第8話
慣れた道を大股で駆け、先程踏み抜いた水溜まりの横を疾く抜ける。気が急いていた。一刻も早く、事の次第を伝えなくては。
「イサク、――イサク!」
大声で呼び、音を立てて我が家の扉を開け放つ。しかし中からは何の反応もないのを見て、シモンは些かぎくりとした。身体の弱いあの兄が、家の中で倒れてでもいるのではないかと思い、瞬時に、己の身を案じたのだ。
(冗談じゃない)
ここでイサクになにかあったとなれば、シモンはまた彼の看病に時間を取られることになる。だが今は、そんな場合ではないのだ。シモンは今まさに己の力で、――新たな道を、切り拓かんとしているところなのだから。
慌てて梯子を駆け上がり、しかしそこにも、イサクの姿が見当たらないのを確認する。そうしているとふと、階下から女の声がした。
「さっきからやけにバタバタと、一体どうしたんだい、シモン。イサクならさっき、市場の方へ出かけていったよ」
隣の部屋に住む、世話好きのリブカおばさんだ。それを聞いてシモンも、先程イサクが内職の切り絵を手にしていたことを思い出す。そういえば、今日はその納品の日であったはずだ。
(元気でいてくれることは、助かるけど、……)
今は如何せん時間がない。仕方がない、イサクには手紙を残しておこう。そう判断するや否や、シモンは梯子を颯爽と下り、去ろうとするリブカにこう言った。
「すみません、その、数日だけ……、たまに様子を見てもらうだけで良いので、イサクのこと、お願いできませんか」
「そりゃ、別に構わないけど。あんた、どこかへ行くのかい?」
問われ、シモンは満面の笑みを浮かべてこう言った。「都へ」声が思わず弾んでいる。落ち着かなくてはと思うのに、己の心を御しきれない。
「都へ行くんです。数日、いや、もしかしたら数ヶ月」
「行くって、今から?」
「そう、今から!」
――私達はこれから都へ戻るのだが、よければ一緒にどうだい? オーディションは一月後なんだが、その前に一度くらい、私達の劇場を見ておいても良いだろう。まあ、突然の話だからね。無理にとは言わないが。
マクペラ劇団からのその申し出に、一も二もなく頷いた。都までは馬車で二日程度。都自体にはこれまでに何度か訪れたこともあったが、マクペラ劇団の劇場に足を踏み入れる機会など、今までにはおよそなかった。張り巡らされた赤い絨毯に、豪奢なシャンデリア、天井は全て金で縁取られているというのは本当だろうか。ずっと噂には聞いていた、雲の上の舞台。まさか自分が、そんなところへ、招かれて訪れる立場になろうとは。
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