夜明け前 5

 アザミがフトゥルム・アサヴァトリを出た頃には、夕陽が街を朱色に染め上げていた。母親が子供を連れ戻す声が遠方から聞こえて、どこからともなく香ばしい夕食の匂いが漂ってくる。だが温かな家族の団欒も、家々から漏れ出る柔らかな明かりも、全て遠い場所にあって手を伸ばそうと届くことはない。アザミの居場所はどこにもなくて、一人で街を彷徨うしかなかった。何も考えず歩いていると、無意識のうちに木々に囲まれた公園へと流れ着いていた。ベンチに腰掛け、ただ人影が段々と減っていく様子を見つめることしかできなかった。空色が茜から濃紺に移ろい行くに連れ焦燥感ばかりが募るが、だからといって現状を打破するアイディアも活力も沸いては来ない。

 不意に腹が鳴った。こんな時でも空腹を訴えてくる自分の体に少し呆れる。バスケットの中には、昼に食べたサンドウィッチの残りが入っていた。一つ手に取って口に運ぶ。

 ゆっくりと咀嚼して味わうサンドウィッチは、甘くて、しょっぱくて、辛くて、苦くて、仕舞には味が判らなくなってしまった。上手く飲み込めないのを思いきり喉の奥まで押し込んで、次の一つを齧る。一口、二口、口に含むたびに大粒の涙が瞳の端から落ちていく。一度泣き出してしまうと、心の隅に追いやっていた不安が途端に押し寄せる。どれだけ零れだす涙を拭っても、湧き上がる寂寥は拭い去れなかった。公園の隅をひっそりと照らす常夜灯が、まるでスポットライトの様にアザミを世界から切り取っている。昼間の賑わいは遠い記憶のようで、思い出の名残だけが静かに揺れる遊具に染みついていた。

 終電が通り過ぎた無人駅のような静寂が辺りを包んでいる。時折吹く風は木の葉をざわつかせて恐怖心を煽る。日の暮れた公園は段々と空気の温度が下がってきて、アザミは無意識に身体を小さくして震えていた。

 脳裏には父親の顔が浮かんでいた。何も告げずに旅立ってしまったこと、一人にさせてしまうこと、溢れ出す後悔は行き場を無くしてその場に留まり続けている。

やがて父の面影が薄れていくと、次に浮かび上がってきたのはフィエリスの慈愛に満ちた微笑だった。行き倒れていたアザミを救って、回復するまで世話を焼いてくれた彼女の厚意に何一つ報いることなく、帰郷を果たせなかったことに申し訳ない思いで一杯になる。目覚めるまで見守ってくれていたルメリアや、昼食を持たせてくれたセロシアからだって、多くの親切を受けていたのに。

 駅員の顔だって忘れられない。訳の分からないことばかり聞いてくる家出少女に対して、一切無下に扱うことなく丁寧に対応してくれた駅員。あの時助けを求めるような行動でもとっていれば、違う可能性があったかもしれない。それでも縋ることを諦めてしまったのは、自分の事情に巻き込みたくなかったからだ。これ以上他人に迷惑はかけられないと考えた。

 そうして自ら望みを絶った。そうだ、思い返せばアザミは生きるのが下手だった。人に頼ることが苦手で、我が儘を言うことができなくて、自分のことなんて何も知らなかった。

 だからだろうか、突然に話しかけられた声にも危機意識なんて感じることなく反応できてしまった。

 「おい、こんなとこで何やってんだ?」

 アザミは憔悴した虚ろな眼差しをゆっくりと声の主に向けた。声の主は三十代くらいの中背の男で、精悍な顔に皴を刻みつけて険しい面持ちでアザミを睨み付けていた。男は引き締まった体つきをしており、立ちはだかる姿は威圧感を与えている。

 何やってるんだも何も、そんなことはアザミが聞きたいぐらいだ。本当になんでこんなところで泣いているんだろうか。

 アザミが言葉を返さずにいると、男は低い声で質問を続けた。

 「家はどこだ? 近くか?」

 アザミは返事の代わりに俯いたまま首を横に振る。

 「喋れるか?」

 男は目線を合わせるようにしゃがみながら、少しだけ声色を柔らかくして話しかける。

 「……べ……ます」

 囁くような小声の返事は、ほとんど聞き取ることが出来なかったが、喋れることは伝わったようで、男はそうかと言って頷く。

 「とりあえず、こんな時間にこんな場所で一人で居ちゃ危ねえぞ、俺が家まで送って行ってやる。なんか身分証とかあるか?」

 アザミは制服の内ポケットを探る。確か学生証が入っていたはずだ。幸い財布の様に失われることなく内ポケットに入ったままだったので、それを男に呈示する。男は「いいか?」と確認してから受け取る。どうせ渡したところで記載されている情報など何の当てにもならない。だから、たとえ個人情報が載っていたとしても、見知らぬ男に学生証を見せることに何の抵抗も無かった。案の定男は眉を顰める。

