少女幻想紀行~隣の世界の歩き方~

@syoshinsya

プロローグ

プロローグ

 桜の季節が過ぎ去って風の温度を感じるようになった日、午後の微睡みを抜けて窓の端に太陽がかかっていた。終業のチャイムが鳴り、教室の空気は途端に弛緩する。日直の生徒が換気の為に窓を開け放つと、壁に画鋲で止められた掲示物の端がはためいた。風が抜ける音、葉擦れの音、生徒同士の話し声、教室に出入りする足音。徐々に鮮やかな音色が染み渡っていく。

 私は、そんな世界の一部だった。

 中間テストが数日後に迫った学生には、放課後の開放感を味わう余裕はあまり無いようで、多くは教科書や筆記具を鞄に仕舞い込んで帰り支度を整えている。

 「ねえ、紫門さん」

 不意に後ろから自分の名を呼ばれる。振り返って見てみると同じクラスの女子がいた。

 「どうしたの?木村さん」

 「この後もし暇だったら一緒にカラオケ行かない?他の子も誘ってあるしさ」

 中にはこういう子もいる。うちのクラスに真面目な生徒が多いだけで、世間一般ではこういった子の方が多数派なのかもしれない。私はこういった明るい子と遊ぶのは何だか苦手だった、賑やかなグループの中に混ざっている自分が想像できないからだ。得も言われぬ後ろめたさを感じてしまう。

 「勉強はいいの?」

 せめて言い訳がましくならないように、茶化した感じで聞き返してみる。

 「いいのいいの、せっかく部活が休みなんだから遊ばないと損だよ。なんてったって花の高校生ですよ、うちら」

 彼女は得意げな顔で答えた。多分顧問の先生はそんなつもりで休みにしたんじゃないよ、と言って突っ込むには同じクラスになってからの日が浅すぎた。代わりに曖昧な笑顔を返す。

 「誘ってくれたのは嬉しいけど、うちお父さんが怖くて。成績が悪いと怒られちゃうんだ。ごめんね」

 実際の父はそんな人ではないけど、他に言い訳も思い浮かばなかったので、適当な理由で断った。私が参加したところで空気を悪くするだけだろう。

 「そっかー残念。じゃあまた今度ね」

 特に食い下がることもなくあっさり引いてまた別の女子に声をかけに行った。私が必要だったわけではないのだろう。クラス分けがされてから一月程度ではコミュニティはまだまだ流動的だ、友達を作るのが得意でない私でも今の様に誘われたのはそのためだ。

 私は鞄を肩にかけて扉の所まで向かった。

 「じゃあ木村さん、また明日ね。バイバイ」

 誘ってくれたお礼に挨拶をして帰る。なるべく自然な笑顔を心掛けたが、うまくいったかどうかはわからない。

 「あ、うん。また明日―。ばいばーい」

 私の心配など微塵も気にした様子もなく、溌溂とした笑顔で返してくれた。

 教室を出て、靴を履き替えて、学校を出た。

 帰り道、今日の晩御飯の献立を考えた。父親と二人暮らしの我が家では、家事全般は私の役割だ。遊びの誘いを断ったのにはそうした理由もあった。何故母親がいないのか、聞いたことはなかった。聞いたところで私にはどうすることもできないし、父が話さないのなら不用意に聞き出さない方がいいと思っていたからだ。だから、私は自分が何者なのか知らなかった。

 晩御飯の材料は出来れば冷蔵庫にあるものだけでなんとかしたい。今日の分は何とかなるが、あまり長く持ちそうにもない、来週辺りには買い出しに行かなければならない。

 二人暮らしとはいえ、そう余裕のある生活ではない。それでも現状の暮らしが維持できているのは、ひとえに父の稼ぎによるものだ。今日も遅くまで働いてきた父に、作っておいたおかずを温めて出す。

 「はい、お父さん」

 「ありがとう。お前はいいのか?」

 「うん、先に食べたから」

 「そうか、じゃあいただきます」

 表情はほとんど変わらないが、笑っているのだろう。多分。なんとなくそんな気がする。

 食事中、父はほとんど喋らない。私も話しかけることは無いから、二人して無言の空間になる。食べ終わってようやく父が口を開く。

 「今日も美味しかった。ごちそうさま」

 「じゃあ食器洗っておくから、先にお風呂入ってきてよ」

 そう促した。父は言われるままに風呂場へと入り、私は父の食器を持って台所に立つ。この静かな日常が私の居場所だった。


 中間テストの最終日は午前中で正課が終了し、午後から放課後となった。

 多くの学生に憂鬱をもたらしたテストの嵐が過ぎ去り、束の間の台風一過に身を浸してホームルームを受けていると、前から配布プリントが流されてくる。

 進路調査書。

 高校2年の私たちにとってはまだ1年以上先のことの様にも思えるが、進路を確定させるには準備とその時間が必要になる。大人たちが経験をもとに決めた適切なタイミングなのだろう。私にはまだよくわからない。

