第6話

 イサクがその得体の知れない神々を語るようになったのは、シモンとイサクの兄弟が、唐突に最愛の両親を喪った頃からのことである。

 事故が起きたのはある冬空の、よく晴れた日であった。学者であった父親が、都で講演を行うこととなり、母と連れ立ち都を目指していた最中である。馬車が進むべき方角を誤り、細い山間の道に入ってしまった。引き返そうとしたところで落輪し、そのまま馬車諸共、二人は山間に消えていった――。

 両親の葬儀が終わる頃には、シモンもイサクも、これからは兄弟二人きりで生きていかなくてはならないのだということをよくよく理解していた。遠い街に住む親戚たちの関心事は、おおよそ両親の遺した遺産についてであり、シモンやイサクを引き取って育てようなどという声は、ついに一度も上がらなかったのだ。

「大丈夫だよ、シモン」

 幼いシモンの手を取って、まだ少年であったイサクは、「大丈夫だよ」と何度も何度も言い聞かせた。

「シモンのことは俺が守る。それに、……ほら、シモンにも聞こえるか? 淵の神様達だって、応援してくれているだろう?」

 はじめは何か、比喩のつもりでそういう話をしているのだろうかと思ったが、この兄は事に触れ、まるで本当にその場に何か、シモンには見ることのできない生き物が存在しているかのように、振る舞うようになっていた。

「淵の神様達が噂していたよ。シモン、お前劇団の古株に褒められたんだって?」

「こんな暑い日は、木の実を絞ったジュースを飲むのがいいって? シモン、聞いたかい? 今日は奮発して果物を買って、特別美味しいジュースを作ろう」

「叔母さん達も、悪気があるわけじゃないんだ。神様達もそう言っているだろ? だからシモン、彼らを恨んじゃいけないよ」

 それがあまりに真実らしく、日常的に語られるものだから、もしかするとこの兄には、本当にそれらの姿が見えているのではないかと考えたこともある。だがそれとなく周囲の人々に探りを入れてみても、シモンがどんなに目を凝らしても、その存在を目にすることなどできないのだ。

(きっとある種の、現実逃避なんだろう)

 弟とたった二人で取り残され、親戚たちから搾取され、思い出の残る古い屋敷を出て、小さな貸家に移り住んだ。元々病弱であった兄の身体は年々容赦なく衰えていき、最近では、切り絵の内職もままならない。

 気の毒な兄だ。気の毒で、そして優しい兄だ。こんなに弱っても、まだシモンのことを気にかける。シモンの兄でいようとする。

(イサクに負担をかけないために、劇団内で主役を任せられるようになるまで努力した。他所の町から通ってくるパトロンだって居るくらいだ。生活費だってイサクの薬代だって、俺一人の収入で十分に賄える。けどイサクにとって、俺は……いつまでも、守らなきゃならない弟のままなのか)

 優しい兄だ。それはわかっている。けれど。

(イサクは弱い。身体だけじゃなく、……心が)

 イサクは現実を見ようとしない。シモンと話しているときですら、結局の所彼が語りかける相手はいつだって、目にも見えない不可思議な世界の住人達ばかりなのだ。

「疲れた」

 小さく、小さく、声をひそめて呟いた。

(もう疲れた。似て非なる物を演じるのは、――『良い弟』を演じるのは、本当に、本当に、)

 骨が折れる。

 いっそシモンにも、イサクと同じものが見られたなら、と思うことがある。優しく弱い兄が言うことを素直に信じられたなら、どんなにか穏やかに過ごせるだろう。しかし不幸なことに、いつだって彼の目に映るのは、ただそこにある現実ばかりなのであった。

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