夜明け前 2

 トットットットットットット

 小気味好い音を立てながら、まな板の上の人参に包丁を入れていく。この十数年の間に家事経験で培った料理の腕前は確かなものだ。動きは体に染みついていて、意識せずとも勝手に動いてくれる。

 習慣的な慣れによるものか、私は無意識のままに台所に立っていた。気づいたらここで作業をしていたのだ。ボーっとしながら人参を切っていたなんて、我ながら危なっかしい。時計を確認すると、もうじき八時になろうかという頃。さっきまでは明るい場所に居たような気がするが。頑張って思い出そうと、今日あった出来事を記憶の中から探ってみる。学校から帰って洗濯物を取り込んで、それから買い物に出かけて、途中でクラスメイトの女の子と会って、買い物が終わったら雨が降ってきていて、それで……

 それで?

 そこからの記憶が現在と繋がらない、本当に気づいたら台所に立っていた。これが長年のルーティーンワークの成果なのだとしたら、自分で自分が恐ろしく感じる。もしかして寝ながら家まで帰ってきて晩御飯の支度を始めたのか?

 頭が混乱し始めたところで、横から肉の焼ける音に意識を戻される。ひき肉を混ぜ合わせて小判型に形成されたものが、フライパンの上でジュウジュウと熱されている。ハンバーグだ。慌ててひっくり返すが裏面は黒く色づいていた。失敗した、少し焦げてしまった。そうだ、お父さんにハンバーグを作っていたんだった。切り終えた人参を電子レンジに入れて温める。丁度晩御飯の支度を終えたところで玄関のドアが開く音がした。お父さんだ。

 「お帰りなさい、晩御飯できてるよー、おと」

 言いながら父を迎えようとする私の言葉は、けれどそこで途切れた。

 玄関に立っていたのは、父ではなかったからだ。黒いローブを纏いフードの奥に素顔を隠したその人物は、私の方をじっと向いて立っている。周囲には黒い靄がかかっているようで輪郭が判然としない。ここは私の家で、出入り口は一つしかない。そしてその唯一の出入り口である玄関には、不穏な空気を漂わせる漆黒の異様が佇んでいる。逃げ場など存在せず、私は恐怖に圧されその場にへたり込んでしまった。

 「い、嫌、何で、どうして、怖いよう」

 そうだ、全て思い出した。私は転倒したトラックに押しつぶされて、天国に飛ばされたと思っていたら遠くで爆発が起こって、そして近くまで見に行ったらこの黒い人に襲われたのだ。

 黒い影は揺らめきながら躙り寄ってくる。靄は動きに連れてより濃く、より大きくその姿を変質させながら、私の周りを囲むようになり、遂には家全体をも覆いつくした。私は膝を抱えて身体を丸め込み、震える声でただか細く悲鳴を上げることしかできなかった。

 「助けて、誰か、お願いだから、ねぇ、やだ、やだぁ」

 その声を聞き届けるものなどどこにもいない。唯一人、目の前の侵入者を除いては。

 そして、私の視界は黒く塗りつぶされた。


 跳ねるように身体を起こしたアザミが居たのは、大きなベッドの上だった。呼吸は荒く、髪の毛は複雑に縺れ合っている。息を整えるために上下に揺れる身体からは、大量の汗が吹き出し滝の様に流れていく。胸に手を当ててみると脈打つ心臓の鼓動が確かに感じられる。悪夢から逃れてきたアザミは、辺りに黒い影の気配が無いことを感じ取ってから、ようやくここが現実世界であることを理解し安堵する。命までは取られなかったらしい。

 「お目覚めになられましたか」

 「ひぃっ!」

 安心しきったところに突然横から声をかけられて、思わず悲鳴をあげてしまった。目を向けると、女性が椅子から立ち上がっている。二十代半ばだろうか、透き通った声のイメージをそのまま人の鋳型に押し込んで作られたようで、高めの身長にすらりと伸びた手足からは繊細な印象を受ける。しかし、整った顔立ちには堅い無表情が貼り付けられ、その上から眼鏡をかけて感情を読み取れないように隠してしまっていた。髪は頭の後ろで纏められ、カッチリとした服装に身を包んだ姿は現代風の美人秘書を思わせる。

