第5話

「エヴァンジール。結局最後まで、舞台の君には会いに行けなかった」

「あら、気になさることはございませんわ。お兄様はいつだって、この家でわたくしと会っておいでですもの」

 おどけた口調でシモンが返せば、「聞けたのはおまえの台本ほん読みだけだ」とイサクが苦笑する。

「でも、シモン。お前が今回も、喝采の拍手を浴びてきたっていうことは知っているよ。舞台でのお前の堂々たる振る舞いといったら、誰だって脱帽せずにはいられないんだから――。悲劇のエヴァンジールが迎える結末は切ないけれど、悲しさの中にも芯の通った強さがある、そういう彼女をお前は演じたはずだ。閉幕と同時に観客みんなが立ち上がって、熱気の籠もった劇場内で、口々に、称賛の声をあげたんだろうな。それを見たお前は笑顔で、冗談でも飛ばしながら、観客たちに手をふるんだ」

 半ば目を閉じて、夢想するように言うイサクの手に、リンゴを摺り下ろしたカップを渡してやる。「まるで見ていたかのように言うんだな」穏やかな口調を取り繕ってシモンが言えば、イサクは咳き込みながら、しかし、ようやく明るく笑ってみせた。「わかるさ」と告げる彼はなにやらこざっぱりとしており、その瞬間だけは、痩せ過ぎて骨ばった指も、色の悪い顔も、何やら力を帯びて見えるのだ。

「わかる。淵の神様達が、こぞって噂話をしていたからね」

 淵の神様。この土地に古くから伝わる、土着信仰の神のことだ。昼と夜の淵、空と大地の淵、家と外の淵、二つのものを繋ぐ淵というすべての淵には、そこに神が住まうと言う。

 今では信じるものもいない、伝説の類の存在である。だが、兄は、――

「お前も知ってるだろう? 彼らは賑やかなことが好きだからね。お前の舞台があると聞けば、みんなして見に出かけるのさ」

 兄の目には、その神々の姿が見えているのだと言う。

 イサクがその話を始めたのを見るや、シモンは薄く笑うと、何気ない風を装って彼に背を向けた。棚から薬包を出して、いつもどおり、発作が起きても手に取りやすいように並べてやる。しかしそうするシモンの態度など気にした様子もなく、イサクは続けてこう語り出す。

「淵の神様はみんなお前の演技が、……お前のことが、大好きなんだって。だから俺も、いつも彼らに頼むんだよ。そんなにシモンのことが好きなら、不幸が起こらないように、シモンが困った思いをしないように、どうか見守ってくれってね」

 水瓶からいくらか水をすくい、薄布を濡らして軽く絞る。懸命に『淵の神達』のことを語る兄の口調は弾んでいたが、まだいくらか熱っぽい。その額に濡れ布を置き、もう横になるようにとシモンが促せば、イサクは名残惜しげに、しかしうわ言でも口にするかのように、「大丈夫だよ」と呟いた。

「だからシモン、大丈夫だ。淵の神様達が、いつだってお前のことを守ってくれるんだから」

 「――そうだな、イサク」そう言って、シモンは微笑んだ。そうしなくてはならないのだから、せめて、うまく微笑んだつもりであった。だがシモンの意に反して、取り繕った微笑みは、そう長くは続かない。

 舞台の上でならいくらでも、もっと完璧な笑みを演じることができるのに。そう考えてイサクに背を向け、シモンは音を伴わないよう細心の注意をはらいながら、細く深い溜息を吐く。

「淵の神様達は、俺達のこと、ずっと見守ってくれてる――」

 弱々しいイサクの声が、ぽつりとそう呟いた。

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