 「何だ? コレ」

 男の視線は困ったようにアザミと学生証を往復する。おもちゃのカードを出して、からかっていると思われたかもしれない。

 だが男は怒ったりすることはなく、無線機でどこかに連絡を入れていた。そして無線機の向こうの相手とのやり取りが終わると、不思議そうな表情で見つめるアザミに学生証を返しながら少しだけ心配するように問う。

 「ほらよ、お前、もしかして訳アリか?」

 どこまでの事情を察したのかは知らないが、ともかく目の前にいるのがただの家出少女では無いらしいことは理解したようだ。

 「はい」

 アザミは小さく、短く反応する。

 「そうか、んじゃとりあえず安全な場所に案内するからついて来い。立てるか?」

 そう言って手を差し伸べる。アザミはその手を握り返して立ち上がった。そして男に連れられるがままに広場を後にした。

 公園の入り口には一台の車が止まっていた。大きな通りに面しているはずなのに車の往来は少なく、人影はアザミと横にいる男の二人だけだ。いつの間にか夜が深くなっていたらしい。男は止まっている車に近寄って、運転席に座っている人物に話しかけている。アザミが黙ったまま待っていると、運転手と話し終えた男が後部座席のドアを開けて入るように促す。

 「後ろに座ってくれ」

 促されるままに後部座席に乗り込むと、男は助手席に座った。運転手が車のエンジンを入れながら助手席の男に話しかける。

 「どこまで行くんですか?」

 運転手の声は若々しい印象で、二十代前半くらいだろうか、何となくフィエリスと同年代くらいのような気がする。

 「とりあえずクレメント邸だな、この子を送っていく」

 「また随分遠いですね、りょーかいです」

 運転手の口調は軽いもので、二人の距離感は近しいことが窺える。そのうち動き出した車内は暗く、後ろに流れていく街灯の明かりが規則的に入り込んでくるのみだった。一定のリズムで繰り返される光と振動が、睡魔となって心身ともに疲弊したアザミの意識を支配する。視界の端から段々とぼやけていって、いつしかアザミは眠りに落ちていた。

 身体に軽い衝撃を感じてアザミが目を覚ますと、乗っていた車が止まっていた。周りの景色は高層ビルの立ち並ぶ都市部から閑静な住宅街に変化している。眠っていたのでアザミにはよくわからないが、もしかしたらかなりの距離を移動してきたのかもしれない。外の様子を眺めていると、いつの間にか車を降りていた男がドアを開いた。

 「到着だ、ついて来てくれ」

 アザミはバスケットと魔法の杖を持ったことをしっかり確認して、男の後に続いて歩いていく。寝静まった街の様子は都市部以上に静かで微かに吹く風の音がよく聞こえる。纏わりついていた眠気も、夜風に当てられてすっかり剥がれてしまった。少しだけ歩くと大きな屋敷の前に着いた。他の住宅とは一線を画す、見るからに豪奢な屋敷だ。窓はカーテンが閉め切られているが、所々から廊下の明かりが僅かに顔を覗かせていた。そして屋敷の玄関の前には、金髪の青年が一人立って客人の到着を待っていた。真夜中だというのに、太陽のような笑顔を輝かせながら。

 「おかえりなさいませ。お疲れでしょう、お夜食の準備ができております」


 結局、アザミは家に帰るどころか屋敷の元を離れることすら儘ならなかったということになる。それは笑顔で送り出したフィエリス達の思いを裏切る行為の様に思えて、アザミは申し訳なさで一杯になってしまうが、しかし当の本人たちはあまり気にする様子もなく、ただ優しげな眼をしてアザミに向き合っている。

 「そっかー、じゃあお家に帰ることは出来なかったんだね」

 「はい、その……すみません」

 「あはは、なんで謝るの。大丈夫だよ、しばらくここで過ごせば良いから」

 その笑顔は赤子をあやす母親の様でもあり、アザミはますます自分の至らなさを痛感する。そんなアザミの様子をどのように受け取ったのか、フィエリスは話を切り上げようとする。

 「まあ、今日はもう疲れてるよね。寝よっか」

 アザミはそれでも上手く気持ちを切り替えられず、黙ったまま動き出せない。甘えてばっかりで、自分勝手に振る舞って、周りに迷惑ばかりかけている。そんな自分が許せなくて、ただただ悔しかった。混沌としたアザミの精神は、摩耗し始めていた。