 「お嬢様をお呼びしますので、そのまましばらくお待ちください」

 呆けているアザミの様子など意に介する風もなく、女性は最低限の連絡事項だけを残して部屋を出ていった。

 「へぇ?」

 目をぱちくりさせながら気の抜けた声を発した時には、女性が出ていったドアは既に閉まっていてアザミは部屋に置き去りにされていた。

 お嬢様?

 ぼんやりと女性の口にした単語を反芻する。21世紀の日本を生きるアザミの日常生活においておよそ耳馴染みのない単語であるそれは、ドラマや映画の中、フィクションの世界にしか存在しないものであったはずだ。だが先ほどの女性は確かに「お嬢様」とはっきり口にした。冗談を言っている風にも、騙そうとしている風にも思えない、至って真剣な口振りで言ったのだ。もっとも、あの美人秘書お姉さんの無表情から何か意思を読み取れたのかと聞かれれば、決してそんなことはないのだが。

 改めて辺りを見渡してみると、高い天井に壁の大部分を覆うアーチ状の連続した窓、床に敷かれた見るからに高級そうな絨毯、それから備え付けのテーブルや椅子に至るまで、その全てに華美で品のある意匠が凝らされており、なるほどこの部屋ならばお嬢様と呼ばれる人物が生活していても不自然ではないと思わせられるだけの説得力はあった。これもまた決して裕福ではなかったアザミの知るところではないが、現代風に言うならば高級ホテルの一室に近い雰囲気がある。もっとも今その部屋にいるのは、他ならぬアザミ自身なのだが。

 窓の向こうには澄んだ青空が広がり、巨大な雲を幾つも浮かべている。静かに流れる雲の動きに、アザミは部屋の中に居ながら風を感じた。空の下には緑の庭が置かれ、手入れが行き届いた様子からは庭師の生真面目さが窺える。色鮮やかに咲き誇る花々が、客人をもてなすように微かに揺れていた。穏やかな陽射しが差し込み部屋の半分を照らし出す様は、まるで外の景色を室内まで運び込んでいるようだ。だがアザミの元まではその光は届かず、一人陰の中に取り残されていた。

 アザミがベッドの上で窓の外に見惚れながら放心していると、その背後でドアが大きく音を立てて勢いよく開け放たれた。

 「おっはよーう! 調子はいかが? よく眠れたー?」

 それまでの平静を打ち破るように、大声を張り上げながら部屋に入り込んできたのは髪の長い女性だった。先ほどの秘書風のお姉さんがいきなり豹変して戻って来たのではなく、全く別のお姉さんが陽気な調子で部屋に入ってきたのだ。この人がお嬢様だろうか? だとすればかなりイメージから外れているお嬢様だ。お姉さんはニコニコしながらアザミのいるベッドの側までやって来た。人好きのする朗らかな笑顔を向けられてアザミは硬直する。それは活発な人間を相手にするのが得意ではないアザミ元来の性格に寄るものでもあるのだが、それに加えて目の前の人物は、

 「んー、どったの? 顔色悪いよー? 大丈夫?」

 様子を窺うように覗き込んでくる女性を逆に観察するが、間違いない。あの轟音の中心地に黒衣の襲撃者と共に居たもう一人の人物だ。汚れてこそいないもののあの時と同じ服を着ていた。アザミは警戒レベルを一気に引き上げ、いつでも抵抗できるよう宝石剣を握ろうとする。

 「あ、あれ?」

 しかし、その手は宙を切る。宝石剣がどこにもないのだ。

 辺りをキョロキョロと見回すアザミの様子を、何か探し物でもしているのだろうと受け取った長髪のお姉さんは(探している対照が物騒なだけで、実際間違ってはいない)得心したように手をポンと打って、

