夜明け前

夜明け前 1

 頬を撫でるような優しい風が通り抜けていった。

 少女・紫門アザミは広大な草原の中に一人立っていた。

 息を吸い込むと、体の最奥まで清らかな空気で満たされた。微かな草と土の匂いが遅れてやってくる。

 辺りには青々とした草が茂っており、地の果てまで続いているようだ。遮蔽物は無く、視界の届く限りは一切が淡い緑に埋め尽くされている。世界が輝いている様に見えた。それらは全てアザミにとって見覚えのない景色だった。先ほどまで居たのは、冷たいアスファルトの上だったはずだが。

 ここは、天国だろうか。

 イメージしていたよりも随分と具体的な感覚がある。もっとふわふわした世界だと思っていた。何というか、生きている実感があるような。

 服装も天使が身にまとっているような白くゆったりとした服でもなければ、幽霊の様に襦袢を着ているわけでもない、直前の記憶にあるのと同じく学校の制服を着ていた。トラックの横転事故に巻き込まれたはずだが、擦り切れていたり自分の血で汚れていたりということはなかった。どころか雨で濡らされたような痕跡もなく、完全に綺麗な状態になっている。

 さらにアザミは右手の感触に違和感があることに気付いた。何かを握っている?

落ち着いて目線を落とすと、そこには刀の様な物が在った。細長く両側に刃がついている。ただしアザミの知る一般的な刀剣と違って鍔が存在しなかった、あるのは手にしている柄の部分と、そこから伸びる刀身のみだ。その刀身も鉄製ではなく、クリスタルを思わせる半透明の鉱物を加工したものらしかった。宝石剣というのだろうか。

 長さは70cmといったところで、ごく平均的な少女の体躯をしているアザミにとって、それはかなりの大きさに感じられた。しかし大袈裟な見た目の割にはあまり重さを感じない。今まで手に持ったことがあるもので例えるなら、せいぜい掃除用の箒より少し重い程度ではないだろうか。試しに手元で回してみたり、反対の手に持ち替えたりしてみたが、全く不自由なく操ることが出来る。それどころか、まるで何年も使い続けているかのごとく身体に馴染んでいる。頭上に放り投げて背面でキャッチするような、抜き身の刀剣で行うにはあまりにも危険すぎる芸当も、難無くこなせてしまった。剣道などを習ったりはしてこなかったのだが、ひょっとして剣技の才能でもあったのだろうか。

 振り回すたびに光の屈折率が変化して何通りもの輝きを見せる宝石剣を観察し終えたところで、あることに思い至る。

 鞘が見当たらない。

 通常刀剣の類であれば、それを仕舞う鞘があるはずだ。しかし辺りにそれらしきものは落ちていない。草の長さは足首より少し上くらいまで伸びているので、もしかしたら陰に隠れて見えないのかもしれないが、だとしたらこんな広大な草原の中で草をかき分けてまで探す気にはなれなかった。

 鞘を探すのは諦めてアザミはその場に腰を下ろした。これはいったい誰のものなのか、そして何故私が持っていたのか、疑問は尽きないが焦って考える必要もないだろう。

 何せもう死んでしまっているのだから、時間は無限にある。

 自ら解決に乗り出さずとも、待っているだけでこの宝石剣の持ち主に巡り合うこともあるだろう。

 そう結論付けて、アザミは更に姿勢を崩し大地の上に仰向けになった。こうすると、先ほどより一層草の音や匂いが近くに感じられた。目が向く先には空がある。透き通るような青空の中で、ゆっくりと雲が流されているのが分かった。心地よい風に身体を預けて、生きていたころには目を背けていた自然の優しさ、美しさでも探してみようか。

 と、そこで風が凪いだ。

 次の瞬間、大地を震わす轟音が空気を裂いて押し寄せた。

 アザミは何が起こったのか咄嗟には理解できず、その場で硬直する。すると続けて第二、第三の轟音がやって来た。心臓が途端に早鐘の様に打ち始め、体温がみるみる上昇していく。辺りに雨雲はなく、落雷による轟音の可能性は無いだろう。だが空気が震えるほどの衝撃である、近くで発生したら無傷ではいられないことは想像に難くない。そこでようやく何となくではあるが、どうやら危険らしいことに気付いた。だが、

 危険?

 既に死んでいる身で今更何を危険視する必要があるのだろう。むしろ、気づけばこの場所に連れてこられていて、何をすべきかも理解していないアザミにとって、これは今後の指針を立てる手がかりになるのではないか。突然の轟音に過剰反応するような身体とは対照的に、思考は自分でも意外に思うほど落ち着いている。よし、様子を見に行ってみよう。

 通常ならばあり得ないほど楽観的な選択ともいえるのだが、心臓が発する警鐘をすべて高揚感、好奇心に書き換えてしまったアザミには、一刻も早くこの場から逃げるなどという選択肢は既に存在しなかった。立ち上がって体についた草を払い落とし、右手の宝石剣を確認する。少し、輝きが増しているような気がした。