 生徒が三々五々に散る中、私も帰宅しようと調査書を鞄に仕舞って席を立つと

 「紫門、ちょっといいか」

 担任に声をかけられた。

 「はい、何ですか?」

 呼び出される内容に心当たりはなかったが、素直に応じて担任の下へ寄る。そしてすぐに呼び出しの理由が判明した。

 「君の進路のことなんだがな、もう決まっているのか?」

 そう訊ねる担任の手元には、既に提出されたと思しき調査書が何部か束になっていた。私の高校はほとんどの生徒が大学に進学する。既に進路を明確に見据えている生徒が多くても不自然ではない。

 だが私は別だ。家庭の事情もあり、そう簡単に大学進学に踏み切ることはできない。進学をするにしても、なるべく経済的負担の少ない大学を選ぶ必要がある。そもそも進学をする必要があるのか、それも疑問だった。大学を出たところで研究者になるのでもないなら、もっと早くに働き始めるべきではないのか。いろんな考えが泡沫の様に頭の中に浮かんでは消えていた。

 担任も私の事情を理解しているので、あまり大きな声では話さないでいてくれた。その気遣いに応えるように、もしくは後ろめたさによるものか、返す言葉に力は込められなかった。

 「いえ、すみません、まだ決めかねてます」

 正直に伝えた。

 「そうか。いや良いんだ、思う存分悩めば良い。期限まではまだ時間があるからな、もし一人で抱え込めなければ、いつでも先生に相談しろよ。遠慮することはないからな」

 担任の口調は優しかった。それを伝えたかったのだろう。

 「わかりました、ありがとうございます。では失礼します」

 礼を言って教室を出た。

 担任はああ言ってくれたが、結局は私の進路だ、自分で決めなければならない。

 しかし具体的な答えは見つけられないままでいた。私はこれからどうなればいいんだろう。

 家についても日はまだ傾いていなかった。時間がある、何をしようか。テストが終わったところで勉強をする気にもなれない。進路について考えるにも良いアイデアは浮かびそうにない。

 ふと冷蔵庫の中身が尽きていることを思い出した。買い物に行こう、きっと気分転換になる。西の空を見ると暗雲が垂れ込んでいた、洗濯物だけ取り入れて折り畳み傘を持って出かけた。

 買い物に行く途中クラスメイトに出会った。

 「あ、紫門さん」

 「木村さん」

 気づいたのは同じタイミングだったが、先に声をかけられた。

 「どうしたの?こんなとこで」

 「冷蔵庫の中身を切らしてて、それでお買い物に」

 「へぇー、家のお手伝い?」

 嫌味なくにこやかに尋ねてきた。相変わらず笑顔が自然な人だと思う。

 「うん、まぁそんな感じ。木村さんは?」

 上手くはぐらかせず、恥ずかしくなってしまって質問を返した。

 「あたしは帰るとこ、担任に呼び出されててさー」

 どうやら採点の終わったテストの成績があまり良くなかったらしく、お説教をくらっていたようだ。彼女には彼女の悩みがあるのだろう。

 「ま、嫌なことは早いとこ忘れるもんだねー」

 杞憂だったようだ。

 「じゃあ、あたし部活だから」

 バイバーイ、と手を振りながら去っていった。

 少し話し込んでしまったのか、いよいよ空が暗くなり始めた。降り出さないうちに買い物を済ませよう、スーパーに向かう足を速めた。

 ……けれど私の思いもむなしく買い物を終えるころには雨が降り出してしまっていた。視界を奪うほどの大雨だ、街のざわめきも地面に打たれる雨の音に塗りつぶされている。折り畳み傘を開いては見たものの、頼りない腕を広げるばかりだ。こんなことなら大きい傘を持ってくるべきだった。仕方なく荷物を腕で抱えるように持ち、雨に濡れないようにする。傘は肩にかけて二の腕と胸で挟み込んだ。そのせいで視界は狭まったが、正面が見えているのでまぁ良しとしよう。

 ずれてくる傘を何度も直しながら雨の中を歩いて帰った。天気は最悪だったが、彼女が話しかけてくれたからだろうか、不思議と気分は軽かった。今晩のおかずはハンバーグにしよう、お父さん喜んでくれるかな。


 だから、私は気づかなかった。雨の音で聞こえなかったからか、視界を奪われて周りが見えにくかったからか、晩御飯の献立なんて呑気なことを考えていたからか。ともかく私は、強い衝撃に体を打たれたことでようやく理解したのだ。

 人間なんてこんなにもあっけなく死ぬんだって。脈絡なんて関係ない、伏線なんてありもしない、人生の終わりは唐突にやってくる。

 客観的に記すなら、16歳の少女が雨の日にスリップしたトラックの下敷きになって死亡した。どこにでもありふれている、誰にでもあり得る、ただのローカルニュースの一つに過ぎないような些細な出来事だ。


 横倒しになった視界には、散乱して雨に曝された食材と、道路に広がっていく私の血だまりが映った。

 あーあ、もったいないなあ、お父さんになんて言って謝ろうかなあ。

 でも、まあいっか。

 ――どうせ死んじゃうんだから。

 体を濡らす冷たい雨の感触も、全身を冒す耐え難い激痛も、意識とともに遠のいていった。

 

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