 「アザミちゃん、今朝の話覚えてる?」

 フィエリスの問いかけは突然だった。透き通った声が栞の様にアザミの思考に挟み込まれる。アザミは記憶の頁を捲って、フィエリスの言おうとしたことを探ろうとする。フィエリスは更にヒントを呈示するように言葉を続ける。

 「アザミちゃんの持ってるその魔法の杖、おとぎ話の中ではちゃんと持ち主がいたの。その人は魔法使いって呼ばれてるんだよ」

 アザミはあまり覚えていなかった。その時には家に帰ることで頭が一杯だったから。それにしても、魔法の杖を持つのが魔法使いというのは当たり前の話にも聞こえるが、しかしアザミはそこに違和感を感じ取った。

 「魔法使いって……でもみんな魔法が使えるんですよね?」

 ここはそういう世界のはずだ。そこまではフィエリスが説明していた内容を覚えている。この世界の住民ならば誰しもが魔法を有していて、例えば目の前のフィエリスが持つものは「撥水」。それは実際に自分の目で確かめたのだから間違いない。それぞれが違うとはいえ、魔法を持たないものはアザミを置いて他にはいない。ならば、特定の人物を魔法使いと呼称するのには違和感が残る。

 「そうだね、確かにみんなが魔法を使えるんだから、みんなが魔法使いであってもいい筈なのにね。だけど魔法使いはこの世界に一人だけ。それはね、その人が魔法という現象を扱える唯一の存在だからなの」

 「魔法という現象?」

 「うん、私たちの扱う固有魔法は特定の現象を任意に発動させる。今朝私がやったみたいに、撥水という現象をテーブルナプキンという対象に固定して発生させたようにね。けれど魔法使いは違う。魔法使いは魔法という現象を任意に発動させるの。つまり私が撥水という固有魔法を持つのは魔法使いの魔法によるものなの。魔法というシステムの管理者権限って言ったらわかりやすいかな」

 魔法というシステムの管理者権限。

 その表現は確かに理解しやすい。魔法は全ての人間に与えられたものではあるが、その使役が可能なのは固有魔法を持つ者の他に、より上位の命令系統が存在するということだろう。そしてその存在こそが魔法使い。

 「魔法使いはおとぎ話の中で、魔法の杖を振るって魔法の管理者権限を扱ったとされている。なら順当に考えれば、その管理者権限は魔法の杖の方が有していると考えてもいい筈。もっとも、私達みたいに道具を使用せずとも魔法を扱える可能性だって無いわけじゃないけど、その場合でも魔法の杖が何の意味も持たないなんてことは無いでしょうね」

 アザミは傍に置いた魔法の杖に意識だけ向ける。一つだけ思い当たる出来事があった。それはこの世界に飛ばされてきた時のこと、あの荒れ果てた草原の中で黒衣の襲撃者に襲われたアザミは、咄嗟に魔法の杖を使って迎撃を行った。刹那の出来事ではあったが、アザミの身体能力では説明できないほどのスピードで反応したのだ。あの動作が魔法の杖に寄るものであると考えたなら、フィエリスの説明とも辻褄が合う。

 「それでね、アザミちゃん、ここからが本題なんだけど」

 そういってフィエリスはアザミの様子を窺いながら、一拍だけおいて続ける。

 「その魔法の杖の扱い方をちゃんと理解できれば、もしかしたら元の世界へ戻るヒントも見つけられるんじゃないかな?」

 海の奥底に潜っていた元の世界に帰るという選択肢の元に、一筋の希望の光が差し込んできた。一度ならず二度までもフィエリスという少女は、絶望の深海に沈むアザミをすくいあげたのだった。

 「わかりました。ありがとうございますフィエリスさん。私、魔法の杖を扱えるように頑張ってみます」

 アザミの声が、少しだけ和らいだ。フィエリスによって道が示されたのだ。そして今度は、自らの意思で思いを言葉にする。

 「だから、私をフィエリスさんの下で働かせてください!」

 それはフィエリスにしてみれば意外な申し出だった。フィエリスは少しだけ驚いたような表情を見せながら、逡巡する。停滞する空気の中で口を開いたのは、これまでずっと後ろに控えていたセロシアだった。

 「良いのではないですか? お嬢様。お客様たってのご希望なのですから」

 「そう? アザミちゃんがそういうなら、まあ断る理由もないけど」

 「はい、よろしくお願いします。精一杯頑張ります」

 こうして、アザミは異世界の地で新たな生活を始めることとなった。たった一つ、その手に握られた魔法の杖を、元の世界への帰路の手がかりとして。

 そして、向かい合うもう一方の少女、フィエリス=クレメントにとっても、この夜こそがその生涯で一番の、忘れることの出来ない大仕事の幕開けとなるのであった。

 カーテンの隙間から覗く月明かりが、ただ静かに二人の少女の行く末を見据えていた。


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