 しばらく続いた轟音だったが、アザミがその発生地を視認できるようになる頃にはすべて止んでしまっていた。そもそもアザミにはそこが轟音の発生地だとは全く理解できなかったのだが、何せ人影が相対する形で二つ存在するのみだったのだから。否、正確に言うならばその周囲には焼き払われた草花、或いは宙に舞った土煙によって視界を遮られた灰色の空気、或いは大きく穿たれ何層も下の土が露出した大地があった。見るも無残に破壊されつくした自然は、二名のもはや人間かどうかも疑わしくなった人影による激戦の後を如実に示していた。理解はできずとも納得するほかない。

 改めて二つの人影を観察する。片方は女性だろうか、長い髪が特徴的で白を基調としたドレスのような装束に身を包んだ人物。しかし度重なる攻防の末に服は擦り切れ、ところどころ土汚れが目立っている。地に膝をついている姿勢から判断するに劣勢と思しい。対する一方、優勢と見られる人物は直立したまま動く気配を見せない。その全身を黒のローブで隠し、深くフードを被っているため、男性か女性かも、大人か子供かも判別がつかない。両者ともに武器らしきものを所有している気配は無いが、だとすると目前に広がる破壊の爪痕に説明がつかない。何かを隠し持っているのかもしれないと、度重なる鼓動の注意喚起を無視し続けて、アザミは更に両者に近づこうとすると、手にしていた宝石剣が突如光りだした。

 「え、何これ?」

 いきなり光りだした宝石剣に、不注意にも思わず声を上げてしまった。両者を視認できる位置にいるということは、当然向こうからも感知される可能性があるということである。アザミの存在は、凄惨な光景を生み出した破壊者たちにすぐさま見つかった。

 一番早く動いたのは黒衣に身を包んだ人物であった。

 こちらに気付くと同時に一直線に迫ってくる。その速度はもはや人間のそれではなく、小型の戦闘機に近い、到底逃げることなど叶わない。人外の動きをする黒衣の襲撃者に対し抵抗を諦めかけたその時、アザミの身体が前方へと引き寄せられた。急接近する黒衣の襲撃者に対し一歩二歩と踏み込んだところで、今度は自然と下段に構える形となった宝石剣を思いきり振り上げた。

 切り上げ一閃。その軌跡から光の粒子が零れ落ちる。

 自分の意思に反し勝手に迎撃の姿勢を取った身体に、アザミの表情は驚愕に塗りつぶされる。

 しかしタイミングが早かったようで、黒衣の襲撃者には一寸ばかり届かなかった。すんでのところで斬撃を回避した黒衣の襲撃者は、飛び退いて距離を置いてから、逡巡した後どこかへ去ってしまった。

 その間アザミは突然の、それも今までの自分の人生で経験したことの無い衝撃的な出来事に思考が追い付かず、意識が宙を彷徨っていた。何とか現状を整理しようと意識を取り戻したときには、黒衣の襲撃者の影は跡形もなくなっていた。どうやら自力であの化け物じみた存在を退けたらしい、見逃されたと考える方が適切かもしれないが。途端に身体が脱力感に包まれ、その場にへたり込んでしまった。轟音を聞きつけた時の何倍もの速度で心臓が鼓動を打ち続け、身体を小刻みに震わせる。自分が安全であるということを強く認識する。

 なんなんだ、ここは天国ではなかったのか、私は死んだのではなかったのか、もう二度と死ぬことなど無かったはずでは、あの痛みや苦しみからは解放されたはずではないのか。困惑による中枢神経系からの糾弾を、本能はたった一言で制する。

 生の実感である。

 雨の日、トラックの下敷きになって死んだはずの紫門アザミは、遥かなる異世界の地にて、確かに生きていた。


 激しい戦闘を繰り広げたらしき二者のうち黒衣ではないもう一方、白の衣装を着た女性がアザミのもとに辿り着いたとき、当の本人は地に倒れ伏していた。緊張の糸が切れて眠ってしまったのだろうか、起き上がる気配は無い。

 近くまで寄って確認するが、無垢な顔で小さく寝息を立てているだけだ。その手には宝石剣が決して離すまいと固く握られていた。アザミ自身は気づくことはなかったが、彼女が宝石剣を振るった瞬間、膨大な光量がその刀身から放たれていた。その光をあの黒衣の人物は、一瞬のうちに全て処理してしまっていた。どうやったのかはわからないが、あれがそのまま放たれていれば、自分もタダでは済まなかっただろうと白衣の女性は分析する。宝石剣の観察を終え、女性の目は再びアザミへと移る。見た目は何の特徴も無い十代女子そのものであるが、先ほどの壮絶な一閃を目の当たりにした後では警戒せずにはいられなかった。

 「さて、どうしたものかしら」

 表情こそ柔和な微笑を浮かべているものの、その声音には面倒なことに巻き込まれたというような自嘲や、面白いものを見つけたときの好奇など様々な感情が含まれていた。アザミからすれば、この女性も黒衣の人物同様警戒に値する人物なのだが、寝ているのでは警戒のしようもない。女性はアザミに起きる様子が無いことを完全に確認してから、

 「それにしても」

 変わった格好ね、と。こちらは心底楽しそうに呟いた。

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