 「あー、あれか! ちょっと待ってて、取ってくるから」

 と言い残し嵐の様に部屋を出ていった。そしてすぐに戻ってきた。

 「はい、コレでしょ」

 どうぞ、と彼女が差し出してきたのは、アザミの制服だった。今の今まで他の情報量が多すぎたせいで気にもしなかったが、現在アザミが着ているのはフリルのついたファンシーなデザインのパジャマだった。

 「あ、ありがとうございます」

 戸惑いながらも制服を受け取る。

 「それからコッチも」

 と今度こそ宝石剣を差しだしてきた。

 しかしその持ち方に強烈な違和感を覚える。彼女が握っていたのは、柄ではなく刃の部分だった。アザミは小学校の頃に「ハサミを人に渡す時は刃を相手に向けないようにしましょう」と習っていたが、それは閉じたハサミの刃が内側に向くからこそできる持ち方であり、外に(それも両側に)刃が向いている生身の刀剣をそんな風に持ってしまっては、礼儀作法どころではなくただの自傷行為になってしまう。

 「あ、あの、それ、危ないですよ」

 恐る恐る指摘する。

 「へ? 何で?」

 当の本人は何が危ないのかわからないといった様子で、事も無げに刀身を握っている。思いっきり握りしめている。けれどそんな彼女の手のひらからは、一滴の血も流れてはいない。

 「ひょっとして皮膚が滅茶苦茶堅いとか……」

 剣を握る手を見つめながら疑問に思ったアザミが零すと、お姉さんは途端に破顔して爆笑しだした。

 「あははははははははは! ちょっと、ダメ、いひひ、それふふ反則ふふ、あはは、苦しいひひ」

 自分をよそに一人悶えるお姉さんを、アザミは不思議そうな顔で見つめる。

 「ふぅ、違うの、これはね、斬れない剣なの、うふふ」

 息も絶え絶えになりながらお姉さんは説明する。斬れない剣? なんだそれは? だが、お姉さんから手渡された剣の刃の部分にそっと触れてみると、確かにアザミの指は傷つかなかった。加工してあるようで、強く指を押し当ててみても跡がつく程度だ。

 「これはね、本来戦いの為に使う剣じゃないの、だから人を斬ることなんてできない」

 もっとも剣ですらないんだけどね、と付け足した。あまり上手く理解が出来なかったアザミだが、一つだけ得心いったことがある。

 (だから鞘が無かったのか……)

 刃が周りの物を傷つけないのでは、鞘に入れて仕舞っておく必要性も薄くなる。草原で目が覚めたとき結局探すことを放棄したのだが、そもそも鞘自体が無いのではどうしようもなかったというわけだ。

 それとこれまでのやり取りの中で、アザミはお姉さんに対する警戒心を徐々に解き始めていた。目の前にいる人物からは敵意というものを全く感じない。人の機微には疎い方であるアザミにもそれは理解できた。人の機微に疎いからこそ、とも言えるかもしれないが。

 「あの、もしかして私を助けてくれたのはあなたですか?」

 完全にとまでは言えないまでも、かなり警戒を解いたアザミは信頼を示すように訊ねた。しかし、その質問にはお姉さんはすんなりとは首肯しなかった。

 「うーん、まあ半分はそうかもねー」

 半分とはどういう意味だろうか、もしかしてもう半分は捕まえて奴隷市場に売り飛ばす気だったとか。要領を得ない返事のせいで良くない方向に想像が傾きかけるが、お姉さんはそれ以上答えようとはしなかった。

 意志の弱いアザミはこういう状況が一番苦手だった。精神を安定させるために、何か信頼できる対象が欲しい。たとえそれが間違ったものであっても、自分が身を任せられる対象であれば何でもよいという、ときに危うさも孕んだ他力本願の考え方がアザミの根底には存在した。

 不安げな表情を見せるアザミを気遣うように、お姉さんは話題を逸らす。

 「まっ、お姉さんのことは信用してくれて大丈夫だよ。少なくとも衣食住は保障してあげるから。だからそんな顔しないの。ね」

 優しい口調で顔を寄せてくるお姉さんに、アザミは顔を紅潮させる。あまり意識していなかったが、このお姉さんも先ほどの秘書風の女性とは系統の違う美人だった。慣れない他人とのスキンシップに身を強張らせるアザミは、頭の片隅でお姉さんの言葉の端に引っ掛かりを覚える。

 衣食住? 一宿一飯ではなく?

