第10話
イサクがぽつりと呟いたのを聞いて、シモンが思わず聞き返す。すると不機嫌なこの兄は、もう一度、「都は嫌いだ」と繰り返す。
「父さんも母さんも、すぐに帰ると言っておきながら、都へ行ったきり戻ってこなかったじゃないか」
「それは、……都のせいじゃない、事故のせいだろ。事故のせいでふたりとも帰ってこなかったんだ。俺は大丈夫だよ。別に都へだって、初めて行くってわけじゃないし」
「けどオーディションがうまく行ったら、しばらく戻っては来ないんだろう」
「そりゃ、そうだけど……。もし都でうまくいくようなことがあれば、イサク、俺たち二人で、一緒に向こうへ移り住んだっていい。――そうだ! それがいいよ。イサクだって切り絵の仕事なんて辞めてさ。お前が辞めたがらないから、仕方ないと思ってたけど、本当はほら、あんまり根を詰めて何かをするの、よくないんだろ? 内職を辞めたら身体の具合だって、少しは良くなるかも」
「俺はいいよ。淵の神様達のこと、置いてはいけないもの。……大体、」
突き放すような物言いに、シモンは完全に当惑していた。何故イサクは、先程からこんな風なのだろう。シモンは何故この兄に、こんな風に邪険にされなくてはならないのだろう。
「大体何をしようが、俺の身体が良くなるなんて、今更、少しも思っちゃいないくせに」
イサクが呟いたその言葉に、胸の内が掻き乱される。
「そんなこと、……」咄嗟に否定しようと思うのに、うまく言葉が続かない。だがこの兄に、一体何がわかるというのだ。そう思えばシモンの腹の中に、ふつふつと、怒りの種が湧いて出た。
己の努力を、評価されたことが嬉しかった。理解されたことが嬉しかった。そしてこの兄ならばきっと、シモンの喜びに共感してくれるはずだと、シモンはそう信じていたのだ。
それなのに。
「ふふ、……聞いたかい? シモンもここを出ていってしまうんだって。いつかそんな日が来るかもしれないとは思っていたけど、こんなに急のことだなんて」
ふらりふらりと歩きながら、イサクがまた語り出す。彼の言葉の先にあるものは、既にシモンではなくなっていた。
「うん、……うん。けど、頼むよ。俺達のこと、見守ってくれると言ったじゃないか。俺はいけないよ、都までは遠いもの。頼むよ、誰かシモンについて行ってやってくれよ」
懇願するような声。ああ、イサクはまた例の、得体の知れない神々に語りかけているのだ。そう考えれば震えが来た。
おまえはまたそうなのか。
そうやって、また現実から逃れるのか。
――俺の身体が良くなるなんて、今更、少しも思っちゃいないくせに。
今しがた聞いたその言葉が、シモンの中で燻っている。お前に何がわかるのだ。こうしてシモンの前にいながら、しかしシモンに一瞥も与えようとはせず、空想の中の有象無象と語るお前が、
一体何を、わかったつもりでいるというのだ。
気づかぬ内にシモンは、イサクへと手を伸ばしていた。梯子を登りかけたイサクの腕を鷲掴みにすると、力任せに引きずり下ろす。イサクの顔が苦痛に歪んだ。それを見て、いい気味だ、とシモンの心が暗く湧く。
いい気味だ。さあ、よく見ろ。これが今のお前の弟だ。ガタイはけっして良くないが、お前よりも背が高く、力があり、社会に確固たる居場所を持った、これが、――これが今のシモンの姿だ。
思い知るがいい。幼いころにお前が見た無力な弟の姿は、お前の庇護を必要とする弱い弟の姿は、もうここにはないのだと。
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