第2話

「今宵、お目に掛けましたのは、悲劇のエヴァンジールの物語。このような弱小劇団の、三文芝居に金を落として下さる、酔狂なる皆々様にはぜひとも、愛をもって抱擁とキスを差し上げたいところでございます」

 「お前が本物のエヴァンジールなら、ぜひとも願いたいところだがね!」聞こえてくる幾つもの野次に、シモンは笑顔で手を振った。そうして他の役者達が挨拶を述べるのを横目に見つつ、ふと、客席の最前列、ともすれば幕に隠れてしまいそうなほど端の席へと視線を向ける。

(ああ、……今日も無理だったのか)

 熱を帯びる観客達など素知らぬ顔で、ぽかりとひとつ、空いたままになった席がある。シモンのためにと団長が配慮して、用意してくれた特別席だ。

 今朝は具合が良い様子であったのに、また発作が出たのだろうか。

(リンゴを買って帰らなきゃ)

 摺り下ろして飲ませてやったら、きっと彼は喜ぶだろう。そんな事を考え、半ば上の空にながら、周囲に混じって舞台を降りる。すると興奮冷めやらぬ様子の男が、明るく笑ってシモンの肩を叩いた。演出家のヒレルだ。

「いやあ、今回も最高だったぜ! お前の演じる薄幸の美女は、相変わらずそそるなぁ。本物の女より、ずっと美しいとさえ思っちまうぜ」

「おやおや、困った演出家さんだ。俺の正体など、あんたはようくご存知だろうに」

 無精髭の生えたヒレルの顎に手をかけ、妖艶な笑みを浮かべてやれば、相手が「かーっ!」と奇声を上げる。それを横目に通り抜け、頓着しない手つきで、己の纏ったドレスを脱ぎ捨てた。胸元の空いたシャツを羽織ると、するりと椅子に座り込む。同時に、劇場の外で販売していた軽食の残りを失敬するのも忘れない。片足を隣の椅子に乗せ、ラフな格好で、すっかり冷めた串肉を頬張っていると、狭い舞台裏を忙しく駆け回る道具係が、照明係が、そして衣装を変えた共演者たちが、口々にシモンをねぎらった。

 このシモンという名の少年は、ガリラヤ劇団一の人気女優・・であった。

 線の細い指に、白い肌。洗練された立ち居振る舞いに、たおやかな笑い方。女が舞台に立つことを良しとされないこの世の中にあって、シモンのように女優を務める少年俳優は多く存在するものの、これ程までの完成度に達した者は他になかなかいないだろうと、シモンは常々自負している。

「まさかお前が、役者としてここまで化けるとはな」

 そう言ったのは、先輩俳優のグールドである。「まあね」と口内の食べ物を押し込みながらシモンが言えば、「自信家なのは、相変わらずだ」と彼は笑う。

 シモンがこの劇団と出会ったのは、まだ両親が存命であった八つの頃のことであった。そのときに観たのがどんな演目であったのか、シモンは覚えていなかったが、両親と兄の家族四人で、シモンはこの劇団の舞台を見に訪れていた。華やかな衣装に飾り、美しい言葉の連なりに、シモンは、――シモン達兄弟は、すぐさま舞台の虜になった。

 田舎町の廃れた劇団だ。実際の舞台は所々が黴びていたし、道具も衣装もちゃちなものばかりであった。だが幼いころのシモン達は、まるで魔法にかけられたかのように、そこに輝かしい楽園を見出したのである。

「お前が『俺にらせろ』って押しかけてきたときは、驚いたけど」

「またその話か? これだからおっさんは、思い出話が多くていけねえや」

 馬車の事故で両親が死んだ十二の頃、わずかながらの遺産と共にこの世に取り残されたシモンとその兄は、二人きりで力を合わせて生きていかねばならぬ身の上となった。当時十六になったばかりの兄は生まれつき身体が弱く、また、ただでさえ遺産を巡っての親戚とのやり取りで、疲弊しきっていた。彼を支えるためにも、自分自身が食べていくためにも、シモンは早急に職を得なくてはならず、そうなってふと思い出したのが、――この劇団のことであったのだ。

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