 それではまるで、この場所に長期滞在するようなニュアンスが含まれている。アザミは礼をしてすぐにでも家に帰るつもりでいたのだが、お姉さんには余程重症に見えたのだろうか。

 「あ、あの、もう大丈夫ですから、お家に帰らないと、お父さんも心配してますし、お世話になりました、ありがとうございました」

 これ以上の迷惑はかけられないと、慌てて起き上がってベッドの上でお姉さんに向き直り礼を言う。

 「あら、そう?」

 少し残念そうに反応を返すお姉さんに、手に持っていた宝石剣(剣ではないらしいが)を差し出す。

 「それから、これ私のものじゃないんです。誰のかわからないんですけど、気づいたら持っていて、だから、良かったらお礼に貰ってください!」

 今ある手持ちの中では一番価値があるものだと思ったのだが、お姉さんは受け取れないと、その手を押し返してきた。

 「駄目よ、それはあなたの物なんだから」

 その顔は慈愛に満ちていて、物品で礼をしようとした自分の行いが酷く浅ましいものであったと、反省しながら羞恥の情にかられた。だが、お姉さんの言葉は別にお礼を受け取らないという意味ではなかったらしく、訂正しながら言葉を付け加えた。

 「そうじゃなくてね、これは正真正銘あなたの物なの。あなたが持っているべき物なのよ」

 そう言われても、いきなりあの草原に立っていて知らぬ間に剣を握らされていただけなのだが。だいたい何故このお姉さんはこうも断言するように私の物だと言っているのだろうか。何か知っていることがあるなら教えてほしいとアザミは思う。他ならぬ私自身が何も分かっていないのだから。

 「この剣について何かご存じなんですか? えっと、剣でもないんでしたっけ?」

 「ああ、それはね」

 と言いかけたところで部屋のドアがノックされたので話は中断された。お姉さんが声を潜めて「いい?」と確認するので、アザミは黙って首肯する。

 「どうぞー」

 「失礼します。お客様、お嬢様。朝食の準備が整いました」

 声の主は金髪で長身の男性だった。浴びた日光をそのまま返すように輝くサラサラの髪と、見るものを一人残らず魅了するような爽やかな笑顔は、まるでその人自身から光が発せられているかのような錯覚さえ起こさせる。その見た目は優しげな口調と相まって白馬の王子様のようでもあり、こちらがお坊ちゃまと言われる方がまだ目の前の女性がお嬢様と呼ばれるよりは説得力があった。しかし、着ている服装は先ほどの秘書風の女性と同系統のカッチリとした印象を与えるデザインで、静かに佇む青年の肩書を白馬の王子様から美男子執事へと書き換えていた。

 「はーい、すぐ行きます。ありがとうセロシアさん、下がっていいですよ」

 「失礼いたします」

 お姉さんが慣れたように返事をすると、セロシアと呼ばれた青年は退室した。

 「せっかくだから、朝ご飯食べていってよ。話の続きもその後するから」

 お姉さんからの提案に、アザミは断る理由も見つけられず素直に頷く。

 「は、はい」

 反応が遅れたアザミを見て、ちょっかいでもかけるように

 「カッコいいでしょ、セロシアさん」

 とお姉さんは少し意地悪く笑う。

 心の内を覗かれそうになったアザミは、顔から火が吹き出しそうになるのを堪えて、沈黙しながら俯いた。


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