中編

第7話

 もう昼も近い時刻だというのに、外はまだ冷え切っていた。

「それじゃ、行ってくるよ」

 玄関で一度振り返り、そう告げれば、「いってらっしゃい」とイサクが言った。その手には、与えられた図案通りに刻まれた、切り絵の束がある。恐らくこれから、商人のところへ持っていくのだろう。

「今日は一段と冷えそうだ。暖かくしていきなよ」

「イサクこそ」

 外套の襟を立て、首元を縮こまらせるようにして家を出る。石畳のくぼみに張った、てらてらと輝く水たまりを踏み抜けば、そこに張った薄ら氷が、静かな感触をもってぱきりと割れた。イサクが共にいたなら、彼はなんと言っただろう。「そんなふうに悪戯をして、淵の神様を驚かせてはいけないよ」とでも言っただろうか。

 悲劇のエヴァンジールを演じ、楽日らくびを迎えたのが、まだ一昼夜も経ない昨晩のこと。だが一つの舞台を演じ終えたからといって、いつまでもその余韻に浸っているわけにいかないのが、弱小劇団に属する者の宿命である。

 まずは道具係を手伝って、昨日までの舞台の片付けに走らねばならない。それが終わってはじめて、次の舞台の打ち合わせをし、稽古の傍ら、衣装の買い付けをしたり、宣伝のために広告を持って練り歩いたり、こなさねばならぬ事は山とある。

 咳払いをし、喉の調子を整えて、自宅へ帰る以上に遠慮無く劇場の扉を開く。四年間通い続けたその職場は、今日もいつも通りにシモンを迎え入れてくれるはずだ。そう思っていた。しかし、

「だ、団長! シモンが来ましたよ!」

 慌てた様子の男の声。役者仲間のハイムだ。驚いたシモンがその声の主を視線で捜せば、劇場の奥、舞台のすぐ手前に、数人の男がたむろしている。ハイムの他に、団長のシュムリ、演出家のヒレル、それから、――黒いシルクハットを被った、身なりの良い、見覚えのない男が二人。

「ほう。こうして見ると、すっかりただの少年のようだ」

「それだけ演技力がずば抜けているということでしょう。昨晩のエヴァンジールは、頭の天辺から爪先まで、本物よりも本物の少女らしい振る舞いでしたから」

 昨晩の舞台を見たということは、客だろうか。しかしすぐにはそうと問えないまま、シモンがおずおずと歩み寄れば、団長のシュムリは喜ぶでもなく詰るでもなく、まずシモンのことを手招きした。

「お前に客だ」

「……、俺に?」

 眉をしかめてそう問うて、シルクハットの男達に会釈する。すると彼らは笑みを浮かべ、「君を待っていたよ」とそう言った。

「ガリラヤ劇団の女優の噂は以前から耳にしていたが、昨日の舞台は本当に見事だった。君、どこかで演技の指導を受けたことはあるか?」

 問われて、シモンは尚更困惑した。演技の指導というものが、一体何を指しているのか、すぐにはぴんと来なかったのだ。演出家の希望に添うように演技をするのは当然のことであるが、わざわざそんな事を問うたわけではないだろう。しかしシモンがヒレルへ視線を送れば、ヒレルはひとつ小さく息をついて、「自己流ですよ」とシモンの代わりに答えてくれた。

「シモンの演技は、完全にこいつの自己流です。そりゃ、舞台での最低限の作法は教えましたがね。本物の女の動きを観察して、台本を読み込んで、空想の物語の中に描かれた女の一挙一動を、自分の力で現実の物として練り上げているんです。この低い鼻で敏感に、客が何を求めているのか嗅ぎ取りながらね」

 低い鼻、は一言余計だ。しかしシモンが文句を言うより早く、「それは凄い」と男達が顔を見合わせる。値踏みするようなその態度に、シモンはより眉根を寄せた。ちっとも話が見えてこない。先程から、一体何だというのだろう。

「自己紹介が遅れて、申し訳なかったね」

 相手もどうやら、シモンが訝しんでいることに気づいたらしい。シルクハットの片方がそう言って、敵意がないことを示すかのように、にこりとシモンに微笑んだ。そうして彼は恭しげに片手を差し出すと、シモンに向かってこう言ったのだ。

「私達は、都にあるマクペラという劇団の人間でね。次の演目で助演を務める女優を探しているんだが、君にもぜひ、オーディションに参加してもらえないかと思ってね」

 マクペラ劇団。その名を聞いて、シモンは思わず後ずさる。都に劇場を構える大劇団。王室御用達との噂も聞くその劇団の名を、同じく演劇に携わる人間が、まさか知らないはずはない。

 困惑したまま、ちらと団長のシュムリに視線を向けた。演技などずぶの素人であったシモンを拾い、舞台に立たせてくれたこの恩人はそれを見ると、ひとつ大きな溜息を吐く。

「……行ってこい、シモン。どんな結果になったとしたって、お前の経験になるはずだ。お前が実力で勝ち取った機会を、最大限に活かせ。後悔するような真似だけは、絶対しないようにしろ」

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