?」

「んーと、もうちょっと」

「何が?」

 テイルは言葉で返事をする代わりに指をさす。レイラは彼の示した方向を見る。線路の右側に、湖が見えた。レイラは前方に続く線路の行方を見る。距離としては遠くない。あと少しで湖の上を通るようだ。

「――あの、もしかして」

「飛び込む」

「ちょっと待って、無茶言わないでください!」

「大丈夫大丈夫。川に飛び込むよりは水深あるだろうからきっと大丈夫」

 テイルはケラっと気楽に笑っている。レイラは彼の突拍子もない提案に唖然とする。もしかすると、湖がなければ今も横手に流れる川に飛び込むつもりだったのかもしれない。

 下手すると逃げるどころではなく大けがをしかねないのだが、彼はそこの所は理解しているのだろうか。

 そうこうしている内に湖はもう寸前だ。その時、下から声が聞こえた。男たちの自分達を探す声だ。

 レイラはその声から逃げるように無意識にテイルに寄り添うように近づいた。突然肩を強く抱き寄せられる。

「行くよ」

「え、ちょっと」

 レイラが止める間もなかった。テイルはレイラを抱いたまま思い切り屋根を蹴って飛び出していた。足裏の感覚がなくなり、浮遊感が全身を襲う。彼女の顔色が一瞬で蒼くなる。線路を超え、橋の端の向こうに綺麗な水がたゆたっているのが視界に入った。すぐに視界いっぱいにその青が広がる。と思った時には水の中に飛び込んでいた。思わず目をつぶって沈むままになっていると、浮上するように腕を引かれた。引かれるままに彼女も足を動かす。水面に顔が出て息ができるようになった。すぐ横にはレンガの壁があり、それに掴まりながら、二人は呼吸を整える。少し余裕が出てきて周りを見渡せば、掴んでいる壁は上に伸びてアーチ状を形成していた。

「ここ、橋下?」

「そう。そんなに高さなかったから、大丈夫だったろ?」

「そういう問題じゃ……って、テイル、あなた顔色悪いわよ」

 冷たい水に入ったから、というだけではなく彼の顔に疲労の色が見て取れた。レイラは慌てるが、テイルは「平気」とだけ返して、湖の方ではなく、そこから流れる川の方へ泳ぎ始める。

「汽車も行ったみたいだし、こっちから上がろう」

「え、ええ」

 レイラもそれに従い川を渡って岸に上がる。

「とりあえず、ここからどうしようか」

「まさか考えてなかったの?」

「うん、まあ。ここがどの辺かもわかんないし、ベルマークシティもどっちかわかんないから」

「私も地図もないのに道はわかりませんよ」

「じゃあまず地図か……」とテイルは顎に手を当てて考えている。その傍らでレイラは岸の近くに何があるかを確かめる。

 すぐそこは道になっている。踏み均されて整備された道だからどこかの街道だろう。右手に視線を移動させるとすぐに山道へと入って先は見えなくなっている。戻って左手を見ると少し遠くに建物が並んでいるのが見えた。

「テイル、あちらに行ってみない?」

 レイラがその建物群の方を示すと、テイルも顔を上げてそっちを見る。「行ってみよう」とすぐに彼女に同意した。

 二人が建物群に近づくと、いくつかの出店と宿や食事処、雑貨屋などと書かれた看板がいくつも目に入ってきた。

「やっぱり、ここは小さいけれど宿場町なんだわ」

 二人が歩きながら左右に建物を見上げていると、あちこちから声がかかってくる。

「今日の宿はどうぞうちに!」

「お二人さんずぶ濡れでどうしたんだい? うちの宿で休んでいきなよ」

「お腹は空いてないかい! 今日はいい肉が手に入ったよ早い者勝ちだ! さあ食べてって」

「旅のお供に干し肉はどうだい! まとめてお安くするよ!」

 それらの声を聞きながら、二人は自分たちの格好を改めて確認する。上がった時に絞ったとはいえやはり濡れ鼠だ。

「服を、買いましょう」

「レイラさん持ち合わせは?」

「……なんとかします」

 苦々しい顔でレイラは応えた。

 しかし、このまま店に入るわけにも行かない。とりあえず二人は一番安い宿に頼んで、一室と乾布、靴を借りた。

 靴を履き替え、髪や服の水気をしっかり拭うと少しはマシになる。それから外に出て代わりの服を購入すると、今一度借りた部屋に戻ってきた。順番に着替えると、濡れた服は室内に張った紐に通して暖炉の火で乾かすことにする。

 お互い落ち着いてそれぞれのベッドに腰を掛ける。

「それで、この後どうする? ずっとここにい」

「今日はここに泊まります」

 テイルの言葉を遮ってレイラは強く告げた。テイルが驚いて反論しても同じように強くはっきりと同じ言葉を繰り返した。

「テイル、あなた自覚ないの? 本当に顔色悪いのよ。今日はもう休んでください」

 言われてテイルは目を瞬かせる。全く自覚がなかったようである。

「いや、でも。オレよりレイラさんの方が」

「休める時に休んでください。この後どうするも、ベルマークに向かうには山を越えなければなりません。そんな顔で山越えをされてもはっきり言って困ります」

 言い終えたレイラは上目遣いにじっと彼を見つめてくる。テイルはその視線に負けて「わかりました」と答えると早々に横にさせられた。

「何かあったら起こしてくれていいからな」

 心配そうに言って横になった彼からはすぐに規則正しい寝息が聞こえ始める。すぐに寝入ってしまうほど疲れていたはずなのに、レイラのことばかりを心配していることに、彼女は少し困ったような顔をしながらも少し嬉しそうな顔をした。彼のベッドにそっと移動すると小さく「ごめんなさい、ありがとう」と呟いた。

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